008.氷の瞳と誓いの剣
ディアス子爵家の次男、レオンが初めて北部のヴァレリオ公爵領に足を踏み入れたのは、十四の春だった。王都から馬車で三日を要する北の大地、針葉樹が多く立ち並ぶその地は、まだ寒さが残るものの、春の息吹が萌え始めていた。父に連れられての挨拶回り――という名目だったが、実質は「次男をどこかに押し込みたい」という大人の都合が透けて見えた。ディアス家は決して裕福ではなく、レオンは次男として家督を継ぐこともなく、かといって婿入り先も容易に見つかる身分ではなかった。父は、どこかの貴族の下で仕官の道を見つけることを望んでいたのだろう。
広大な公爵邸の門をくぐり、石畳の道を馬車が進む。北の雄と謳われるヴァレリオ公爵家は、その威容だけでもレオンの心を圧倒した。案内された応接室で待つ間も、彼は緊張に包まれていた。
「これより、ヴァレリオ公子ジュリアン殿下とお引き合わせいたします」
そう告げられて通された謁見の間は、重厚な木材と石で築かれ、北窓から差し込む光が、その厳かな雰囲気を際立たせていた。そこに現れたのは、まだあどけなさを残す十歳の少年だった。しかし、レオンはその姿を見た瞬間、言葉を失った。彼の心を捉えたのは、少年の瞳だった。
氷のように澄んだ漆黒の瞳。その奥に、確かな知性と、静かに燃え盛る炎が宿っているのが見て取れた。まだ幼い顔立ちでありながら、その眼差しには、年齢に不ぐさわしいほどの深遠さと、揺るぎない意志が宿っていた。
――これは、ただの子供じゃない。
レオンは本能的にそう感じた。十歳という年齢を忘れさせるほど、その少年は研ぎ澄まされていた。彼の纏う品格、迷いのない立ち居振る舞い、そしてその存在から放たれる、威圧ではない「重み」。それは、幼いながらも己の全てを賭して何かを追求している者の放つ、独特の輝きだった。
「お目にかかれて光栄です。ディアス子爵家の次男、レオン・ディアスと申します」
レオンは、自然と背筋を伸ばし、最上級の敬意を込めて頭を下げた。自分よりも四歳も年下であるにもかかわらず、その少年に向けた敬意は、形式的なものではなく、彼の心からのものだった。
「ようこそ、レオン殿。私はヴァレリオ家のジュリアンです」
年下の少年が一歩前に出て、堂々とした所作でレオンに手を差し伸べた。その手は、幼いながらもしっかりとレオンの手を握り、その手のひらからは、彼の体温と、確かな力が伝わってきた。
――この年で、こうも完璧な礼儀と風格を身につけているとは。
レオンは不思議だった。なぜ、この歳にして、彼はこれほどまでに“完成されている”のか。貴族の子弟ならば、ある程度の教養や礼儀を身につけているのは当然だが、ジュリアンのそれは、まるで長い時間をかけて磨き上げられた宝石のように、完璧な輝きを放っていた。そしてその謎は、ヴァレリオ公爵邸での滞在中に、次第に明らかになっていくことになる。
公爵邸での日々は、レオンにとって衝撃の連続だった。食事の際も、ジュリアンの席には常に政務報告の書類が山と積まれ、彼の父であるギュスターヴ公爵も、まるでそれが当然であるかのように、幼い息子に意見を求めていた。
「公子様は、夜もご自身で勉学を続けておられます。語学、政務、軍略、どれも抜かりがありません」
ある日の夕食後、使用人がどこか誇らしげにそう語るのを聞き、レオンは驚きを隠せなかった。自分たち同年代の子供たちが遊興に耽ったり、せいぜい家庭教師に言われるままに勉強したりしている間に、ジュリアンは自ら進んで、国を治めるために必要な知識を貪欲に吸収しているというのだ。
その言葉の裏にある実態は、並々ならぬ努力と、そして深い孤独の積み重ねだった。深夜、寝室への廊下を通りかかったレオンは、蝋燭の明かりが煌々と灯る書斎で、黙々と分厚い本を読み込み、流れるようにペンを走らせる少年の姿を幾度となく目撃した。彼の父である現公爵は外交と軍事に忙しく、公爵邸を空けることが多いと聞く。母親は早くに亡くなったという話も耳にした。ジュリアンの傍らには、常に誰もいなかった。彼が、その小さな肩にどれほどの重圧を背負っているのか、レオンは想像するしかなかった。
