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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第2章 溺愛が昇華するまで

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43.旅立ちの背中

「――さてと、そろそろ出るかの」


 朝の食堂。まだ湯気の立つスープを片手に、ギュスターヴ・ヴァレリオはあっけらかんとそう告げた。彼の声は、朝の光に満ちた食堂に、明るく響き渡る。


「……え?」


 匙を止めたのは、リシェルだった。彼女は、ギュスターヴの突然の言葉に、思わず目を丸くした。わずか数日間の滞在で、再び旅立つという彼の言葉が、信じられないようだった。


「父上、何の話です?  まさか、もう旅に出るというのですか?」


 ジュリアンが怪訝に眉をひそめる。彼もまた、父のあまりにも自由な行動に、慣れてはいるものの驚きを隠せないようだった。


「ふむ?  “放蕩の旅”の続きじゃよ。ここ数日、お前たちと過ごして、身体が鈍ってしまったからのう。それに、各地で積もる話もあるしの」


 ギュスターヴは、悪戯っぽく笑った。その顔には、隠しきれない旅への情熱が宿っている。


「……またですか。もう少し、ゆっくりされてはいかがですか」


 ジュリアンは、呆れたように呟いた。


「ああ。各地で積もる話もあるし、なにより――」


 ギュスターヴは、少しだけ目を細めて、穏やかに微笑んだ。その瞳には、遠くを見つめるような、そして深い愛情のような光が宿っていた。


「アメリアに、お前たちの話を早くしてやりたくてな」


 その名が出た瞬間、食堂の空気が少し変わった。アメリア――ジュリアンの母であり、ギュスターヴの最愛の妻。若くして病没したその人の名は、ヴァレリオ家の家族にとって、今もなお特別だった。その名前は、彼らの心の中に、温かく、しかし切ない響きを残している。


「夢枕にも立ってな、『最近はどうなの?  ジュリアンは、ちゃんと立派な公爵としてやっているの?  可愛いお嫁さんはできた?』と聞いてくる気がしてな。そう思えば、旅立たずにはおれんのじゃ」


 ギュスターヴは、そう言って、遠い目をした。その表情は、愛する妻への深い想いを物語っていた。ジュリアンは口を閉ざしたまま、何も言わなかった。彼の心の中にも、母への深い思慕が渦巻いているのだろう。

 リシェルは手のひらを握りしめたまま、言葉を探していた。彼女もまた、アメリアの名を聞くたびに、心が締め付けられるような思いがする。


「……もう少しだけ、いてくださっても、良いのではないでしょうか」


 ぽつりと、リシェルが呟く。その声は、寂しさを帯びていた。


「わたくし、ギュスターヴ様の旅の話、もっと聞きたいです。ミラザン地方の緑肥の話も、スルヤ村の地熱室も……あれだけじゃ、まだ足りない気がして。もっと、色々な知恵を授けていただきたいです」


