06.仮面の下の素顔
シャルロッテの訪問以来、リシェルは“おしとやか令嬢”としての演技をさらに強化していた。ジュリアンの前ではもちろん、使用人たちの前でも、理知的で聡明な自分を封じ、あくまで清楚で従順な淑女を演じ続けていた。彼女は、王都の社交界で囁かれる「完璧な公爵夫人」の評判に恥じないよう、常に細心の注意を払っていた。完璧な微笑み、穏やかな話し方、慎ましい仕草。全てが計算し尽くされたものだった。朝、侍女のエミリアが用意するドレスに袖を通すたびに、彼女はもう一枚、見えない仮面を纏うような感覚に陥っていた。
だが、その完璧な仮面は、想像以上に彼女の神経をすり減らしていた。リシェルにとって、自己を押し殺し続けることは容易ではなかった。自由に意見を述べ、論理的に物事を分析し、行動的であることこそが、彼女の本来の姿だったからだ。エルノワーズ家での彼女は、常に好奇心旺盛で、知的な探求を好んだ。物事の本質を見抜く鋭い洞察力も持ち合わせていた。しかし、公爵夫人としての役割は、そうした彼女の個性をひたすら抑え込むことを求めているようだった。夜、一人になった時、彼女は深く息を吐き、無意識のうちに肩を揉むことが増えていた。鏡に映る自分の顔は、疲れが滲んでいるようにも見えた。
「奥様、今日は少し顔色がお優れませんわ」
侍女のエミリアは、リシェルのわずかな変化も見逃さなかった。彼女は、リシェルの演技がどれほどの負担になっているかを理解していた。日中の彼女の完璧な振る舞いは、夜になると、まるで張り詰めていた糸が切れるように、崩れ去ることをエミリアは知っていた。
「そうかしら? そんなことはないわ、エミリア。ただ、少し、空気を吸いたくて……」
リシェルはごまかすように微笑んだ。しかし、エミリアはそれ以上追求せず、ただ静かにリシェルを見守っていた。彼女の瞳には、主人への深い愛情と、少しの心配が宿っていた。
ある穏やかな午後、リシェルは疲れた頭を休めるため、ヴァレリオ公爵家の広大な庭園へと足を運んだ。春の柔らかな陽光が花々を照らし、風に揺れる草木の音が心を癒してくれるようだった。鳥のさえずりが響き渡り、咲き誇るバラの甘い香りが、彼女の心を少しだけ解きほぐす。彼女は、この庭園にいる間だけは、完璧な仮面を少しだけ緩めることができた。
リシェルは一人、小道を歩いていた。普段ならエミリアが付き添うのだが、今日は彼女に、疲労を悟られないように、少しだけ一人になりたかった。と、その時、活気ある男性の声が風に乗って聞こえてきた。
「ははは! 公爵様も、たまには羽目を外していただかないと! 硬いだけでは、いざという時に剣も錆びつきますぞ!」
その大らかな笑い声に、リシェルは思わず足を止め、声の方へ視線を向けた。声の主は、訓練場から続く芝生広場にいた。そこには、ジュリアンが剣を交えている姿が見えた。彼の相手は、屈強な体格をした金髪の男。逞しい腕と快活な笑顔を持ち、全身から陽気で明るい気配を放っていた。彼の放つ剣筋は、ジュリアンとは対照的に、力強く、そしてどこか粗削りな情熱に満ちていた。その動きは、まるで嵐のようだった。
(あの方が、騎士団長のレオン・ディアス様……)
リシェルはすぐに気づいた。ジュリアンの親友にして、直属の部下。公爵家の武門を支える中核を担う男。その噂は、王都でも聞かない日はなかった。堂々たる風格と豪胆さは、まさに噂に違わぬ人物だった。彼は、ジュリアンの唯一の弱点、つまり彼の完璧主義を崩せる人物としても知られていた。ジュリアンの側近として、彼が最も信頼を置く人物の一人だと聞いていた。
