05.嵐の予感
その日は朝から、しとしとと雨が降り続いていた。王都イシュタリアの空は鉛色に曇り、公爵邸の庭園も深い霧に包まれている。リシェルは執務室の窓辺に立ち、ゆっくりと湯気の立つ紅茶を口に含んだ。カップから立ち上る温かい香りが、どんよりとした空気にわずかな彩りを与えている。今日は来客も外出もなく、久しぶりに落ち着いた一日になりそうだった。
「今日は、お時間に余裕がございますね」
控えていた侍女のエミリアが、いつもの調子で言った。彼女の視線は、リシェルの手元から、窓の外の雨へと移る。
「ええ。雨のおかげで、午後の挨拶まわりも中止になったそうよ」
リシェルは、ほっと息をついた。公爵夫人となってからというもの、休まる暇もないほどに公務が続いていたのだ。
エミリアはにやりと笑った。
「ようやく、奥様の休息日ですね。たまには羽を伸ばされてもよろしいかと」
リシェルは笑いながらも、ふと窓の向こうに目をやった。霧に霞む庭園の奥、ガラス張りの温室がぼんやりと見える。結婚して数日が経ったが、あの温室にはまだ一度も足を運んでいなかった。広大な敷地の中でも、そこだけはまるで忘れられた場所のように、ひっそりと佇んでいるように見えた。
(温室……トーマさんが大切にしている場所。どんな花が咲いているのかしら)
以前、庭師のトーマがその温室について語る際、彼の顔に浮かんだ優しい表情が、リシェルの心に深く刻まれていた。使用人たちの話では、珍しい品種の花が多く育てられているという。心惹かれるものを感じたリシェルは、羽織をひとつ手に取ると、静かにエミリアに告げた。
「少し、温室の方へ行ってみるわ」
エミリアは心配そうな顔をしたが、リシェルの強い意志を感じ取ったのか、何も言わずにただ頷いた。リシェルは使用人に傘を用意させ、一人、雨の中へと足を踏み出した。
雨の中、傘をさして濡れた石畳を歩く。しっとりとした空気が肌に優しく、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。雨粒が傘を叩く音だけが、静かに響いていた。屋敷の喧騒から離れ、自然の中に身を置くことで、リシェルの心は少しずつ落ち着いていく。温室の扉に手をかけると、きぃ、と静かな音を立てて開いた。まるで、秘密の場所への入り口であるかのように。
中に一歩足を踏み入れた瞬間、リシェルは思わず息を呑んだ。
温室の中は、まるで別世界だった。外の雨音は遠ざかり、代わりに土と草の香り、そして花々の甘い匂いが充満している。温度と湿度が完璧に保たれた空間では、色とりどりの花々が咲き乱れ、水滴を宿した葉がキラキラと光を反射する。まるで、宝石を散りばめたかのようだ。
(綺麗……)
リシェルは思わず微笑みながら、そっと歩を進めた。一つ一つの花を慈しむように、ゆっくりと眺めていく。その時——
「……ん?」
奥のほうから、何かを動かす小さな音が聞こえてきた。土を掻き混ぜるような、静かな物音だ。誰かが先に温室に入っていたのかと、リシェルは少し驚いた。
そっと近づいて覗き込むと、そこには一人の男性がしゃがみ込んでいた。淡い銀の髪に、整った背中。見慣れたその姿に、リシェルは驚きの声を漏らした。
「ジュリアン様……?」
ジュリアンは顔を上げると、一瞬驚いたように目を見開き——すぐに、いつものように無表情に戻った。その手には、小さなスコップと、土のついた鉢が握られている。彼の無表情の裏に隠された動揺を、リシェルは知る由もなかった。
「リシェル。どうしてここに?」
彼の声は、いつも通り冷静だった。
「雨で外出がなくなったので……少し、気分転換をと思って。ジュリアン様こそ、何を?」
