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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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007.永遠の約束


 静かな夜だった。風もないのに、どこか優しい揺らぎを感じる、不思議な夜。深い藍色の空には満月がぽっかりと浮かび、その光は大地に銀色のヴェールをかけていた。


 ギュスターヴ・ヴァレリオは、いつものように古い書斎の椅子に深く腰掛けていた。火の入っていない暖炉はひっそりと佇み、窓の外からは静かに降り注ぐ月明かりが、部屋の中に淡い陰影を描いている。読みかけの本は膝の上に開かれたまま、彼の意識は遙か彼方に漂っていた。それは、旅の疲れか、それとも満月の夜が持つ神秘的な力のためか。


 その時、足音ひとつなく、気配もなく、彼女はそこに現れた。まるで最初からそこに存在していたかのように、自然に、そして必然的に。


「……アメリア?」


 ギュスターヴは、その名を呼ぶ声が自分のものであることに、一瞬の戸惑いを覚えた。目の前に立つ女性は、彼の記憶の中で決して色褪せることのない、愛しい妻の姿そのものだった。静かに微笑む、柔らかな黒髪。記憶の中よりもさらに優しくなったような瞳。そして、何よりも懐かしい、透き通るような優しい声。


「こんばんは、ギュスターヴ」


 アメリア・ヴァレリオ。享年二十八でこの世を去った彼の妻が、まるであの日のまま、そこに立っていた。十七年という歳月が、彼女の姿に何の影も落としていないことに、ギュスターヴは心の奥底で驚きを覚えた。同時に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。


「……久しいな」


 ギュスターヴは、いつもの気難しい顔を崩さないままだったが、その口調だけは驚くほど柔らかかった。声に宿る震えは、彼自身にも気づかれないほど微かだったが、アメリアには確かに届いていた。


「また来たのか?」


 彼の問いかけに、アメリアは微笑んだまま、彼の隣の、もう一つの椅子に音もなく腰を下ろした。その仕草すら、彼の記憶の中のアメリアと寸分違わなかった。


「そうね。今日は特別だから」


 彼女の声は、まるで耳元で囁かれるように心地よく、彼の心を温める。


「……特別?」


 ギュスターヴは、その言葉の意味を測りかねて、アメリアの顔をじっと見つめた。彼女の目は、いつものように慈愛に満ちていたが、その奥には、彼には計り知れない深い意味が込められているように感じられた。

 アメリアはそっと目を伏せ、そして、彼の魂の奥底にまで響くような声で、告げた。


「ジュリアンとリシェルさんの間に、男の子が生まれたわ」


 その瞬間、ギュスターヴの目が、わずかに見開かれた。彼の心臓が、ドクンと大きく脈打つのを感じた。その知らせは、まるで天から降り注いだ祝福の光のように、彼の心を照らした。


「……そうか」


 言葉に詰まりながらも、その短い返事には、喜びと安堵、そして深い感動が込められていた。


「えぇ」


 アメリアはふわりと微笑み、両手を胸の前で組んだ。その表情は、まるで彼が長年待ち望んでいた言葉を、ついに口にすることができたかのような、満ち足りた喜びを湛えていた。


「その子——リアン君って言うの。ジュリアン(あの子)の産まれた頃にそっくりなの」

「……見たのか?」


 ギュスターヴが問うた。夢の中の出来事だと理解しながらも、彼は信じがたい思いで、彼女の言葉の真偽を確かめようとした。


 アメリアは、少しだけ遠くを見るような瞳で、静かにうなずいた。その視線の先には、彼には見えない、けれど確かに存在する世界が広がっているようだった。


「えぇ。産まれる前に——あの子、会いに来てくれたわ」

「どういうことだ?」


 ギュスターヴは、さらに詳しく知りたかった。彼の理屈では理解できない現象だが、目の前のアメリアの存在そのものが、すでに彼の常識を超えたものだった。


「夢だったのかしら。それとも、魂の通り道のようなものかもしれないけれど——」


 アメリアはギュスターヴの方を見つめた。その瞳には、彼が彼女に抱いている疑念や戸惑いを全て受け止めるような、深い理解と優しさが宿っていた。


「あなたの旅立つ前にも、私はこうして夢に出たでしょう?」

「……ああ」


 ギュスターヴは、旅に出る前に幾度となく見たアメリアの夢を思い出した。それは、彼の心を安堵させ、旅への不安を取り除く不思議な力を持っていた。


「同じこと。きっと、リアン君はお母様になるリシェルさんに会う前に、私のところへ挨拶に来てくれたのよ」


 アメリアの言葉は、彼の心を深く、そして温かく満たした。彼は腕を組み、その言葉を静かに噛みしめるように考え込んだ。


「……孫か」


 その言葉は、まるで彼の心に、新たな扉が開かれたかのような響きを持っていた。孫。彼の血を引く、新たな命。その存在が、彼の人生に新たな光をもたらすことを予感させた。


「そう」


 アメリアは、彼の喜びを分かち合うように、そっと微笑んだ。


「ジュリアンの子、か……」


 ギュスターヴの言葉には、ジュリアンがようやく幸せを見つけ、家族を持つことができたことへの、深い感慨が込められていた。彼が長年抱いてきたジュリアンへの心配が、ようやく解き放たれる瞬間だった。


