44.新たな属性の開花
夏の終わり。ヴァレリオ領の空には、わずかに秋の気配が混じり始めていた。公爵邸では、先代公爵ギュスターヴの置き土産である改革案をもとに、いくつもの施策が動き始めていた。その全ては、ジュリアンとリシェルの手によって、着実に形を成していた。
「東の渓谷村での水路整備は完了いたしました。予定よりも早く、今月中には新しい農区の整備も始まります」
執務室に届く報告は、どれも喜ばしいものばかりだった。セドリックが読み上げる報告書に、ジュリアンは満足げに頷く。
「森林管理区域には、新しい伐採制限を導入しました。これにより森林の健全な育成を促し、代替として、領民には苗木の無料配布を行い、植林を推奨しています」
「村落の交易品目に“保存食加工”が加わりました。特に冬場の食料不足を補うため、婦人会の活動が活発になっています」
報告が次々と届く中、リシェルは侍女エミリアとともに各所をまわり、住民たちの声を丁寧に拾い続けていた。彼女は、机上の報告書だけでは分からない、現場のリアルな状況を把握しようと努めていた。
「奥様、ほんとうにご無理なさらず……。今日はもうお帰りになられてはいかがですか? お顔色が少し、優れないように見えます」
エミリアは、リシェルの顔色を心配そうにのぞき込んだ。連日の視察と、新たな施策の導入で、リシェルの疲労はピークに達していた。
「大丈夫よ、エミリア。まだ、もう少し見ておきたいものがあるの。ほら、あの干し根菜見て。去年より綺麗に乾燥できてるわ。これなら、栄養価も高く保てるし、保存期間も格段に延びるわ。あれ、絶対王都で売れるもの」
リシェルは、目を輝かせながら、丁寧に乾燥された根菜を指差した。彼女の瞳は、領地の発展に対する情熱に満ちていた。
「……ふふ、わかりました。奥様がそう仰るなら。でも、水分補給だけはしっかりしてくださいね? 少し暑くなってきましたから」
「ええ、ありがとう」
エミリアは、リシェルに水筒を差し出した。リシェルはそれを一口飲んだが、その視線はすぐに村人たちの活動へと戻っていった。彼女は、疲労を顧みず、ひたすら領民のために奔走していた。けれど、無理を重ねた身体は、嘘をつけなかった。
その異変は、午後の陽が傾いたころだった。村の視察を終え、馬車に戻ったリシェルは、ふと呼吸を浅くし、額を押さえた。急なめまいと吐き気が、彼女の体を襲ったのだ。
「奥様? どうなされました?」
エミリアが、リシェルの異変に気づき、すぐに駆け寄った。リシェルの顔色は、普段の健康的な血色を失い、青白くなっている。
「……なんだか、少しふらふらするわね……。それに、気分が悪いわ……」
リシェルは、辛そうに目を閉じ、頭を振った。
「すぐ戻りましょう! 急いでっ! 御者! 公爵邸まで、急ぎ馬車を飛ばしてください!」
エミリアは、焦った声で御者に指示を出し、リシェルの体を支えた。馬車は、石畳を勢いよく駆け抜け、公爵邸へと向かった。エミリアは、リシェルの背中をさすりながら、彼女の体を心配そうに見つめていた。
公爵邸に到着すると、すぐに医師が呼ばれた。公爵邸専属の医師であるミルダは、熟練の腕を持つ女性医師だ。彼女はすぐにリシェルを寝室へと運び、診察を始めた。ジュリアンも、リシェルの異変を聞きつけ、執務室から駆けつけていた。彼の顔には、深い心配と不安の色が浮かんでいた。ミルダが診察を終えると、リシェルの枕元で眼鏡を直し、静かに言った。その声は、どこか穏やかで、しかし確かな響きを持っていた。
「ご心配には及びません、奥様。ただ――」
ミルダは、そこで言葉を区切った。室内の空気は、緊張で張り詰めている。
「ただ……? 何か、問題でもあったのか? リシェルは、一体どうなってしまったのか?」
ジュリアンが、たまらず尋ねた。彼の声には、焦燥と、かすかな怯えが混じっていた。
「ご懐妊です、公爵様。おそらく三ヶ月目に入ったところでしょう。最近の奥様の体調不良は、つわりによるものと思われます」
その瞬間、室内の空気が凍りついた。まるで時間が止まったかのように、誰もが言葉を失う。エミリアは目を潤ませたまま「まあっ」と口元を押さえ、喜びと感動に震えていた。彼女は、長年リシェルに仕えてきただけに、その喜びもひとしおだった。
傍らの椅子に座っていたジュリアンは――。
「……っ……」
まるで世界がひっくり返ったような顔をしていた。彼の瞳は大きく見開かれ、その表情には、驚きと、信じられないという思い、そして深い感動が入り混じっていた。
「じゅ、ジュリアン様……?」
リシェルが手を伸ばすと、その手を強く、しかし丁寧に握り返される。ジュリアンの手は、わずかに震えていた。
「リシェル……体調は……本当に、大丈夫なんだね……? 無理をしていないかい?」
ジュリアンの声は、震えていた。その瞳には、リシェルへの深い愛情と、生まれてくる命への畏敬の念が宿っていた。
「はい……少し、動き過ぎただけですから……。これからは、もっと気をつけますから、ご心配なく」
リシェルは、優しく微笑んだ。
「……無理をさせてしまった。こんな大事なこと、私が気づかず……っ。私がもっと早く気づいていれば、君にこんな苦労をさせずに済んだのに……っ」
ジュリアンは、自責の念にかられたように、頭を抱えた。