一方のジュリアンは、いつものように涼しい顔で剣を捌いていたが、レオンの勢いに応じて、徐々に本気の動きを見せていた。彼の剣筋は、無駄がなく、正確で、まるで研ぎ澄まされた刃のようだった。その真剣勝負の様子に、リシェルは目を奪われる。普段は執務室で書類を処理しているジュリアンの、こうした動的な姿を見るのは初めてだった。彼の流れるような剣さばき、力強い踏み込み。それは、彼が単なる貴族ではない、確かな武の心得を持つ者であることを示していた。彼の額には、わずかに汗が滲んでいる。その汗が、彼の銀髪にキラキラと光っている。
そんな中、レオンの放った一撃がジュリアンの剣を大きく弾いた。キン、と鋼の音が響き渡り、ジュリアンはわずかにバランスを崩した。その反動で彼の胸元から、ヴァレリオ家の紋章が刻まれた銀のペンダントが宙に舞った。それは、公爵家代々に伝わる、特別な護符のようなものだと、リシェルはセドリックから聞いていた。祖先が戦場で身につけていたという逸話もあり、ジュリアンも常に身につけている大切なものだった。
「あっ!」
リシェルは反射的に声を上げた。ペンダントは陽光に一瞬きらめきながら、庭の茂みの中へと落ちていく。その光は、まるで吸い込まれるかのように、あっという間に深い緑の中に消えた。
ジュリアンとレオンは剣を収め、すぐに茂みの方を見やった。二人の顔に、焦りの色が浮かぶ。特にジュリアンの表情は、普段の冷静さからは想像できないほど、わずかに動揺しているように見えた。
「公爵様! 申し訳ありません! 私の不覚で……すぐに探します!」
レオンが真顔で謝罪するが、ジュリアンは首を振った。
「構わない。重要なものだが、探せば見つかるだろう。それにしても、レオン。今日の君は冴えているな。もう少しで一本取られそうだった」
ジュリアンが茂みに歩を進めようとしたその瞬間だった。リシェルの体は、考えるよりも早く動いていた。
「あの……ジュリアン様。もしよろしければ、私が探しに参りましょうか?」
意を決したようにリシェルが声をかけた。彼女の心は、自分の中に抑え込んでいた行動力が、衝動的に顔を出したのを感じていた。驚いたように二人が振り返る。ジュリアンは、まさかリシェルが自ら名乗り出るとは思っていなかったのだろう。
「リシェル? 君はそこにいてくれればいい。ドレスが汚れてしまう」
ジュリアンは咄嗟に止めようとする。彼の脳裏には、淑女たるもの、そのような行為は慎むべきだという常識が過った。リシェルの柔らかなドレスが、泥や土で汚れるのを何よりも恐れた。だが、リシェルは既にスカートの裾を軽く押さえ、躊躇なく茂みに足を踏み入れていた。彼女の瞳には、かつてエルノワーズ家で失くした宝物を探すときのような、あの集中力が宿っていた。
「大丈夫です。こういうの、昔から得意なんです。目ざとく見つけるのには自信がありますから」
その表情には、ただの令嬢とは思えない真剣さと集中力があった。草をかき分ける手つき、目の動き、すべてが無駄なく、獲物を探す猟犬のような鋭さを宿していた。彼女の言葉と行動は、普段の“完璧なおしとやか令嬢”とはかけ離れたものだった。彼女の口調には、普段のたおやかさではなく、明確な意思が感じられた。
レオンが面白そうに目を細める。
「ほう……奥様、只者ではありませんな。まさか、奥様がご自身で探されるとは……驚きました」
ジュリアンは内心で(あああ、またこの顔だ……! 可愛すぎる……!)と理性を保つのに必死だった。リシェルが、彼が今まで見てきたどの貴族の令嬢とも違う、予測不能な魅力を持つ女性であると、改めて痛感していた。彼女の行動は、常に彼の予想を超えてくる。しかし、それがまた、彼を惹きつけてやまない理由でもあった。彼女のその真剣な表情が、普段の“完璧な令嬢”の仮面の下に隠された、彼女の真の姿を垣間見せているようだった。
数分後、リシェルの声が響いた。
「あ、ありました!」