「……一人で、そこまでやる必要があるのか?」
ある夜、レオンは衝動的に書斎の扉を叩き、黙々と勉学に励むジュリアンに問いかけていた。その声は、自分でも驚くほど切羽詰まっていた。
少年は顔を上げた。少し驚いたような、しかし微笑みを崩さぬまま、静かに、そしてきっぱりと言い放った。その銀の瞳には、一切の迷いがなかった。
「必要があるかどうかではありません。――私が、そうあるべきだからです」
その言葉は、レオンの心臓に直接響いた。彼は、ジュリアンから放たれる圧倒的な覚悟の光に、ただ立ち尽くすしかなかった。
「誰が決めた?」
レオンは、無意識のうちに問い詰めていた。彼の心の奥底では、誰かに強制されているのではないか、という疑念が燻っていた。
「私が、決めました」
ジュリアンの言葉には、微塵の揺るぎもなかった。その声に宿る力強さ、そしてその瞳の奥に宿る揺るぎない信念は、年齢や立場では語れない“覚悟”の証だった。彼は、自身の進むべき道を、誰に言われるでもなく、自らの意思で選び取っていたのだ。
その夜、レオンは眠れなかった。十四歳の自分と比べて、なんと圧倒的な差だろう、と。自分は、ただ漠然と日々を過ごし、将来への道も親に決められるままだった。それに比べて、ジュリアンは十歳にして、すでに明確な目標を持ち、そのために血の滲むような努力を続けている。だが、不思議と悔しさはなかった。ただ、心が激しく揺さぶられた。彼の生き様は、レオンの魂に、これまでにないほどの強い衝撃を与えた。
翌朝、訓練場に立ち寄ったレオンは、さらに衝撃を受けることになる。ジュリアンが、年上の騎士たちと剣の稽古をしていたからだ。訓練場の隅に置かれた木剣を手に、彼は驚愕の光景を目にした。
ジュリアンは、体格でも力量でも圧倒的に劣るはずの騎士たちを相手に、互角に近い立ち回りを演じていた。その動きには一分の隙もなかった。まるで流れる水のように滑らかでありながら、瞬時に相手の攻撃を見切り、最小限の動きでそれを躱す。そして、相手のわずかな隙を見つけるや否や、寸鉄の如く正確な突きを繰り出す。誰も彼に手加減などしていない。むしろ、ベテランの騎士たちは、真剣そのものの表情でジュリアンに挑んでいた。それは、彼らがジュリアンを「子供」として見ていない証拠だった。そして、剣を収めた少年が、乱れる息一つなく言った。
「ありがとうございました。次回は、さらに反応を速めます」
礼儀正しく、真っ直ぐな眼差しで、彼は騎士たちに深々と頭を下げた。その姿は、ただの稽古ではなく、自らを高めるための真剣な鍛錬であることを物語っていた。
レオンは、その姿に目を奪われた。彼は、これまで見てきた貴族の子弟たちとは、あまりにもかけ離れた存在だった。
――これほどの意志を持って生きている十歳がいるのか。
その日以来、レオンは機会を見つけてはジュリアンの傍らに寄り添い、彼の行動を観察し続けた。彼の孤独な努力、妥協を許さない姿勢、そしてその全てを突き動かす原動力は何なのか、知りたいと強く願った。
「貴方は、なぜそんなに……突き詰めようとする?」
ある日、レオンは、ついにその問いをジュリアンに投げかけた。二人が、公爵邸の裏庭にある静かな東屋で、午後の陽光を浴びながら談笑している時だった。
「まだ十歳だ。周囲はもっと――気楽にしている年齢のはずだろ」
ジュリアンは少し黙ってから、まっすぐレオンを見た。その漆黒の瞳は、彼の心の奥底を見透かすかのように、深く、澄み切っていた。そして、静かに語り始めた。
「私は、母を早くに亡くしました。私を愛し、私のためにたくさんの可愛いものを作ってくれた人です。母が作ってくれたリスのぬいぐるみ、刺繍の施されたハンカチ……私の周りは、母の温かい愛情で満たされていました」