「そんな、ジュリアン様のせいではありませんわ。私が、無理をしてしまっただけですから」
「いや、全部私の責任だ。これからは絶対に、無理はさせない。階段も、視察も、書類仕事も――もう私が全部やるから、君は安静に……っ! 絶対に無理はさせないから!」
「ジュリアン様!?」
ジュリアンは、リシェルの体を抱きしめるように、強く、しかし優しく抱きしめた。彼の心は、喜びと、そしてリシェルへの深い愛情で満たされていた。
それからというもの、ジュリアン・ヴァレリオ公爵は“過保護”という新たな属性を開花させた。彼の行動は、リシェルへの愛情と、生まれてくる子供への期待の表れだった。朝、リシェルがベッドから起き上がろうとすると――。
「だめだ、起きなくていい。君は横になったままでいてくれ。朝食は私が運ぶ。今日は林檎の蜜煮にした。君の体に優しいとミルダ医師が言っていたから」
ジュリアンは、リシェルの肩をそっと押さえ、ベッドに横たわらせた。
「いえ、もう身体は元気で……動けますから」
「だめだ、立ち上がるだけで負担になる。医師も“安静に”と厳しく言っていたのだから。――ほら、毛布を巻いて、体を冷やさないように」
ジュリアンは、リシェルに優しい手つきで毛布を巻きつけた。午前、リシェルが筆を取って報告書を見ていると――。
「なにをしているんだ、リシェル。ペンは重い。書類は私がやるから、君は無理に動かなくていい。リシェルは音楽でも聴いて、ゆったりと過ごしていてくれ」
ジュリアンは、リシェルの手から羽ペンをそっと取り上げた。
「そ、それは過保護すぎるのでは……っ。これくらいは、できますわ」
リシェルは、困ったように抗議したが、ジュリアンは聞き入れない。午後、エミリアと庭を散歩しようとすると――。
「それは何のつもりだ、リシェル。外はまだ風が冷たい。日が陰った瞬間、君の体温が下がってしまっては大変だ。君の体が冷えてしまうと、いけないから……」
ジュリアンは、まるでリシェルを捕まえるかのように、腕を広げた。
「ジュリアン様!? 過保護の極みですわ! もう少し、私を信用してください!」
リシェルは、半ば呆れたように声を上げた。しかし、ジュリアンの瞳には、深い愛情と心配が宿っているのを見て、何も言えなくなった。
そうして一週間が経ったころ。リシェルは、暖炉の前でそっと膝に手を置きながら、微笑んだ。ジュリアンの過保護ぶりは相変わらずだが、それもまた、彼の愛情の表れだと理解していた。
「ジュリアン様。わたし……そんなに、頼りなく見えますか? まるで、何もできない病人のようですわ」
リシェルは、優しく尋ねた。
「違う。君が頼もしいから、僕は余計に心配になるんだ。強い人ほど、無理をする。君は、いつも自分のことよりも、領地や民のことを優先するから」
ジュリアンの声は、真剣だった。彼の瞳は、リシェルへの深い信頼と、そして心配で揺れていた。
「……ふふ。優しいお方。そんな風に心配してくれるジュリアン様が、私は大好きです」
リシェルは、柔らかな笑顔をジュリアンに向けた。
「君と……子どもに、何かあったら私は……もう、立っていられなくなる。私のすべてを失ってしまうような気がするのだ」
ジュリアンが、ほんの少し、声を震わせた。彼の心の中には、深い不安と、失うことへの恐れが渦巻いていた。リシェルは、その手を取った。彼女の手は、ジュリアンの手の震えを、優しく包み込む。
「大丈夫です。わたしは、ジュリアン様の妻です。あなたを支え、共に歩む伴侶です。これから母にもなりますが――まず、あなたの伴侶ですから。そして、あなたと私の子どもを、この手で大切に守り育てます」
リシェルの言葉は、ジュリアンに大きな安心と、勇気を与えた。
「……ありがとう、リシェル。君がいてくれて、本当に良かった。君が、私の光だ」
ジュリアンは、リシェルの手を握りしめ、その額に深く口づけした。
その夜。侍女のエミリアが、階下の厨房でマルグリットと話していた。温かいパンを焼きながら、二人は穏やかに言葉を交わす。
「……どうしても、旦那様は、過保護になってしまいますねぇ。奥様も少し、困っていらっしゃるようですけれど」
エミリアが、微笑ましそうに言った。
「そりゃそうさ。大切な人の腹に命が宿ったんだもの。自分の分身ともいえる命が、奥様の体の中にいるのだから。少しぐらい、滑稽なくらい心配してくれた方が……ね? その方が、奥様も安心するってもんさ」
マルグリットは、温かいパンを皿に並べながら、優しく答えた。彼女の長年の経験が、若い夫婦の心情を理解させていた。
「ええ……けど、奥様もちゃんと笑っておられて……本当に、いいご夫婦ですわ。見ているだけで、こちらまで幸せになります」
エミリアは、心からそう思った。
こうして、ヴァレリオ家に新しい命の知らせが訪れた。ジュリアンとリシェルは、これまで以上に慎重に、そして丁寧に、日々を積み重ねていく。彼らの心は、生まれてくる子供への期待と、深い愛情で満たされていた。
ギュスターヴが旅先でこの知らせを聞けば、また豪快に笑うのだろう。「孫もすでにできておったか。さすが私の息子だ。そして、良い嫁を見つけたものだ」と、きっと。
夜の部屋に灯る柔らかな光。そっと手を重ねたふたりの間に――確かな未来が、芽吹いていた。それは、ヴァレリオ家の新たな歴史の始まりでもあった。




