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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第2章 溺愛が昇華するまで

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48.まだ、秘密

「……本当に、行かなければならないのか?」


 朝の陽光が優しく邸を包むなか、玄関前には磨き上げられた馬車が待機していた。出発を控えるジュリアンは、隣に立つリシェルを名残惜しそうに見つめていた。彼の視線は、まるで一瞬でも離れたくないと訴えているかのようだった。視察先は、二人でこれまで精力的に取り組んできた領地改革の現場。先日、ギュスターヴが残していった知恵を元に進められた村の農業支援の進捗や、新しく導入した教育施策の様子を自らの目で確認し、住民の声を直接聞くためだ。


「あなたが行くと決めたのよ?  住民の声を自分の耳で聞くことこそ、真の領主の務めだって、あなたが私に教えてくれたことじゃない」


 リシェルが優しく、しかし確かな口調で言った。彼女の言葉には、ジュリアンへの信頼と、彼が定めた方針への支持が込められていた。


「……それは、そうだが。しかし、君を一人にしていくのは、どうにも心許ない。何かあったらと思うと……」


 ジュリアンは、まだ言い淀む。彼の視線は、リシェルの膨らみ始めたお腹へと向けられた。


「たった五日間よ。それに、ここにはエミリアもいるし、ミルダ先生も、料理長も、そして――」

「私もいる」


 最後に口を挟んだのは、騎士団長のレオンだった。彼の鎧が軽く鳴り、どこか呆れたような、しかし温かい口調でジュリアンの背に近づく。レオンの表情には、長年の付き合いゆえの理解と、そして少しばかりのからかいが混じっていた。


「公爵様。すでに荷も積み込みましたし、御者も待機しています。後は――貴方の未練だけです。そろそろ出発しないと、予定時刻に遅れますぞ」


 レオンは、淡々と、しかし有無を言わさぬ口調で言った。


「未練など……私はただ、リシェルの体調が心配なだけで……」

「顔に出ています。公爵様のお顔には、“あと三歩離れたら戻って抱きしめてしまいそうだ”と、そう書いてあります。まるで、遠征に行く兵士のようですな」


 レオンの言葉に、ジュリアンは一瞬たじろいだ。


「……読唇術でも使ったのか、君は。それとも、私の心が読めるのか?」

「長年の付き合いですので。それに、公爵様のことなら、手に取るように分かりますゆえ」


 レオンは、フッと笑った。リシェルは、くすくすと笑いながらレオンにぺこりとお辞儀した。


「レオンさん、ありがとうございます。どうぞジュリアン様を頼みますね。くれぐれも、無理をさせないでくださいね」

「はっ、喜んで。公爵様が二の足を踏まぬよう、全力で“引きはがして”参ります。奥様のご期待に沿えるよう、努めさせていただきます」


 そう言ってぐいとジュリアンの背を押すレオンに、ジュリアンが小声で唸る。彼の抵抗は、もはや形だけのものとなっていた。


「リシェル……本当に、大丈夫か?  無理はするな。何かあれば、すぐに使者を出してくれ。どんな些細なことでも構わない」


 ジュリアンの声には、まだ心配がにじんでいた。


「ええ。大丈夫よ。……あなたの子よ?  きっと強い子に育つわ。だから安心して、行ってらっしゃい」


 リシェルは両手でジュリアンの手を包み、その掌にそっと自分の頬を寄せた。彼女の手は温かく、ジュリアンに安心感を与えた。


「行ってらっしゃい、ジュリアン様。お気を付けて」


 その一言に、ジュリアンは目を細め、じんわりとした温もりを胸に抱いた。リシェルの言葉と温もりが、彼の心を優しく包み込んだ。


「……すぐ、戻る。何があっても、必ず、君たちの元へ」


 彼は名残惜しそうに、けれどきちんと一歩を踏み出した。レオンが馬車へ導く中、ジュリアンは何度も振り返り、リシェルはその見えなくなるまで手を振り続けた。馬車が公爵邸の門をくぐり、やがてその姿が見えなくなると、リシェルはそっと手を下ろした。




 その日の午後――リシェルは書斎にこもっていた。ジュリアンが旅立った静けさの中で、ようやく、ようやく――ひとつの“名前”が心に降りてきたのだ。それは、まるで天からの啓示のように、彼女の心に響いた。小さな羊皮紙を取り出し、丁寧にペンを走らせる。その一文字一文字に、彼女の願いと愛情が込められていく。


「“リアン”……絆、繋がり、そして希望」


 ジュリアンとリシェルの名から文字を取り、それぞれの名の意図を重ね合わせた名。リシェルの“リ”と、ジュリアンの“アン”。二人の名前が合わさることで、新しい意味が生まれる。男の子でも女の子でも響きが優しく、伸びやかなその音が、きっと我が子に似合うと、リシェルは確信していた。


「あなたの名前よ。リアン……。だけど……まだ秘密。ジュリアンには、まだ伝えないでおこう」


 彼女は紙を折り、慎重に封筒に入れた。朱いリボンをかけて、書斎の小さな引き出しへ大切にしまう。それは、二人だけの、そして生まれてくる子供との、特別な秘密だった。


(ジュリアン様が帰ってきたら、一番に伝えよう。彼がどんな反応をするか、驚く顔、見たいな。きっと、喜んでくれるはず)


 リシェルは、そっとお腹を撫でる。まだ名前を呼ばれたことのない小さな命に――心のなかで、初めての呼びかけをする。


(リアン。あなたに会える日が、楽しみよ。早く、あなたをこの腕に抱きしめたい)


 彼女の心は、温かい期待と愛情で満たされていた。




 夕刻、公爵邸の使用人たちが手際よく家事をこなす中、エミリアがそっとお茶を運んできた。書斎の窓からは、夕日が差し込み、部屋を茜色に染めていた。


「奥様、お疲れではありませんか。旦那様がいらっしゃらないと、やはり静かで……寂しいですね。お一人でいると、何かとご心労も多いかと存じます」


 エミリアは、リシェルを気遣うように言った。


「ええ……でも、少しだけ、この静けさが心地いいかもしれないわ。自分の心と向き合う時間が取れるから」


 そう微笑んだリシェルは、お茶を一口含むと、そっと手紙箱に視線を移した。そこには、リアンと名付けられた、未来への希望が込められている。


(あなたの帰りをゆっくり待つわ、ジュリアン様。そして、とっておきの報告をしてあげる)


 外では夕風が木々を揺らし、その葉擦れの音が、静かな部屋に響いていた。穏やかな日々のなかで、リシェルは静かに、ひとつの名前を心に灯し続けていた。


 その名はまだ秘密。


 でも、もう誰よりも――その名を愛していた。そして、その名前を呼ぶ日が来ることを、心待ちにしていた。未来への希望を胸に、リシェルは静かに、しかし力強く、日々を過ごしていくのだった。

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