ジュリアンは手に持った白い花を見下ろしながら答えた。それは、可憐な白い花弁を持つ、どこか儚げな花だった。
「この花は、北部の領地にしか咲かない特別な品種だ。栽培が難しく、少し元気がなかったので、様子を見に来た」
普段の冷静沈着な口調とは違い、どこか柔らかい声音。それは、彼が心からその花を慈しんでいる証拠のようにリシェルには聞こえた。リシェルは、不意に胸の奥が温かくなるのを感じた。
(この人も、こうして手を汚して花を育てているんだ……完璧な公爵の、意外な一面……)
彼女は、ジュリアンに対して抱いていた「冷たい機械のような人物」という印象が、少しずつ崩れていくのを感じていた。
「温室は、初めてか?」
「はい。とても素敵な場所ですね。こんなにも美しい花々が、ここで育てられているとは知りませんでした」
「案内しよう」
ジュリアンは立ち上がると、手についた土を丁寧に払った。その仕草は、どんな些細な行動にも手を抜かない、彼らしい完璧さがあった。そして、リシェルの隣に立ち、ゆっくりと歩き出す。
花の名、育て方、香りの特徴。彼の言葉はどれも静かで落ち着いていたが、その話す姿には、明らかに愛情がこもっていた。彼は、一つ一つの花にまつわる物語を、まるで詩を語るかのように紡いでいく。リシェルは、その真剣な横顔を見つめながら、彼の新しい一面に触れていることに、心のときめきを感じていた。
リシェルはその横顔をちらりと見つめながら、彼の話に聞き入っていた。その時、ふと足元の石に躓いた。雨で湿った石畳は、少し滑りやすくなっていたのだ。
「きゃっ——」
体がぐらりと傾ぐ。その瞬間、ジュリアンの手がすっと伸び、リシェルの腕をしっかりと支えた。彼の指が、彼女の腕に触れる。
「大丈夫か?」
低く、優しい声。触れた手のひらが熱い。リシェルは胸がどきんと跳ねるのを感じた。彼の温かい体温が、ドレス越しにじんわりと伝わってくる。
「は、はい……すみません、ありがとうございます……」
慌てて距離を取るリシェル。ジュリアンはすぐに手を離しながらも、その指先に残った感触に内心では(柔らかい……尊い……)と混乱していた。彼の理性は、またしても限界に達しそうだった。
二人の間に流れる静寂。だが、それは決して気まずいものではなかった。むしろ、お互いの存在を、今までよりも近くに感じられる、不思議な温かさがあった。外では雨が降り続いている。けれど、この温室の中だけは、二人きりの時間がゆっくりと流れていた。花々の甘い香りが、その静かな時間を包み込んでいる。
「また……来てもいいですか?」
リシェルがぽつりと呟いた。彼の温室に対する愛情を感じ、自分もこの特別な場所を、彼と共有したいと願ったのだ。
ジュリアンは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから静かに頷いた。彼の表情は相変わらず無表情だったが、その瞳の奥には、明らかな喜びの光が宿っていた。
「もちろん。好きな時に来ればいい。いつでも、君を歓迎する」
雨の日の温室で育まれた、小さな芽。それは、まだ言葉にできない、でも確かな何かだった。二人の間にある見えない壁が、少しだけ低くなったようにリシェルには感じられた。
温室での一件以来、リシェルとジュリアンの間には、どこか柔らかな空気が流れるようになっていた。ジュリアンは相変わらず感情を抑えたままだが、その瞳の奥に時折浮かぶ優しさに、リシェルは心の奥が温かくなるのを感じていた。それは、彼が完璧な公爵の仮面を被っている中で、時折見せる素顔のようなものだった。ほんの些細な変化。しかし、彼女にとっては、それがどれほど貴重なことかは、誰にもわからない。彼女は、少しずつだが、彼がただの政略結婚の相手ではないと信じ始めていた。
