46.夢の中のあなたへ
――夢を見ていた。
陽だまりの中、どこか懐かしくも新しい場所にいた。あたりには白い花が咲き乱れ、その甘やかな香りが、微かに風に乗って運ばれてくる。小鳥たちの歌声が、柔らかく響き渡り、心を癒してくれるようだった。静かで、穏やかで、心がふんわりと、温かい毛布に包まれるような光景。まるで、ずっと探し求めていた安らぎの場所のようだった。
その中央に、ひとりの男の子がいた。まだ五歳にも満たぬほどの、小さな少年。彼の髪は、やわらかな銀色で、陽光を浴びてきらきらと輝いている。その輝きは、まるで小さな星のようだった。目元はどこか、凛とした印象を湛えており、幼いながらも確かな意志を感じさせた。どこかで見たような、見覚えのある顔立ちに、リシェルは心を奪われた。
少年は、花の間を無邪気に駆けてくると、ぱたと足を止め、こちらを真っ直ぐに見上げた。その瞳は、まるで吸い込まれるかのように、リシェルを見つめていた。
「……お母様」
その一言で、すべての空気が変わった。少年の声は、澄んでいて、リシェルの心の奥深くへと響き渡る。心の奥深くが、じんわりとあたたかくなる。それは、これまで感じたことのない、深く、そして甘い感情だった。まるで、ずっと遠くからこの呼び声を待っていたような――そんな感覚。探し求めていたものが、ようやく目の前に現れたような、満たされる思い。
(……お母様? 私が……?)
驚きよりも、愛おしさが先にこみ上げた。自分の子だと、直感的に理解できた。この小さな存在が、自分のお腹の中で育っている、かけがえのない命なのだと。
少年はにこりと笑って、つないだ手をゆっくり引いた。その小さな手は、リシェルをどこかへと導いているかのようだった。もう一方の手には、誰かの大きな手が握られている。その手は、優しく、しかし力強く、少年の手を包み込んでいた。その人物は、ゆっくりと、しかし確実に歩み寄ってくるたびに、はっきりと輪郭を成していった。彼の顔が、リシェルの視界に飛び込んできた瞬間、リシェルの心臓は高鳴った。
「――ジュリアン様……?」
間違いようもなく、愛しい夫、ジュリアン・ヴァレリオだった。ただし、今の彼とは少しだけ異なっていた。彼の表情は、普段よりも柔らかく、瞳には深い慈愛が満ちている。そして、今より少し貫禄が付いたようにも見え、穏やかな大人の男性としての魅力が際立っていた。ジュリアンは少年の手を取りながら、リシェルに向かって穏やかな目で微笑んだ。それは、リシェルだけが知っている、彼の“とびきり甘い”笑顔。誰にも見せない、リシェルだけの表情だった。
「紹介しよう、リシェル。私たちの――息子だ」
言われた瞬間、何かが胸に込みあげた。それは、喜び、感動、そして言葉にはできないほどの満たされていく感覚だった。二人の間に生まれた命。その未来の姿が、今、目の前にある。
リシェルはそっと、膝を折って少年と目線を合わせた。彼の瞳は、ジュリアンにそっくりで、吸い込まれそうなほど美しかった。
「あなたの名前は……? まだ、決まっていないのね?」
リシェルが優しく尋ねると、少年は首を傾げた。
「まだ、ないよ。でも、お母様がきっと、素敵な名前をくれるんでしょ? お父様がそう言ってたよ」
少年の言葉に、リシェルは思わず笑みがこぼれた。ジュリアンもまた、そんな風に話しているのだろうか。
「……ふふ。そうね。たくさん候補を考えておかないと。あなたにぴったりの、素敵な名前をね」
リシェルが手を差し出すと、少年はためらいもなくぎゅっと抱きついてきた。その小さな体は、あたたかくて、柔らかくて、そして、ひどく愛おしかった。その温もりが、リシェルの心に深く染み渡る。
「お母様、大好き!」
少年の純粋な言葉に、リシェルの目には涙が滲んだ。
「……ええ。私もよ、あなたのことが……とっても、とっても――」
――愛おしい。
その言葉を、胸の奥で呟いた瞬間、景色がふっと霞んだ。まるで、砂糖菓子が溶けるように、音もなく光景が薄れていく。白い花々が、光の粒子となって消えていく。小鳥のさえずりが遠ざかる。胸に残るこのぬくもりは、たしかに“現実”のようだった。あの感触、あの声、あの笑顔……そのすべてが、リシェルの心に深く刻み込まれた。
「……ん……」
