47.加速する過保護
「エミリア、午前の日差しは強い。窓辺の椅子は左へ一尺下げてくれ。リシェルの身体に直射日光が当たってはならない」
「……は、はい。旦那様。かしこまりました」
いつも通り丁寧な返事をしたエミリアの手元がわずかに震えていたのを、リシェルはしっかり見逃さなかった。彼女はソファのクッションにもたれかかりながら、クスリと笑みをこぼした。ジュリアンの過保護ぶりは、もはや日常の光景となっていた。
「ジュリアン、そこまでしなくても……。少しの日差しなら、むしろ体に良いとミルダ先生も言っていたはずよ」
リシェルが優しく窘めた。
「いけない。陽光が直に当たる位置は、妊婦の身体に悪影響を及ぼす。と、ミルダ医師が言っていた。紫外線は肌に負担をかけ、長時間の露出はめまいや吐き気を引き起こす可能性があると」
ジュリアンは、真剣な顔で反論した。
(そんな細かいことまで……言ってたかしら?)
リシェルがソファでクッションにもたれつつ、そっと視線を流すと、書類片手に診察後の報告をしていたミルダが、まるでリシェルの心の声を察していたかのように、大きく溜息を吐いた。
「公爵殿、貴方の“聞き間違い”は、時に拡大解釈の域を超えています。私の言葉を都合よく解釈し、行動に移すのはおやめください」
ミルダの言葉は、氷のように冷たく、ジュリアンを真っ直ぐに射抜いた。
「……聞き間違いなどしていない。君が言ったはずだ。“長時間の直射日光は避けるべきだ”と明確に」
ジュリアンは反論しようとするが、その声にはわずかな動揺が混じっていた。
「私は“長時間の直射日光は避けましょう”としか言っていません。ソファの角度や椅子の配置まで指定はしておりません。それと、庭の芝生にクッションを敷いたり、家具の角を全て削り落としたりすることも、私の指示ではありません。あれは、過剰です」
ミルダの容赦ない言葉に、ジュリアンはたじろぐ。
「だが——万が一のことがあっては……」
「そうですか。では今日から公爵殿の朝食を、寝室の明かりの加減にあわせて三回出しに変更しましょうか? 公爵殿も、奥様と同じくらい、健康管理に気を遣うべきでしょう」
ミルダの氷のような眼差しを前に、ジュリアンが珍しく口を噤む。彼の顔には、微かな焦りの色が見て取れた。リシェルはくすくすと笑いを漏らしながら、ミルダに目で「ありがとう」と送った。ミルダの言葉は、まるで魔法のようにジュリアンを黙らせる効果があるらしい。ミルダは無表情で頷きつつ、薬包の束をエミリアに渡して言った。
「このハーブティーは夜用。胃を落ち着かせ、安眠を促す効果がある。こちらは朝、むくみ防止に。時間は厳守で、奥様が確実に服用できるように、目を離さないように」
「はい、心得ております、ミルダ先生!」
エミリアは、ぴしりと背筋を伸ばして返事をした。
「公爵殿がまた“勝手に調合”を始めたら即時呼ぶように。いいですね。以前のように、奥様の好物ばかりを集めたような栄養ドリンクを作るようなことがあっては困ります」
ミルダの言葉に、エミリアは思わず顔色を青ざめさせた。以前、ジュリアンがリシェルのために独自の「栄養ドリンク」を調合しようとして、大変な騒ぎになったことがあったのだ。
「……了解いたしました……」
妙に兵士の報告のような返事をするエミリアもまた、微妙に青ざめている。彼女の苦労が偲ばれる。リシェルはそっと横目で、料理長ジャンの方向を見る。彼はというと、厨房で試作したらしい“カルシウム強化ほうれん草のキッシュ”の皿を前に、呆然と立ち尽くしていた。その表情は、まるで遠い目をして現実から逃避しているかのようだった。
「ジャン、リシェルに必要な栄養素をすべて含んだ、無欠の朝食を設計した。これで毎朝出してくれ。味付けは、私が監修する」
ジュリアンの堂々たる言葉に、ジャンは額に脂汗を浮かべながらもかろうじて敬礼した。
「は……はあ……ですが、これを毎朝……? ……奥様のお好みもございますし、毎日同じ味では、食欲が……」
ジャンは、恐る恐る異議を唱えようとした。
「味よりも、栄養だ。健康第一だ。リシェルの健康と、生まれてくる子どもの健やかな成長のためなら、些細なことは問題ではない」
ジュリアンの言葉に、ジャンは肩を落とした。
