45.溺愛と過保護のあいだ
「では、引き続き無理のない範囲で、軽い運動と日光浴を心がけてくださいね、奥様。くれぐれも、決してご無理はなさらないでください」
侍医ミルダは、眼鏡の奥の穏やかな目でリシェルに言った。彼女の診察は、いつも細やかで丁寧だ。
「はい、ありがとうございます、ミルダ先生。おかげさまで、体調もすっかり良くなりましたわ」
リシェルは、ようやく戻ってきた穏やかな日常に小さく笑う。ミルダは、リシェルの笑顔を見て、安堵したように頷いた。
懐妊がわかってから数週間が経ち、つわりの峠も越え、体調も安定してきた。以前のような激しい吐き気や倦怠感は影を潜め、食欲も戻ってきた。気候も穏やかになり、邸の庭には早咲きの花がちらほらと顔をのぞかせ、甘い香りを漂わせている。小鳥のさえずりが、心地よく響く。
「エミリア、少し、お庭を歩いてみようかしら。久しぶりに、外の空気を吸いたくなりましたわ」
「かしこまりました、奥様。ですが、無理はなさらないでくださいね。何かあれば、すぐに私にお声がけください」
エミリアの付き添いで、久しぶりに外へ出る準備を整えたリシェルは、晴れやかな気分で中庭への扉を開けた――その瞬間。
「……え?」
広がっていたのは、見慣れたはずの庭ではなく、明らかに“改修”が入った光景だった。リシェルは、目を瞬かせ、目の前の光景を理解しようと努めた。
「ええと……この、手すり……前は無かったような……? 庭の小道の脇に、こんなに頑丈な手すりが設置されているなんて……」
リシェルが、呆然とした声で尋ねた。
「はい、奥様。旦那様が“万が一、奥様が足元を滑らせてはいけない。段差は危険だ”と仰って、急遽設置させたものでございます」
エミリアが、困ったような、しかしどこか誇らしげな顔で答えた。
「この芝の、ところどころに敷いてあるクッションのようなものは? まるで、大きなマカロンみたいですが……」
リシェルは、芝生の中に点々と置かれた、色とりどりの柔らかいクッションを指差した。
「転倒防止の……ええ、旦那様が“奥様が転倒なさった際に、万が一にもお怪我をされないよう、柔らかくしておけ”と……」
「……この、花壇の囲いまで丸く削られているのは……? 前は、もっと角ばっていたはずなのに……」
リシェルは、花壇の縁が、丁寧に丸く削り取られていることに気づいた。
「角はぶつけると危ないと……旦那様が“奥様がお散歩中に、うっかり角にぶつかってしまっては大変だ”と仰って……」
「……え、ちょっ……この木、伐られてる!? 前まで大きな枝が伸びてたはずなのに、すっかりなくなっている……」
リシェルは、かつて見事な枝ぶりだった大木の幹が、ごっそりと伐採されているのを見て、絶句した。
「落ち葉が滑る原因になるから、伐りましょうと……旦那様が……“奥様が、落ち葉で滑って転倒するようなことがあってはならない”と、すぐに指示を出されました」
エミリアの言葉に、リシェルは言葉を失った。庭全体が――いや、屋敷中が、見事に“安全第一”仕様に塗り替えられていたのである。それは、ジュリアンのリシェルと、そして生まれてくる子供への、偏執的なまでの愛情の証だった。邸内に戻ると、さらなる“過保護の魔改造”が明らかになった。
◆階段には、通常の手すりの他に、もう一本、低い位置に二重の手すりが設置されていた。まるで、子供でも安全に登り降りできるように、と作られたかのように。
◆各段の角は、すべて分厚い革のクッションで覆われ、床には滑り止めの絨毯が敷き詰められていた。
◆リシェルの私室には、暖炉の前に転倒防止ガードが設置され、床にはふかふかの絨毯が敷かれていた。まるで、絨毯の上以外は歩いてはいけないとでも言いたげに。
◆常備薬は、医師の緊急連絡鐘とともに、リシェルの手の届く範囲に三か所に分けて収納され、いつでも取り出せるようになっていた。
さらには――。
「この、家具の角……丸く削り直してありますね……? 以前は、もっとシャープなデザインだったのに……」
リシェルが、書斎の机の角が丸くなっているのに気づいた。
「ええ、奥様。旦那様が“万が一にも奥様がお腹をぶつけてはいけない”と、全ての家具の角を職人に命じて削り直させたものでございます」
エミリアは、淡々と答えた。
「この鏡台の前に置かれたクッションは?」
リシェルは、化粧台の前に置かれた、大きな柔らかいクッションを指差した。
