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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第2章 溺愛が昇華するまで

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42.父の土産

 朝、夏の穏やかな陽光がヴァレリオ公爵邸の書斎に降り注いでいた。いつもは整然と書類が積み上げられたこの部屋に、今日ばかりは珍しい顔ぶれが揃っていた。


 書斎の主であるジュリアン・ヴァレリオ公爵。その妻であり、公爵夫人のリシェル・ヴァレリオ。そして、数日前に突然帰郷した先代公爵――ギュスターヴ・ヴァレリオ。ジュリアンはやや緊張した面持ちで、リシェルは好奇心に満ちた眼差しで、ギュスターヴの言葉を待っていた。


「さて……そろそろ本題といこうかの」


 陽光の差し込む大机の前に座ったギュスターヴは、懐から分厚い革表紙の手帳を取り出した。その手帳は、使い込まれており、旅の年月の長さを物語っていた。


「これらはな、儂が長年の“放蕩”の末に手に入れたものじゃ。各地で見て聞いて、書き記してきたことばかりよ。どれも、このヴァレリオ領には役立つはずじゃぞ」


 ギュスターヴは、自信満々にそう告げた。


「……父上、その“放蕩”という表現をやめていただけませんか。まるで、本当に享楽のために旅をしていたかのようではありませんか」


 ジュリアンは、父の言葉遣いに眉をひそめた。彼の父が、表向きは放蕩を装っていたことは知っていたが、こうして面と向かって言われると、どうにも落ち着かない。


「ふははっ、気にするでない、ジュリアン。表向きはそういうことで通しておった方が、儂も動きやすかったのだ。高名な先代公爵が、わざわざ僻地の村々を訪ねて、農民の生活改善策を聞いて回っているなどと知られれば、何かと面倒なことになろう?」

「……!」


 ジュリアンの目が、驚きに大きく見開かれた。父の真意を改めて知った彼は、言葉を失う。その横で、リシェルが口元を抑えてくすりと笑った。ギュスターヴの豪快さの中にも、領民への深い愛情と、老練な知恵が隠されていることを感じ取ったのだ。


「――では、ギュスターヴ様。ぜひ、そのお知恵を、私たちにご教授をお願いできますか?」


 リシェルが、にこやかに尋ねた。彼女の瞳は、知識への探求心に輝いている。


「よろしい。望むところじゃ。愚息だけでは、少々頼りないと思っていたところじゃったからな」


 ギュスターヴは、ジュリアンにからかうような視線を送りながら、椅子に深く腰を下ろし、手帳を開いた。


「まずは……ミラザン地方で見た、農作物の連作障害対策じゃ」


 ギュスターヴが指差したのは、手帳に丁寧に描かれた、畑の図だった。


「連作障害……?」


 リシェルが首をかしげると、ギュスターヴはやさしい笑みを向けた。彼の瞳は、知識を求めるリシェルを、温かく見守っているかのようだ。


「簡単に言えば、同じ土地で同じ作物ばかり育てていると、土の栄養が偏り、病気も起こりやすくなるという話じゃ。このヴァレリオ領でも、特定の作物ばかり植えている地域があると聞くが?」

「なるほど……輪作や、作物の組み合わせで解決できると、昔読んだ本に載っていました。異なる種類の作物を順番に育てることで、土の栄養バランスを保つ、と」


 リシェルは、知識をすぐに結びつけ、理解を示した。彼女の聡明さに、ギュスターヴは満足げに頷く。


「その通り!  まさに輪作じゃ。それに加えて、ミラザンでは“緑肥”といって、肥料代わりの植物を一緒に育てておる。例えば、マメ科の植物は土に窒素を供給し、土壌を豊かにする。これがまた、土を生かし、病害虫の抑制にも繋がるのだ」

「緑肥……!  素晴らしいですね!  それなら、人工的な肥料に頼りすぎることもなく、持続可能な農業が実現できますわ」


 リシェルの瞳がきらきらと輝いた。彼女は、ジュリアンと共に領地運営に携わるようになってから、領民の生活や農業の知識にも深く関心を持つようになっていた。ジュリアンが手元の紙に、熱心に書き留める。彼の表情は、真剣そのものだ。


「ふむ。現在、南部の村で麦の収穫率が落ちていると報告があったが、これを試してみる価値はあるな。すぐにでも、担当の者に指示を出そう」

「おお、さすがジュリアン。対応が早い。儂が話すのは、ほんの導線じゃ。それを生かすのはお前たちじゃよ。儂は、あくまで情報を集めたに過ぎん」


 ギュスターヴは手帳を捲り、次の項へと進む。彼の言葉は、ジュリアンとリシェルに、行動のきっかけと、実践の責任を委ねるものだった。


「これは……北方のスルヤ村で聞いた話じゃ。寒冷地に向いた“地熱室”の活用法だ」


 ギュスターヴが指差したのは、地中に掘られた石室の設計図だった。


「地熱室?」


 リシェルが、興味深そうに身を乗り出した。


「うむ。冬場でも温かさを維持できるよう、地中に石室を掘り、そこで農作物の貯蔵や、耐寒性の低い作物の栽培を行う。これが非常に効率がよい。冬場の食料不足を解消し、新鮮な野菜を供給できるようになる」


 ギュスターヴは、その仕組みを丁寧に説明した。


「……わたくしの実家の方でも、冬場の貯蔵庫の温度管理に苦労していたと父が言っていました。導入できたら、損耗が減りますし、冬でも新鮮な野菜が食べられるようになりますね!」


