49.どこに行っていたの?
扉の開く音がしたのは、昼下がり。秋の半ばでも、まだ強い日差しが中庭に降り注ぐ時間だった。書庫で、午後の読書を楽しんでいたリシェルが顔を上げると、遠くに見知った騎士団の一団が馬を引いて、公爵邸の門をくぐって戻ってくるところだった。彼らの鎧が、太陽の光を受けてキラリと輝く。
「お戻りです、公爵様の隊です! 皆様、門へ! 公爵様がお戻りになられました!」
誰かの声に使用人たちが一斉に門へと走り出し、公爵邸全体に活気が満ちた。侍女のエミリアが、弾かれたようにリシェルのもとに駆け寄った。
「奥様、旦那様がお戻りになりました! お待ちかねの公爵様ですわ!」
「え……!」
椅子から立ち上がったリシェルの胸が、どくんと跳ねる。ほんの五日間だった。しかし、彼がいないだけで、邸の中はいつもより広く静かで、そして、どこか少しだけ物足りなかった。リシェルは、ジュリアンの不在を想像以上に寂しく感じていたのだ。
「急ぎましょう、奥様! 玄関へ!」
エミリアの腕を借りながら、少し足早に邸の正面に出ると、すでに数台の馬車が到着していた。土埃を上げながら、馬たちが蹄を鳴らしている。そしてその中央、白馬から颯爽と降り立った男の姿を見つけたとき――リシェルの心は、一瞬で彼の元へと飛んでいった。
「……リシェル!」
「ジュリアン様!」
お互い、名前を呼び合ったその瞬間だった。
「リシェル!」
ジュリアンが、馬車から降りるやいなや、勢いよく駆け寄る。その勢いにエミリアが「お、お気をつけてください! 公爵様!」と声を上げるが、もはや止められるはずもない。彼の目は、リシェルだけを真っ直ぐに捉えていた。
「おい、公爵様! 妊婦さんなんだからだなッ――気をつけろよッ!」
ジュリアンを追ってきた騎士団長のレオンが、焦ったように叫んだ。彼の声には、心配と、そして呆れが混じっている。
「わかってる! 分かってる!」
リシェルの元にたどり着いたジュリアンは、ギリギリのところで抱きしめるのを思いとどまり、寸前で踏みとどまった。両腕をぐるぐる宙でさせながら、明らかに抱きしめたいのを必死に我慢しているその様子に、リシェルが思わず吹き出す。彼の顔は、喜びと、そして理性の間で葛藤しているようだった。
「おかえりなさい、ジュリアン様。……ちゃんと領地、見てきました? 住民の皆さんの声は、聞けましたか?」
リシェルが優しく尋ねた。
「もちろんだとも。どの村も順調に進んでいる。……が、その話は後だ。それよりも、もっと重要な報告がある」
そして、彼は高らかに手を鳴らす。その瞳は、期待に満ち溢れている。
「持ってこい! 大至急、運び込め!」
ジュリアンの号令とともに、次々と荷馬車の扉が開かれ、使用人たちが目を白黒させながら運び出したのは――予想だにしなかった、とんでもない品々だった。
「……まさか……これは……」
リシェルは、運び出されるものを見て、言葉を失った。
「はい、ベビーベッド三台だ! どれが一番寝心地いいか分からなくてな! 三つあれば、どれか一つは気に入るだろう! それからこれは手織りの産着で――王都でも有名な工房で特別に織らせたものだ! これはオーガニックコットンの布団、肌触りが最高級だと保証されている! こっちは手編みの靴下、これは木彫りのがらがらで――」
ジュリアンは、興奮したように品々を説明し始めた。彼の目は輝き、まるで子どもがおもちゃを披露するかのように、一つ一つを誇らしげに掲げる。
「ジュリアン様……」
リシェルは、呆れと感動が入り混じったような声で、ジュリアンの名を呼んだ。
「この瓶は、沐浴用の香油だ。ミルダが“これなら肌に優しい”って言っていたのを王都の薬師に確認して、私が直接買い付けに行ったものだ! あっ、これは抱き枕! 妊婦用だ! 君が楽に眠れるようにと、王都の最高級の職人に作らせた! こっちは……ええと、なんだっけな……ああ、これは離乳食用の食器セットだ!」