 リシェルは、ギュスターヴの知見に心から感銘を受けていた。彼が語る異国の技術や人々の知恵は、リシェルにとって何よりも貴重な学びだった。


「……ふむ」


 ギュスターヴは腕を組み、椅子にもたれかかった。リシェルの純粋な言葉が、彼の心を揺り動かしているようだった。


「嬉しいことを言うのう、リシェル。お前のような娘を家族に迎えられたこと――儂の旅の中でも、最高の宝じゃ。ジュリアンのやつも、良い妻を見つけたものだ」


 ギュスターヴは、リシェルを心から褒め称えた。


「……っ」


 リシェルは、その言葉に顔を赤らめた。


「けれど、旅立たねばならぬ。“今ここにいる二人”に、儂の口出しが長すぎるのは良くないのだ。お前たちが、自分たちの力で、このヴァレリオ領を導いていくべきだ」


 ギュスターヴの言葉は、厳しくも温かい。彼は、ジュリアンとリシェルが、自分たちの力で公爵としての道を歩むべきだと考えていた。


「それは……しかし……」


 リシェルは、まだ何かを言いたそうに口ごもった。


「ジュリアンが家督を継いだ意味を、誰より儂が理解しておるのじゃ。若き公爵夫妻が、自分たちの色でこの家を染めていくべきなのだ。あとは任せる――それで良い」


 ギュスターヴは、そう言って、立ち上がった。彼の背中からは、圧倒的な信頼と、未来への希望が感じられた。その動きに、もう一度リシェルは声を絞る。


「……アメリア様に、よろしくお伝えください。ジュリアン様と私が、このヴァレリオ領をより良いものにできるように、精一杯努力します、と」

「おうとも。伝えてやるさ。“息子も、嫁も、立派にやっておる。そして、このヴァレリオ家には、かつてないほどの明るい未来が待っている”とな」


 豪快に笑いながら、ギュスターヴは外套を羽織る。彼の言葉には、リシェルとジュリアンへの深い信頼と、未来への確信が込められていた。


「……では行ってくる。しばらくは手紙も寄こさん。今は、お前たちの時間じゃからな」


 そうして、ギュスターヴ・ヴァレリオは、春の陽を背に、再び旅へと出発していった。その背中は、公爵邸の門をくぐり、やがて視界から消えていった。リシェルはその背中が見えなくなるまで、何も言えずに見送った。彼女の心の中には、寂しさとともに、新たな決意が芽生え始めていた。




 その日の午後、書斎の片隅で、ジュリアンが静かに問うた。窓から差し込む夏の光が、机に広げられた書物や書類を照らしている。


「……寂しがっているのかい?  父上が去ってしまって」


 リシェルはギュスターヴの残していった革表紙の手帳を膝に乗せたまま、微笑んだ。その表情には、ほんの少しの寂しさと、そして確かな希望が宿っていた。


「……はい。すこしだけ、寂しいです。もっとたくさん、お話を聞きたかったですから」

「そうか……私もだ。私も、父の唐突な訪問には慣れているつもりだったが、やはり寂しいものだな」


 ジュリアンがリシェルの隣に腰を下ろす。彼の視線もまた、手帳に向けられていた。


「でも、彼が残していったものは、非常に現実的かつ有効だ。私たちの手で、これを実現させれば、このヴァレリオ領は大きく変わるだろう。君と一緒なら、きっと実現できる」


 ジュリアンの言葉には、父への尊敬と、リシェルへの信頼が込められていた。


「はい。わたしも、そう思います。ギュスターヴ様が、私たちのために、わざわざ集めてくださった知識ですもの」


 リシェルは、手帳のページをゆっくりと捲った。そこには、見慣れない筆跡でびっしりと書き込まれた文字や図が並ぶ。それは、先代公爵が各地で得た知恵の結晶だった。


 “北部の渓谷村における用水路の新設案”

 “放牧と林業の複合型産業モデル”

 “農産物加工所の建設による雇用促進”


 そのどれもが、今後の領地に確かな利益をもたらし、領民の生活を豊かにする内容だった。


「父上の“放蕩”とは、偽りの仮面だった。彼は、この領地を、そして私たちを、ずっと見守ってくれていた」


 ジュリアンが、しみじみと呟いた。


「本当に……嘘つきな優しい人でしたね。でも、そんなお義父様だからこそ、私も心から尊敬できます」


 リシェルはふっと笑った。その笑顔は、ギュスターヴへの感謝と、家族としての温かい愛情に満ちていた。


「……さて、この膨大な計画、どれから手をつける?  君の意見を聞かせてほしい」


 ジュリアンは、リシェルに視線を向け、問いかけた。


「渓谷村でしょうか。今、雪解け水が多く、水量が安定しているうちに計画を始めれば、用水路の建設もスムーズに進むはずです。何よりも、村人たちが水不足に苦しんでいる現状を、少しでも早く解決したいです」


 リシェルは、すぐに優先順位を判断し、具体策を提案した。彼女の目は、領民への深い配慮と、公爵夫人としての責任感に輝いていた。


「良い判断だ。じゃあ、早速準備を進めよう。私は王都の技師と連絡を取り、設計図の作成と建設に必要な人員の手配をする。君はエミリアたちと村への差配を。村長や住民たちと直接話し合い、彼らの意見を聞いてほしい」

