50.解禁日
「心音、順調。力強く、規則正しいリズムを刻んでいます。胎動も問題なし。奥様の体調も、申し分ありませんね。これなら、もう通常の生活に戻っていただいても大丈夫でしょう」
医療室に設けられた診察台の上、リシェルはほんのり赤い頬のまま、小さく頷いた。ミルダの穏やかな声と健康状態の報告に、リシェルは安堵のため息をついた。
「ありがとうございます、ミルダ先生。先生のおかげで、すっかり元気になりましたわ」
リシェルは、心からの感謝を込めて言った。
「ただ……」
ミルダは、カルテに視線を落としたまま、言葉を区切った。その声には、何かを予期しているような響きがあった。
「え? ただ、何でしょうか? まだ何か、問題が?」
リシェルが、不安そうに尋ねた。
「おそらく、そろそろ“聞かれる”と思っておりましたので、先にお答えしておきます」
医療器具を片付けていたミルダが、不意にジュリアンを見やった。その視線は、真っ直ぐにジュリアンを捉えている。
「夜の生活についてです」
ミルダの言葉に、ジュリアンは真顔のまま、何の動揺も見せずに頷いた。彼の表情は、まるで領地の政務について尋ねるかのようだった。
「ぶっ!」
リシェルは、思わずむせた。まさか、ミルダがそんな直球な質問を、しかもジュリアンからではなく、先に切り出すとは夢にも思わなかった。顔がみるみるうちに赤くなる。
「……で、できるのですか? その……ええと……」
リシェルの声は裏返り、ほとんど蚊の鳴くような声になった。彼女は恥ずかしさのあまり、顔を覆いたくなった。ジュリアンは顔一つ変えず、ものすごく真剣に頷く。彼の真剣な表情が、リシェルを余計に困惑させた。
「無理をさせなければ、安定期ですので問題はありませんよ。むしろ、夫婦の絆を深め、精神的な安定にも繋がります」
ミルダはカルテを見直しながら、何の感情も込めず、淡々と答えた。その言葉は、まるで医学の教科書を読み上げているかのようだった。
「む、無理って……ええと、その、なんというか……具体的に、どういう……」
リシェルは、羞恥心と困惑で、言葉を選ぶのに苦労した。
「動きを激しくしすぎなければ、ですね。特に、お腹に負担をかけるような体勢は避けるべきです。あと、回数や体勢にも配慮を。お互いが快適に感じることが重要です」
ミルダは、さらに具体的に説明した。
「ちょ、ちょっと待ってミルダ先生っ! そんなことまで、わざわざ……!」
リシェルの抗議に、ミルダは首を傾げる。
「奥様、私は医学的に問題ないとお伝えしているだけです。患者様の健康と、精神的な安定は、医師として考慮すべき重要な要素です。むしろ、夫婦間の関係が良好であることは、奥様の精神的な安定にもなりますので、良きご関係を保つよう、お勧めします」
「よ、良き……!」
リシェルは、恥ずかしさのあまり、もう何も言えなかった。横でジュリアンが軽く咳払いをする。彼の目は、リシェルを真っ直ぐに見つめていた。
「ご助言感謝する、ミルダ。大変参考になった。ではリシェル、体を冷やさぬように。あとで……部屋で、ゆっくり話をしよう」
その言い回しが、逆に余計に恥ずかしい。リシェルは顔を覆いながら、そそくさと診察室を後にした。彼女の足元は、ふらつきそうになる。
(もう……! あの人はどうしてあんなに真顔で、あんなことを……っ。ミルダ先生も、もう少しくらい配慮してくれてもいいのに……っ)
けれど、嬉しくないはずがなかった。ジュリアンが、こんなにも真剣に、誠実に、リシェルとの時間を望んでくれているその姿に、リシェルは胸の奥で温かいものを感じた。彼の不器用なほどの真っ直ぐさが、リシェルの心を深く捉えて離さないのだ。
その夜。ろうそくの灯がちらちらと揺れている寝室。カーテンはすでに閉められ、外の光は一切遮断されていた。音の届かぬよう戸も閉じられ、二人の世界がそこにあった。静寂が、期待と緊張を一層高める。
リシェルが寝台に座ると、そっとドアが開いてジュリアンが入ってくる。彼は、いつもよりゆっくりと、まるで部屋の空気を壊さないように歩くその様子に、リシェルは小さく笑った。彼の緊張が伝わってくるようだった。
「そんなにゆっくり歩かなくても、大丈夫ですよ? 私はもう、すっかり元気ですから」
リシェルが優しく声をかけた。
「……つい慎重になってしまってな。君の体は、今は君だけのものではないから」
ジュリアンは、照れくさそうに頭をかいた。リシェルが手を差し出すと、彼はそれを取って隣に腰を下ろした。彼の手は、少しひんやりとしていたが、リシェルの手に触れると、すぐに温かくなった。
「……リシェル」
ジュリアンが、彼女の名を呼んだ。その声は、どこか切なさを帯びていた。
「ジュリアン様」
リシェルもまた、彼の名を呼んだ。
「会えなかった五日間、毎晩夢を見た。君と、私の子どもが、そこにいる夢だ」