リシェルは、静かに目を覚ました。朝の陽射しがレースのカーテン越しに差し込み、部屋の空気をやわらかく照らしている。鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
(……夢……だったのね)
夢の余韻が、まだ全身を包み込んでいる。思わず、胸元に手を当てた。そこには、じんわりとした温かさが残っているようだった。頬には自然と笑みが浮かんでいた。夢の中で感じた幸福感が、現実の朝にまで続いている。
視線を落とすと、まだ目立たないお腹がそこにある。小さな命が、確かにそこで育っていることを実感する。そっと両手で包み込むように触れる。その手は、まるで壊れ物を扱うかのように、優しかった。
「今の……あなたかしら? 夢の中のあの男の子は……」
問いかけるように、そっと囁いた。もちろん返事などないけれど、ぽこりとお腹の奥で、小さな波のような感覚がした気がして、思わず笑ってしまう。それは、気のせいかもしれないが、リシェルには、お腹の中の命が応えてくれたように感じられた。
「ふふ……そうだったら、嬉しいわ。夢の中で会ったあの子は、とても可愛かったから」
しばらくそのまま目を閉じて、リシェルはお腹に話しかけた。その声は、優しく、そして愛情に満ちていた。
「あなたのお父様は、あなたが生まれてくるのを、誰よりも楽しみにしているのよ。少し……いえ、かなり心配性だけれど……毎日、私の体調を気遣って、過保護なほど守ってくれるの」
リシェルは、ジュリアンのことを思い出し、くすくすと笑った。
「でも、ほんとうはとっても優しい人なの。真面目で、可愛いものが大好きで、でも、あなたと私のことを、世界で一番大切にしてくれているの。どんな時も、私のことを一番に考えてくれる、素敵な人よ。だから……安心して、すくすく育ってちょうだいね。元気な声で、早く会いたいわ」
そう語りながら、リシェルの指先は自然とお腹を撫でていた。彼女の心は、未来への希望と、新しい命への愛で満たされていた。
その日、朝食の席でジュリアンが言った。彼の瞳は、リシェルの顔を優しく見つめている。
「リシェル。何か、よく眠れていたようだね。寝顔がとても……穏やかだった。まるで、良い夢でも見ていたかのように」
ジュリアンの言葉に、リシェルは微笑んだ。
「ええ。いい夢を見たの。忘れられないくらい、素敵な夢を」
「夢? どんな夢だったんだい?」
ジュリアンが、興味津々に尋ねた。
「そう――あなたと、あなたにそっくりな子どもが出てくる夢。……あなたが“紹介しよう、私たちの息子だ”って、夢の中で言ってくれたの」
リシェルは、夢の内容を、少し照れながら話した。ジュリアンの顔は、一瞬にして驚きに満ちた。彼は、言葉を失ったように目を見開き、そしてふっと笑った。その笑顔は、これまでにないほど深く、そして幸福に満ちていた。
「……まるで、私の夢でもあったようだ。君が見た夢は、きっと、いつか現実になる。そうなるように、私が君と君の子を守ろう」
ジュリアンの声は、震えていた。彼の心の中にも、リシェルと同じような、未来への希望が芽生えているのだろう。
「ええ。私も、そんな気がしたの。本当に、温かくて、幸せな夢だったから」
リシェルは、静かに微笑みながら言った。二人の目が合い、何も言葉を交わさずとも、胸の奥が通じ合っているのを感じた。彼らの間には、言葉以上の深い絆と理解が育まれていた。
秋の訪れとともに、ヴァレリオ公爵邸には新しい季節が巡っていた。庭には花々が咲き誇る。家族の気配、未来への希望、それを抱いて――。
ジュリアンとリシェルは、いままで以上に強く優しく、互いを想い合いながら日々を過ごしていた。ジュリアンの過保護ぶりは相変わらずだが、それもまた、リシェルにとっては愛おしい日々の彩りとなっていた。次第に膨らんでいくお腹とともに、二人の愛もまた、静かに、しかし確かに育まれていく。夢で見た“未来”は、きっともうすぐそこに。リシェルは今日もそっとお腹に話しかける。
「また、夢で会いましょうね――わたしたちの、かわいい子。お父様も、あなたに会えるのを、心から楽しみにしているから」
そして、ヴァレリオ公爵邸は、愛と希望に満ちた、家族の温かい家として、新たな歴史を刻んでいくのだった。