そんなある午後のことだった。リシェルは公爵邸の応接室でティータイムを楽しんでいた。大きな窓から差し込む光が、淡い紅茶の液面を優しく照らし、カップからはエミリアが丁寧に淹れたアールグレイの香りが立ち上っていた。庭園のバラが、この部屋まで甘い香りを運んでくる。
「奥様、今日は珍しくお一人でございますね。旦那様は?」
エミリアがティーセットを整えながら、さりげなく尋ねてくる。彼女は、リシェルとジュリアンの関係が少しずつ変化していることを、敏感に感じ取っていた。
「ええ。ジュリアン様は執務室で領地からの報告書を確認なさっているの。お邪魔をしないようにって思って」
リシェルがカップを手に取り、微笑んだその時、扉の外からノックの音が響いた。規則正しく、しかし少しばかり高圧的なノックの音に、リシェルの背筋が僅かに伸びる。すぐに執事のセドリックが姿を見せ、恭しく頭を下げた。
「奥様、ミレーユ伯爵令嬢シャルロッテ様がお見えになりました」
その名前を聞いた瞬間、リシェルの表情に微かに緊張が走る。シャルロッテ――リシェルの幼なじみであり、表向きは親友とされている女性。だが、その笑顔の裏には、常に競争心と支配欲が渦巻いていることを、リシェルは誰よりもよく知っていた。彼女は、リシェルの完璧な仮面の下に隠された本性を、見抜いている数少ない人物でもあった。
「……そう。通してちょうだい」
リシェルは一瞬の間を置き、いつもの“完璧な淑女の笑み”を浮かべて返事をした。心の奥底で警戒心が芽生え始めていたが、それを顔に出すことはなかった。
間もなくして現れたシャルロッテは、流行最先端の豪華なドレスに身を包み、完璧にセットされた金色の髪を揺らしながら、優雅に入室してきた。彼女の装飾品の一つ一つが、リシェルの控えめなドレスとは対照的だった。
「リシェル、ご結婚おめでとう。ようやく会いに来れたわ。すっかり素敵な公爵夫人になって……本当に嬉しいわ」
彼女は大仰にリシェルに抱きついたが、その仕草にはどこか演技めいた冷たさが含まれていた。抱擁の強さ、そしてその後の距離の取り方。リシェルはその冷たさに気づきつつも、礼儀正しく応じる。
「ありがとう、シャルロッテ。まさか訪ねてくれるなんて思ってもみなかったわ。どうぞ、座ってちょうだい」
リシェルは、冷静に、しかし内心では警戒を強めていた。
シャルロッテはにこやかに頷きながら、向かいのソファに腰を下ろした。その視線は、部屋の調度品やリシェルの指先まで、細かく値踏みしているようだった。
「公爵家での生活には慣れたかしら? 大変でしょう? 使用人の数も多いし、マナーも厳しそうだし……何か困ったことがあったら、遠慮なく相談してね? 私、貴族社交界のことは詳しいから」
その声音はあくまで優しげだが、その瞳の奥には、リシェルの暮らしぶりを値踏みするような光があった。彼女は、リシェルが公爵夫人の大役を務めきれるのか、試しているかのようだった。
「ええ、皆様とても親切にしてくださるの。ジュリアン様も思いやりのある方で……問題は何もないわ」
リシェルは曖昧に返す。ジュリアンとの距離感をシャルロッテに詮索されるのは、なぜか本能的に避けたかった。彼女にジュリアンの真の姿を知られることが、何か良くない結果を招くような気がしたのだ。
「あら、それは意外ね。公爵様ってお忙しい方でしょう? 奥様の相手をする時間も取れないのかと思ってたわ。もし退屈してるようなら、今後も頻繁に遊びに来てあげる」