ジュリアンは、息をつく暇もなく説明を続ける。彼の周りには、まるで小さな商店が開かれているかのように、出産準備品が山と積まれていた。
「ジュリアン様?」
リシェルが、優しく、しかし確かな声でジュリアンの名を呼んだ。その声には、少しばかりの厳しさが混じっていた。
「ん? どうしたんだい、リシェル?」
ジュリアンは、ようやく我に返ったように、リシェルに視線を向けた。
「……あなた、領地視察に行ったんですよね? そのために、五日間も私を一人残して……」
リシェルが、にこやかに、しかし問い詰めるように言った。
「もちろん行ったとも! ちゃんと視察も、村長たちとの意見交換も、教育指導会も全部こなした! 父上が残した知恵と君のおかげで、どの村も順調だった!」
ジュリアンは、胸を張って答えた。
「で、これは……? まさか、その視察の合間に、これを買い集めたとでもおっしゃるのですか?」
リシェルの視線が、山と積まれた品々へと向けられた。
「……王都の商業地区経由で帰ってきたんだ。少し寄り道をしただけで……」
ジュリアンが目を逸らす。彼の顔には、微かな罪悪感が浮かんでいた。副官が横でため息をつきながら、小さな声で呟いた。
「一度戻ってきたのに“まだ買い足りん”と、馬車をそのまま引き返させたんですよ、この方。私は、てっきり何か緊急の用件ができたのかと……」
リシェルの表情は、呆れを通り越して、くすくすと笑い声へと変わっていった。ジュリアンの行動は、あまりにも彼らしい。
「あなたって本当に……もう、どうしたらいいのかしら……」
リシェルは、笑いながらジュリアンの腕を軽く叩いた。その眼差しは、深い愛情に満ちていた。
「……気が気じゃなかったんだ。君と子どもを残して、五日も離れるなんて。もし何かあったらと思うと、居ても立っても居られなかった。だから、せめて君たちが安心して過ごせるようにと……」
そう言ってリシェルの腹に手を伸ばそうとして――寸前で止めた。彼は、リシェルの体調を最優先に考えている。
「触れていいか? 君のお腹に……」
ジュリアンが、恐る恐る尋ねた。
「ええ、もちろんよ」
リシェルが優しく頷くと、ジュリアンはそっと、その大きな手をリシェルの膨らみ始めたお腹に当てる。まだ小さな膨らみ。しかしそこには確かに、二人の愛の結晶である命が宿っている。ジュリアンの手から、温かいぬくもりが伝わってくる。
「……ただいま、リシェル。そして、我が子よ。待たせてしまったな」
その声に、どこか誇らしげな笑みが宿っていた。彼の瞳は、深く、そして幸福に満ちていた。
その晩。リシェルは部屋のソファに座り、ずらりと並んだ品々を見つめながらため息をついた。部屋は、まるで小さな百貨店のように、出産準備品で埋め尽くされていた。
「……ベビーベッド三台……しかも全部デザイン違いって、どうするの、ジュリアン様」
リシェルが、困ったように呟いた。一台だけでも十分なのに、三台も並んでいると、さすがに途方に暮れる。エミリアが苦笑いしながら言う。
「きっと、“お子様が気に入るものを”というお気持ちなのでしょうね……。旦那様のお気持ちは、分かりますけれど」
「選ぶのは私たちなんだけどなぁ。赤ちゃんが、自分で選ぶわけじゃないのに」
リシェルはくすりと笑い、胸元のペンダントを触れた。その中には、こっそり用意した名付けのメモが隠されている。“リアン”。
(あなたの名前は、ジュリアン様が落ち着いたら……とっておきのサプライズとして、伝えるわ)
彼に言うそのときが楽しみだった。驚く顔、そして喜びのあまり、感極まって泣くかもしれない。きっと、また抱きしめたくなって、私を困らせるだろう。でも、それもいい。そのすべてが、愛おしい。
「……お父様が帰ってきたわね、リアン」
リシェルは、そっとお腹に手を当て、心の中でそう呟いた。灯りの落ちた窓の向こうで、風がやさしくカーテンを揺らした。ジュリアンとリシェル、そして、その愛しい未来の誰かと。この邸には、今日も穏やかな夜が訪れていた。彼らの愛は、新しい命とともに、これからも育まれていく。