「あなたの孫よ」


 アメリアの言葉は、その喜びをさらに確かなものにした。彼の血が、そしてアメリアの血が、未来へと受け継がれていくことの尊さを、改めて感じさせた。


 ギュスターヴはゆっくりと目を閉じ、そして小さく肩をすくめた。その仕草は、彼の喜びと、そして心の奥底に眠っていた安堵の感情を表しているようだった。


「……立派に育っているか?」


 彼の問いには、祖父としての、そして父親としての、深い愛情と期待が込められていた。


 アメリアは静かにうなずく。その瞳は、彼には見えない未来を、そしてリアンの成長を見守っているかのようだった。


「ジュリアンは、あなたによく似ているわ。」


 アメリアの言葉に、ギュスターヴはわずかに眉をひそめた。

「……違う。あいつは、あいつだ」


 彼は、ジュリアンが自分とは違う、彼自身の道を歩んでいくことを望んでいた。彼の悲しみや苦しみを繰り返すことなく、彼自身の幸せを掴んでほしいと願っていた。


「ふふ。それでも、あの子らしく大事にしているわ。家族を」


 アメリアの優しい笑い声が、彼の頑なな心を解きほぐす。ジュリアンは、確かに彼の息子でありながら、彼自身のやり方で家族を愛し、守っている。その事実が、ギュスターヴの心を温かく満たした。


 しばらくの間、二人は言葉なく、ただ並んで座っていた。月明かりが静かに部屋を照らし、二人の間には、十七年という歳月を超えた、深い絆が流れていた。それは、言葉を必要としない、魂と魂の対話だった。


 そしてギュスターヴはふと、窓の外を見やった。満月の光が、彼の心の奥底にある、まだ見ぬ旅路を照らしているかのようだった。


「……俺はまだ、そっちには行かんぞ」


 彼の言葉には、この世にまだ果たすべき役割があるという、彼の強い意志が込められていた。


「ええ。まだもう少し、旅を続けるでしょう?」


 アメリアは、彼の言葉を全て理解しているかのように、静かに微笑んだ。彼女は、彼の人生の旅路がまだ終わっていないことを知っていた。


「……ああ」


 ギュスターヴは短く答えた。彼の旅は、アメリアとの再会を果たすまでの、そしてジュリアンの幸せを見届けるまでの、終わりのない旅路だった。しかし今、彼は新たな光を見つけた。リアンという、未来への希望の光を。


 アメリアは優しく笑った。その笑顔は、彼に深い安堵と、そして未来への希望を与えた。


「大丈夫。あの子たちは、大丈夫だから」


 彼女の言葉は、彼の心を覆っていた最後の不安を取り除いた。ジュリアンとリシェル、そしてリアン。彼らは、互いを支え合い、愛し合い、幸せな家族を築いていくだろう。


 ギュスターヴはその言葉に深く頷き、しかし最後にぽつりと呟いた。彼の声は、これまでになく穏やかだった。


「……リアンには、俺の話を……」


 彼が言い終わる前に、アメリアははっきりとそう答えた。


「伝わっているわ」


 その言葉は、彼の心に温かい光を灯した。彼がリアンに直接話すことはできなくとも、アメリアが、そしてジュリアンとリシェルが、彼の存在を、彼の愛を、リアンに伝えてくれるだろう。


「きっとあなたのことも、私のことも。これからたくさん話すでしょう?」

「……ああ」


 ギュスターヴは静かに目を閉じる。彼の心は、深い満足感と安らぎに満たされていた。長年抱えてきた彼の重荷が、この瞬間に完全に解き放たれたかのようだった。


 そして、気付けば——目の前には誰もいなくなっていた。まるで最初から誰もいなかったかのように、アメリアの姿は、月明かりの中に溶けるように消えていた。揺れる蝋燭の炎だけが、優しく辺りを照らしていた。


 その夜、ギュスターヴはふっと微笑んで目を覚ました。彼の顔には、久しく見ることのなかった、穏やかな幸福感が浮かんでいた。そしていつものように、彼は静かに窓を開けた。ひんやりとした夜の空気が、彼の頬を撫でる。


「……アメリア」


 夜空を見上げ、小さく呟く。彼の声は、風に乗って遠くへ運ばれていく。


「良い報告が聞けたな」


 静かな風が、彼の髪を揺らした。彼の心は、アメリアとリアンの存在によって、新たな希望と安らぎに満たされていた。彼の旅はまだ続く。しかし、その旅路は、これまでとは違う、温かい光に満ちたものになるだろう。彼の心には、永遠に変わることのない愛と、未来への確かな希望が灯されていた。

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