(ジュリアン……わたし、味も楽しみたいのですが……)
リシェルはそっとエミリアと目を見合わせる。二人の間に、無言の連帯感が芽生えた気がした。それは、ジュリアンの過保護ぶりに抗う、女性たちの密かな結束だった。
そんな、ちょっと騒がしくも温かな日々の合間。リシェルは、自室の書き机で一人、筆を走らせていた。窓からは柔らかな日差しが差し込み、部屋を明るく照らしている。彼女の膝の上には、開かれた書物と、書きかけの紙があった。
「名前、名前……うう、どうしよう……」
紙面には、丁寧な筆跡でいくつかの候補が書き出されている。男の子の名前、女の子の名前、どちらにも合うような名前……様々な可能性を探っている。
「男の子だったら、“ジュリアン”から一字もらって……“リアン”とか? でも、それじゃ本人が恥ずかしがりそうだし、“リアム”とか……」
あの子は男の子だったけど、もし女の子だったら……と考えるとまた筆が止まる。ふわふわした可愛い名前が浮かぶたびに、ジュリアンの顔が脳裏に浮かび、「いや、もっと気品が必要かも」「ヴァレリオ公爵家の名にふさわしい、堂々とした名前でなければ」と悩む。
「いっそ、アメリア様の“ア”をもらって、“アリエル”とか……うーん……響きは綺麗だけど、公爵家の嫡男の名前として相応しいかしら……」
静かな部屋の中に、リシェルの小さな独り言だけが響いていた。彼女は、生まれてくる我が子に、最高の名前を贈りたいと、真剣に悩んでいた。そのとき——。
「リシェル、大丈夫か? 一人で閉じこもって、何か困っていることがあるのかい?」
ジュリアンの声とともに、ドアがそっと開かれる。彼は、リシェルの様子が気になって、執務室から様子を見に来たのだろう。
「ええ、元気よ。ただ、ちょっと名前を考えてただけ。なかなか良い名前が思い浮かばなくて」
リシェルは、慌てて書きかけの紙を、膝の上の本でぱたんと隠した。
「ああ、それなら私も、いくつか候補を考えてきたんだ。ちょうど、君と相談しようと思っていたところで……」
ジュリアンが近寄ろうとする。
「ま、まだナイショ! 完成するまでは、絶対に見ちゃダメよ!」
リシェルは、隠した紙をさらに抱きしめるようにして、ジュリアンの視線を遮った。
「……む。なぜだ? 君と私の子どもなのだから、二人で一緒に考えた方が良いだろう?」
ジュリアンは、納得がいかないような顔をした。
「ちゃんと自分の言葉で、ぴったりの名前を見つけたいの。私のインスピレーションを信じてほしいわ。それが、私から子どもへの最初の贈り物になると思うから。それまでは見ちゃダメ」
リシェルの真剣な眼差しに、ジュリアンは一瞬納得がいかないような顔をしたが、すぐに微笑みを浮かべて頷いた。彼の瞳には、リシェルへの深い愛情が満ちている。
「……わかった。君の気持ちを尊重しよう。だが、くれぐれも考えすぎて疲れぬように。名付けもまた、大仕事だからな。無理はしないように」
「はぁい、ジュリアン様の“名付けの講義”が始まらないうちに終わらせてみせるわ。きっと、あなたも納得するような、素敵な名前を見つけてみせるから!」
リシェルがにこりと笑ってそう返すと、ジュリアンは微かに赤面しながらも、そっとリシェルの肩に手を置いた。
「……楽しみだな。君と私の子ども……名前を呼ぶその日が、待ちきれないよ。どんな名前になるのか、今から胸が高鳴る」
その声は、どこまでも優しく、どこまでも幸せそうだった。二人の間には、温かい空気が流れていた。
夜、ミルダが書き記した一日の診察記録の片隅には、こんな一文があった。
《妊婦は極めて良好。胎児の成長も順調。心音も安定している。
ただし、公爵殿の過保護により、周囲の使用人に軽度の疲労が見られるため、段階的緩和指導を開始する。既に、ジャン料理長は胃潰瘍寸前、エミリア侍女は睡眠不足の兆候あり。
なお、名付け候補の中に“ミルダ”があるとの噂。真偽不明だが、もしそうであれば、公爵殿の過保護度がさらに悪化する可能性あり。要注意。》
ミルダの無表情の下の小さな苦笑を、誰も知らない——彼女の心の中では、公爵夫妻への温かい眼差しと、彼らの幸せを願う気持ちが揺れ動いているのだった。