「はい!  お任せください!」


 リシェルは、力強く頷いた。




 その日から、ふたりは忙しい日々に身を投じていった。ギュスターヴが残した手帳の知恵を、ヴァレリオ領に実装するため、公爵夫妻は精力的に動き出した。

 リシェルは現地視察のため、エミリアを伴って渓谷村へと赴いた。険しい山道を馬車で進み、村に到着すると、彼女はまず住民たちに直接話を聞いた。何世代にもわたる水不足の苦しみ、作物の不作、そして未来への諦め……。村人たちは、初めは半信半疑だったが、リシェルがギュスターヴの手帳を見せながら、用水路の新設による恩恵や、具体的な計画を丁寧に説明すると、次第に表情を和らげた。


「ここの地形なら、このように分岐を作れば、集落だけでなく、畑にも十分水が届くはずです。もし皆さんが手伝ってくださるのなら、きっとこの計画は成功します」


 リシェルの熱意と誠実さに、村人たちの心が動いた。


「お嬢さん……いや、奥様、そこまで私たちのことを考えてくれたのかい。こんなに細かく計画を立ててくれるとは……」


 村長が、感動したように声を震わせた。


「もちろんです。わたしだけでなく、ギュスターヴ様と、ジュリアン様と、皆で考えたことですから。これは、ヴァレリオ公爵家からの、村への約束です」


 リシェルは、にこやかに答えた。彼女の言葉は、村人たちに大きな希望を与えた。




 一方、ジュリアンは王都の技師団や財務官との交渉にあたり、必要な資金と人手を迅速に確保した。彼の冷静かつ的確な指示と、先代公爵が残した知見という後押しもあり、家臣たちも若公爵夫妻の誠意に動かされ、プロジェクトの動きは驚くほど滑らかだった。夜遅く、机に向かって報告書を整理するリシェルに、ジュリアンが淹れたてのコーヒーを運んでくる。温かい湯気が、二人の間を漂う。


「……ありがとう、ジュリアン様。助かります」


 リシェルは、疲れた顔に笑顔を浮かべた。


「いいや。君こそ、ありがとう。君がいてくれたからこそ、父も安心して旅立てたのだから」


 リシェルが不思議そうに顔を上げる。


「君が父と心を通わせてくれたおかげで、あの人は穏やかな顔でまた旅立てた。――あれは、息子である私にはできない役目だった。君が、父の心を癒してくれたのだ」


 ジュリアンの言葉は、心からの感謝が込められていた。


「……それを言うなら、ジュリアン様が、お義父様の期待に応え、立派に公爵としての責務を果たしてきたからこそ、ギュスターヴ様も安心できたんです。そして、私を信じて、隣に置いてくださったから、私も頑張れました」

「……お互い様、か。私たちの絆が、父の旅立ちを後押ししたのだな」


 二人は顔を見合わせて、ほっと笑った。彼らの間には、深い理解と、愛情が満ちていた。日々の政務に追われながらも、ふたりの歩みは揃っていた。ジュリアンとリシェルは、互いを支え合い、ヴァレリオ領の未来のために尽力した。


 ギュスターヴの言葉が、手帳の中に確かに残っている。そしてその言葉は、ふたりの行く末を、温かく照らしていた。それは、ただの知識ではなく、先代公爵の愛情と、この家への深い思いが込められた、大切な宝物だった。


(ギュスターヴ様、どうか……また、ふらりと帰ってきてください。そのときは、またお茶を淹れて、わたしの手料理を味わっていただけたら……。今度こそ、「放蕩なんて嘘ですよね。あなたは、最初から最後まで、誰よりも立派な公爵でした」と、真っ直ぐ言ってみせます)


 そんな願いを胸に――リシェルは手帳をそっと閉じた。


「……さあ、明日も早いです。頑張りましょう、ジュリアン様。この手帳の続きを、私たちで実現させましょう」

「ああ。君と一緒なら、きっとできる。どんな困難も、二人で乗り越えていこう」


 ふたりは並んで立ち上がり、机の上の蝋燭の火をそっと吹き消した。その炎が消えた瞬間――新たな灯が、確かにヴァレリオ公爵邸に灯された気がした。それは、過去から未来へと受け継がれる、家族の絆と、希望の光だった。

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