ジュリアンの声は、遠い記憶を辿るように、少しだけ感傷的だった。レオンは、彼の母親が早くに亡くなったと聞いていたが、それがジュリアンの心に、これほどまでに深い影響を与えているとは知らなかった。
「でも、それを失った日から、私は誓ったのです。二度と、“無力”な自分ではいないと」
その声に、震えるような情熱があった。それは、愛する者を守れなかった悔しさ、そして無力な自分への怒り。その強烈な感情が、彼の原動力となっていた。彼の瞳の奥に宿る「静かな炎」の正体は、この、過去の悲劇から生まれた、未来への誓いだったのだ。彼は、大切なものを失った痛みを知っているからこそ、二度と同じ悲劇を繰り返さないと、幼いながらも心に誓っていた。
「……なら、お前はもう、無力じゃない」
レオンは静かにそう言った。彼の言葉は、ジュリアンの心の奥底に染み渡るように響いた。十歳にして、これほどの重責を背負い、孤独な努力を続けるジュリアン。彼は、決して無力ではなかった。むしろ、誰よりも強く、そして孤高の存在として、未来へと向かっていた。
「だが、まだ一人だ。完璧であればあるほど、周囲は寄りつきにくくなる」
レオンは、ジュリアンの完璧さ故の孤独を感じ取っていた。彼の才能と覚悟は、時に周囲の人間を遠ざけ、彼を孤立させる可能性があった。彼は、そんなジュリアンを、一人にはしたくないと思った。
「……レオン殿?」
ジュリアンが目を見開いた。レオンの言葉は、彼の心の最も深い場所に触れたようだった。彼は、自分の孤独を誰かに指摘されることなど、これまで一度もなかったのだ。
「俺は――お前に仕える。いや、仕えたい」
レオンは、衝動的に、しかし真剣な眼差しでそう告げた。彼の心は、ジュリアンの生き様、その揺るぎない信念に深く心を打たれていた。それは、彼の人生において、初めて抱いた、明確な願望だった。
ジュリアンは、彼の言葉に耳を疑うかのように、信じられないという表情でレオンを見つめた。
「仕える、というのは……」
彼の言葉には、困惑と、そしてかすかな期待が入り混じっていた。
「家のしがらみや損得じゃない。今、俺がこの目で見たもの――その信念に、心を打たれたからだ」
十四歳の少年は、迷いなく、ジュリアンの前で誓いを立てた。彼の言葉は、彼の心からのものだった。それは、親の意向でも、家の都合でもない。彼の魂が、ジュリアンの魂に深く共鳴した証だった。
「お前が剣を求めるなら、俺は盾になろう。お前が光であるなら、俺は影を担う。お前が道を踏みしめる限り、俺は隣を歩く」
レオンの言葉は、ジュリアンの心に深く響いた。それは、彼が長年求め続けてきた、そして諦めかけていた「共にある者」の存在を告げる言葉だった。ジュリアンの唇が、わずかに震えた。彼の銀の瞳には、これまで見せたことのない、感情の揺らぎが浮かんでいた。
「……ありがとう、レオン殿」
その言葉とともに、ジュリアンの顔に、初めて、年相応の笑みがこぼれた。それは、彼の心を覆っていた氷が、ゆっくりと溶け始めたかのような、純粋で、そして美しい笑顔だった。
「だが、“殿”は要らない」
レオンは、親愛の情を込めて言った。
「ジュリアン。俺は、お前の剣になる。だから、親友でいさせてくれ」
ジュリアンは微笑み、静かにうなずいた。彼の瞳には、感謝と、そして深い信頼の光が宿っていた。
「……あぁ、レオン。これから、よろしく頼む」
この日、二人の少年たちの間に、強固な絆が生まれた。それは、主従のようで、兄弟のようで、しかし誰よりも深く互いを理解し、支え合う――最強の「親友」の絆だった。ジュリアンは、孤独な道を歩むことを選んだはずだったが、その道に、彼を支え、共に歩む者が現れた。そしてレオンもまた、自分の人生において、真に仕えるべき主を見つけた。彼らの友情は、これから始まる長い道のりの中で、互いを高め合い、支え合う、かけがえのない力となるだろう。ヴァレリオ公爵領の春の風が、二人の少年たちの新たな誓いを祝福するかのように、優しく吹き抜けていった。