茂みから姿を現したリシェルの手には、泥にまみれた銀のペンダントがしっかりと握られていた。彼女の指先には、かすかに土が付着している。しかし、その顔は、まるで宝物を見つけた子供のように、輝いていた。その瞳には、達成感と、わずかな誇りが宿っていた。
「ジュリアン様、これでしょうか?」
彼女が差し出したペンダントを受け取るジュリアン。その表情はわずかに緩み、安堵とともに微笑みが滲む。彼の心は、リシェルへの感謝と、彼女の意外な一面を見た喜びで満たされていた。ヴァレリオ家の紋章が、彼女の手に握られていたことが、彼には何よりも嬉しかった。
「ありがとう、リシェル。助かった。まさか、君がこれほど早く見つけてくれるとは」
その言葉にリシェルは満面の笑みを浮かべたが、すぐに“おしとやか令嬢”の仮面を被り直す。
「いえ……お役に立てて、光栄ですわ」
彼女は、はっと我に返ったように、いつもの冷静な表情に戻ろうとした。だが、その一瞬の素の笑顔は、ジュリアンの心に強く焼き付いた。
しかし、レオンはそんなリシェルの変化を見逃さなかった。彼は、リシェルの本性を、ジュリアンよりもはるかに早く見抜いていた。長年、ジュリアンの傍らで多くの人間を見てきた彼の洞察力は鋭かった。
「奥様、見事な働きでしたな! 騎士団の探索部隊も真っ青ですぞ! いやはや、公爵様も見る目がある! 公爵様が探しに行くよりも、奥様の方がよほど速かった!」
レオンの大声に、リシェルは思わず頬を染める。自分の本性を見抜かれたことに、少しばかり狼狽したのだ。彼が、自分の演技を見破っているかのように感じられた。
「そ、そんな……ほんの偶然ですわ」
「偶然で、あの茂みから一発で見つけるとは。いや、奥様……なかなかの胆力をお持ちと見受けましたぞ。騎士団にも、ぜひご教授いただきたいものですな!」
レオンはジュリアンの方をちらりと見やり、にやりと笑う。その目は「この奥様、面白い。公爵様、早く気付きなさい。彼女は、あなたが思っているようなか弱い淑女ではない」と言っているようだった。レオンは、ジュリアンの完璧主義が、かえって彼自身の幸せを阻害しているのではないかと、密かに感じていたのだ。
ジュリアンは内心で額に汗を浮かべていた。
(レオン……余計なことを……! これ以上リシェルの“本性”が露呈したら、彼女が苦しむことになる。彼女はきっと、この完璧な仮面を崩したくないと思っているはずだ……)
ジュリアンは、リシェルの真の姿を理解しながらも、彼女が完璧な淑女であろうと努力していることを知っていた。だからこそ、彼は彼女の演技を守ろうとしていたのだ。彼女が、自分の行動に自信を持つほど、彼が彼女の心に触れることが難しくなるのではないか、という不安も抱いていた。しかし、レオンの視線はどこか優しかった。そして彼の中には、リシェルがジュリアンの隣にふさわしい女性だという確信が、静かに芽生え始めていた。彼女の隠された強さと知性が、このヴァレリオ家を、そしてジュリアンの心を、きっと豊かにするだろうと。
こうして、豪胆でお節介な騎士団長レオン・ディアスとリシェルは、初めての出会いを果たした。レオンは、この完璧な公爵夫妻の間に流れる、どこかもどかしい空気を感じ取っていた。公爵夫人は公爵に本心を明かせず、公爵もまた、夫人の心の壁を破れずにいる。
そしてこの日を境に、レオンは密かに、二人の恋を後押しすべく“キューピッド作戦”を練り始めるのだった――。彼の脳裏には、すでに様々な大胆不敵な計画が渦巻いていた。それは、公爵夫妻の、まだ見ぬ未来を、少しでも明るくするための、レオンなりの精一杯の友情の証だった。彼は、ジュリアンがリシェルをどれほど大切にしているかを、友人として理解していた。だからこそ、彼が彼女の真の魅力に気づき、心を開けるように、そっと背中を押してやりたいと願っていたのだ。