「座るときに膝をついたりしてもいいようにと……旦那様が“奥様が膝をついて体をひねるようなことがあってはならない”と、特別に作らせたものです」
「……これは、ベッドサイドの――階段? まるで、小さな踏み台のようですけれど」
リシェルは、ベッドの横に置かれた、低い階段を見て目を丸くした。
「はい、お腹が大きくなってきたら、登り降りがしやすいようにと……旦那様が“奥様がベッドに上がる際に、少しでも負担をかけたくない”と仰って、寝る間も惜しんで設計図を引いていらっしゃいました」
リシェルは、ほとほと呆れたように微笑んだ。
(ジュリアン様……どこまで、心配してくださるのかしら……。私のために、ここまでしてくれるなんて……)
その改修は、ジュリアンの深い愛情と、そして尋常ではないほどの心配症ぶりを物語っていた。
その日の夕刻。執務室にて政務を終えたジュリアンが、部屋に戻ると、ちょうど暖炉前のソファにリシェルが座っていた。彼女の顔には、呆れと、そして愛しさが入り混じったような微笑みが浮かんでいる。
「おかえりなさい、ジュリアン様。今日もお仕事、お疲れさまでした。お顔色が、少し疲れていらっしゃるように見えますけれど……」
リシェルが、優しく声をかけた。
「ありがとう。……君の様子が気になって、急いで片づけてきた。君が元気でいてくれるなら、私の疲れなど、何でもない」
ジュリアンは、リシェルの隣に座り、彼女の手を握った。
「ふふ、大丈夫ですわ。お庭も歩いて、日差しも浴びて――ミルダ先生の言う通りに、運動もしましたもの」
「日傘は? 防風のマントは羽織っていた? 日差しが強すぎると、君の肌に負担がかかる。風が冷たくなると、体温が下がってしまうし……」
ジュリアンは、矢継ぎ早に質問した。
「ええ、ええ。全部、完璧に。エミリアが、すべて準備してくれましたから。さすがにお庭の様子には驚きましたけれど」
リシェルは、苦笑しながら答えた。
「……あれは、必要だと思ったんだ。どこに危険が潜んでいるかわからない。私は、公爵としても夫としても、君と子の安全を最優先に考えたい。君たちを守るためなら、どんなことでもする」
ジュリアンの声には、深い決意と、愛情が込められていた。
「ええ、わかっておりますわ。ジュリアン様の、そのお気持ちは……。けれども、これだけ徹底されると、もはや兵站の配置みたいで……なんだか、私の体が、どこか戦場にでもいるかのように感じてしまって」
リシェルは、思わず本音を漏らした。
「ほんの散歩のつもりだったのですが……少し、戦場に出た気分でしたの。私の身一つで、こんなにも大掛かりな準備をさせてしまうとは……」
リシェルが微笑むと、ジュリアンもようやく小さく笑った。彼の表情には、リシェルの言葉を受け止めた安堵と、そして彼女を愛するがゆえの複雑な感情が混じっていた。
「君に笑ってもらえるなら、それだけでいい。どんなに呆れられても、君が、君たちが、無事でいてくれるなら、私は何も望まない」
「……ジュリアン様」
リシェルは、ジュリアンの手を握り返した。彼の言葉は、彼女の心を深く揺さぶった。
(ほんとうに、この方は――どうしてこうも、愛しすぎるのかしら。こんなにも、私を愛し、心配してくれるなんて……)
その夜。リシェルは暖かく整えられた寝台の中で、そっとお腹に手をあてた。まだ、わずかに膨らみ始めたばかりのお腹に、新しい命が宿っている。
「……まだ、小さな命ですけれど……きっと、貴方に似て、真面目で、可愛いものが大好きで、そして誰よりも優しい子に育つのでしょうね」
彼女の瞳は、柔らかな光を灯していた。その光は、母となる喜びと、未来への希望に満ちている。
ヴァレリオ公爵邸は、今や“溺愛”と“過保護”が入り混じる、最も平和な砦となっていた。ジュリアンの徹底した安全対策は、時にリシェルを困惑させることもあったが、それもまた、彼の愛情の深さの証だった。もちろん、そんな主人の行動に対して、執事セドリックや侍女頭マルグリットは日々頭を抱えていたが――。エミリアだけは、にっこりと笑っていた。
「これでいいんです。お二人は、いま世界で一番幸せなんですから。奥様も、旦那様の愛情を心から喜んでいらっしゃいます」
そしてその幸せは、やがて“家族”というかたちになって、さらに広がっていくことになる。新しい命の誕生は、ヴァレリオ家に、これまで以上の喜びと温もりをもたらすだろう。――それは、まだ少し先の未来の話。しかし、その未来は、希望に満ちていた。