シャルロッテの言葉は、親切心を装いながら、リシェルとジュリアンの間に隙があることを暗に示唆していた。彼女は、リシェルの完璧な仮面の下に、不満や寂しさが隠されていると信じて疑わなかった。リシェルの胸が少し痛んだ。それは、ジュリアンが自分に興味がないかもしれないという、漠然とした不安を刺激されたからだ。
(……私の生活を壊そうとしているの? それとも、ただの好奇心? どちらにしても、警戒が必要だわ)
それからというもの、シャルロッテはことあるごとに公爵邸を訪れ、ジュリアンが留守の隙を狙ってリシェルに接触してくるようになった。彼女の訪問は、リシェルにとって次第に重荷となっていった。
「まぁ、本当に素敵な立ち居振る舞い。昔のリシェルを知っている私からすると信じられないほどよ。まるで“淑女の演技”が板についてきたみたい。ねぇ、私にだけは本当のことを話してくれてもいいのよ?」
「あなたの“ごっこ遊び”が本当に通じているのか、ちょっと気になっていたの。でも、公爵様は甘いお方なのね。私だったら、もっと厳しいけれど」
シャルロッテの言葉は、皮肉と見下しのスパイスが効いた毒だった。リシェルの“男前な本性”をあえて否定し、押し殺すよう仕向けてくる。彼女は、リシェルが完璧な仮面を維持するよう、暗に圧力をかけているようだった。
リシェルは、言葉を飲み込みながら笑顔を崩さなかったが、内心では不安が渦巻いていた。シャルロッテの言葉は、彼女の心の奥深くに、毒のように染み込んでいく。
(……ジュリアン様に、もし私の“本当の姿”が知られたら、やっぱり……幻滅されてしまう? この完璧な公爵夫人の姿を、彼は求めているのだろうか?)
ある日、リシェルが図書室で学術論文を読みふけっていたときのことだった。彼女は、知的好奇心を満たすために、公爵邸の広大な蔵書を探索することを日課にしていた。
「まあ、何してるの? そんな難しそうな本、あなたが読むなんて意外ね」
ふいに現れたシャルロッテが、皮肉な笑みを浮かべて声をかけてきた。彼女は、まるでリシェルの隠された場所を暴き出したかのように、得意げな顔をしていた。
「女がそんな知識に夢中になっても、婚家では歓迎されないわよ? 可愛い詩集とか、刺繍とか、そういうものに興味を持つべきじゃない? ジュリアン様も、そっちの方が好きでしょうし」
その言葉は、リシェルの知的な一面を全否定するものだった。シャルロッテは、リシェルが公爵夫人にふさわしいのは、あくまで“完璧なおしとやかさ”であると主張しているかのようだった。
「……そうね。たしかに、こういうのは私には難しすぎるかもしれないわ」
リシェルは静かに論文を閉じ、本棚に戻す。彼女は、シャルロッテの言葉に反論する気力もなかった。疲労と、心の奥底で燻る不満が、彼女を支配していた。その仕草を見て、シャルロッテは満足げに微笑んだ。
(彼女の言葉に、私はいつまで縛られ続けるの? いつまで、この仮面を被っていればいいの?)
だが、このままでは終わらない。リシェルの中で、何かがゆっくりと軋み始めていた。それは、彼女の“男前な本性”が、抑圧に耐えかねて目覚めようとしている音だった。
完璧な“おしとやか令嬢”という仮面。その仮面の奥に眠る、本当の自分――騎士団長のように毅然とした、強く凛とした自分を、ジュリアンに見せることは本当にいけないことなのだろうか? 彼は、彼女のありのままの姿を受け入れてはくれないのだろうか?
シャルロッテが去った後、リシェルはふと窓辺に立ち、外の庭を眺めた。その瞳の奥には、わずかな決意の光が宿っていた。もう、誰かのために自分を偽り続けるのは、限界かもしれない。
そして、彼女が“仮面”を脱ぐきっかけは、思いがけない形で、すぐそこまで迫っていた。それは、この公爵邸で、新たな嵐を巻き起こすことになるだろう。