ジュリアンの声は低く、少し震えていた。その瞳には、深い安堵と、そしてまだ残る不安が混じっていた。
「夢?」
リシェルが、不思議そうに問いかけた。
「ああ。リシェルがいて、子どもがいて、笑っていて――しかし、私の手が届かない夢だ。触れたくても、触れられない。遠くから見ていることしかできない。そんな、もどかしい夢だった」
ジュリアンは、苦しそうに顔を歪めた。
「……会えない時間が、こんなに苦しいとは思わなかった。まるで、君を失ってしまったかのような、空虚な気持ちだった」
「私も、同じ気持ちでしたよ。ジュリアン様がいないと、邸の中が、こんなにも広く、寂しく感じられるなんて……」
リシェルは、そっと彼の手に自分の手を重ねる。体温は少し高くて、安心できる温度だった。彼の指が、リシェルの指に絡みつく。
「だから……今夜は、そのぶん……」
ジュリアンの手が、おそるおそるリシェルの頬に触れる。彼の指は、優しく、リシェルの肌をなぞる。
「愛させてほしい。大切に、大切に……君の全てに、触れさせてくれ。君と子どもを、私の腕の中に感じたい」
リシェルは静かに頷いた。彼の瞳には、真剣な光が宿っていた。
彼のキスは、最初はとても慎重で優しかった。まるで、壊れやすいものを扱うかのように、細心の注意が払われている。何度も名前を囁かれ、額に、頬に、まぶたに、ひとつひとつ確かめるように口づけられる。その一つ一つのキスに、彼の深い愛情が込められていた。服を脱がせる手は、震えていた。ジュリアンの緊張が伝わってくる。
「怖いわけではないんだ。君を傷つけてしまうのではないかと、ただ慎重になりすぎて、情けない」
ジュリアンは、正直にそう言った。けれど、リシェルはその不器用な優しさに、涙が浮かんでしまいそうになる。彼の真剣な思いが、リシェルの心を温かく満たしていく。
「大丈夫です。ジュリアン様なら、絶対に優しいって、わかってますから。私のことを、大切に扱ってくれるって」
ようやく、その言葉で彼の緊張が解けたようだった。彼の顔に、安堵の表情が浮かぶ。肩に落ちた彼の髪がくすぐったくて、リシェルはくすりと笑った。吐息とぬくもりが重なり、やがてふたりの体温が一つになる。心地よい鼓動が、静かな寝室に響いた。二人の間にあった不安や寂しさは、愛によって溶かされていく。
その晩。何度も、何度も。「好きだよ、リシェル。愛してる。私のすべてだ」と、ジュリアンは繰り返した。その声は、渇望するかのようだった。
「もう、そんなに何度も言わなくても、わかっていますから……」
リシェルは、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに呟いた。
「言わせてくれ。私の心が、君に伝えろと叫んでいるのだ。リシェル、愛してる。リシェル……私の、たったひとりの妻だ」
「私も、ジュリアン様……大好きです。誰よりも、あなたを愛しています」
リシェルの言葉に安堵したように、彼は頬を寄せ、もう一度、優しく口づけた。夜の帳がゆっくりと落ちてゆく中、ふたりの間にあった寂しさも不安も、すべて溶けていった。彼らの愛は、その夜、一層深く、強く結びついた。
翌朝。目覚めたリシェルが寝台の中で小さく伸びをすると、すでに目を覚ましていたジュリアンが、優しく彼女の髪を撫でていた。彼の瞳は、愛おしそうにリシェルを見つめている。
「おはよう、リシェル。よく眠れたかい?」
「……おはようございます、ジュリアン様。はい、ぐっすり眠れましたわ。あの……私の頭、重くないです? ずっと腕枕してくださっていたみたいですけれど」
リシェルが、遠慮がちに尋ねた。
「ん? 重いのは私の愛のほうか? 君の頭など、羽のように軽い」
ジュリアンは、真顔でそう答えた。
「真顔で言わないでください! 恥ずかしいですわ!」
リシェルは、笑いながらジュリアンの胸を軽く叩いた。再び笑い声が弾ける。いつもの、でも少しだけ特別な朝だった。二人の間には、穏やかで温かい空気が流れていた。ジュリアンはふわりと笑いながらリシェルの腹に手を当てた。
「……昨夜、怒っていないといいな。私たちの子が」
ジュリアンの言葉に、リシェルは微笑んだ。
「怒るわけないですよ。むしろ、嬉しそうでした。私のお腹の中で、一緒に喜んでくれているようでしたもの」
「……え? それは……本当かい?」
ジュリアンが、驚いたように目を丸くした。
「ふふっ。夢の話ですけどね。前にも見たの。あなたにそっくりな、男の子。夢の中で、私たちに会いに来てくれたのよ」
リシェルが微笑むその隣で、ジュリアンが一瞬だけ息を呑んだ。彼の瞳には、深い感動と、そして未来への確信が宿っていた。
――まだ知らない、けれど、いつかきっと聞ける。あの子の名を、ふたりで呼べる日がくる。その日を、静かに願いながら。朝の陽が窓から差し込み、二人の姿を優しく照らしていた。彼らの愛は、この新しい命と共に、これからも育まれていく。