 リシェルは、すぐにその利点を理解した。彼女の生家のある地域も寒冷地であり、冬場の食料確保は常に課題だったからだ。


「ふふ、聡いのうリシェル。まことに、息子には過ぎた妻じゃ。ジュリアンには、その発想はなかっただろう」


 ギュスターヴは、リシェルを褒め称え、ジュリアンをからかうような視線を送った。


「い、いえ……!  そんなことございません!」


 耳まで赤くなっているリシェルに、ジュリアンは小さく微笑みながら筆を走らせた。彼の表情には、父への複雑な感情と、リシェルへの深い愛情が混じっていた。


「父上。これらの政策……なぜ、今まで何もおっしゃらなかったのですか?  もっと早くに教えていただければ、領民の苦労も減ったはずですが」


 ジュリアンが、ギュスターヴに問いかけた。彼の言葉には、少しばかりの悔しさがにじんでいた。


「簡単な話じゃよ、ジュリアン。――お前が領主として“自分の足”で判断し、“自分の手”で領民に触れられるまでは、伝えても意味がないと思っておったからじゃ」


 ギュスターヴの言葉に、ジュリアンの手が止まる。彼の目は、大きく見開かれ、父の言葉の意味を噛み締めるように、じっとギュスターヴを見つめた。


「先代として、口出しすべきでない時もある。それが、子に対する信頼というものじゃ。お前自身が経験し、考え、そして行動する中で、真の領主へと成長するのを待っておったのだ。――今のお前ならば、これらの知恵を、存分に使いこなせよう」

「……ありがとうございます、父上。深く、感謝いたします」


 ジュリアンは、椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。彼の声には、父への深い尊敬と、理解が込められていた。その横顔を、リシェルは優しい気持ちで見つめた。


(……ジュリアン様、ずっとひとりで、この重責を背負ってきた。でも、きっと……それをずっと見守ってくれてた人がいた。遠く離れていても、ずっと、ジュリアン様のことを見ていてくれたのね……)


 リシェルは、ギュスターヴの深い愛情と、ジュリアンへの信頼を感じ取り、胸が温かくなった。


「さて、これで終わりかと思いきや――もう一つ、とっておきがあるのだ」


 ギュスターヴはそう言うと、書斎の隅に置かれていた、丁寧に包まれた布包みを持ち出し、大机の上に置いた。その動作は、まるで宝物を披露するかのようだ。


「これは?」


 リシェルが、好奇心いっぱいの眼差しで尋ねた。


「これはな、遥か東の異国、リュグナーにある手織り工房で見た“縦絣(たてがすり)”の技法だ。糸を先に染め分け、模様を織り込んでいく。普通の織物とは違い、独特の風合いと立体感が生まれる」


 ギュスターヴは、布包みを広げた。そこには、淡い青と白の繊細な模様が浮かび上がっていた。見る角度によって、その模様が複雑に変化し、見る者を魅了する。


「きれい……!  こんなに美しい織物は、初めて見ましたわ」


 リシェルは、思わず声を上げた。その美しさに、目を奪われる。


「うむ。伝統工芸は、文化であり資源じゃ。美しいだけでなく、それを作る人々の生活を支える大切なものなのだ。若い娘たちが技を学び、美しい布を織り、それを売ることで自立もできる。これはまさに、“人を育てる政策”というやつじゃな」


 ギュスターヴは、その技術が持つ可能性について語った。


「……それは、素晴らしい取り組みですね。このヴァレリオ領にも、いくつか手織り工房がありますが、そこまで大規模なものではありません。もし、公爵家からの支援があれば、多くの人の生業になり、領地全体の活性化にも繋がります」


 リシェルは、すぐにその技術をヴァレリオ領に導入する可能性を考えた。彼女の瞳は、未来への希望に満ちている。


「うむ。リシェル、そう思うか」


 ギュスターヴは、満足げに頷いた。


「はい!  ぜひ、この技術を導入したいです!」


 頷いたリシェルの横顔を見て、ギュスターヴが満足げに目を細める。


「……さて、わしの“放蕩”の成果は、こんなものかの。思ったよりも、中身があっただろう?」


 ギュスターヴは、わざとらしくため息をついた。


「“放蕩”どころか、歴とした改革の旅ではありませんか。父上がいかにこの領地と民を深く愛しておられるか、よく分かりました」


 ジュリアンが、珍しく父を褒めた。


「まぁ、表ではそう言わせておいてくれ。自由気ままな先代公爵――という看板は、案外便利なんでな。様々な場所で、警戒されずに情報を集めることができた」


 ギュスターヴは、悪戯っぽくウィンクした。


「……本当に、嘘つきですね、ギュスターヴ様は」


 リシェルがくすくすと笑う。彼女の言葉は、皮肉ではなく、深い愛情と理解に満ちていた。


「ん?  何が嘘つきじゃ?」


 ギュスターヴは、わざとらしく首を傾げた。


「だって、“放蕩”なんて言いながら、すべては領地と人々のために動いていたんですもの。最初から最後まで、誰よりも“公爵”でしたよ。そして、ジュリアン様の成長を、ずっと見守り、導いてくださっていた」


 その言葉に、ギュスターヴは驚いたように目を見開いたあと、やがて、深く、満足げに微笑んだ。彼の瞳には、かすかに潤みが浮かんでいるように見えた。


「……なるほど。やはりお前は、うちの嫁だな。私の真意を、ここまで理解するとはな」

「ふふっ、はい。ジュリアン様の妻ですから」


 リシェルはにっこりと微笑み返した。その笑顔は、彼らの家族の絆を象徴するかのようだった。その日、ヴァレリオ家の書斎には、三人分の笑い声と筆の音が絶え間なく響いていた。先代公爵の帰還は、公爵邸に新たな活気をもたらし、ジュリアンとリシェルの絆をさらに深めるきっかけとなった。




 そしてその夜、リシェルとジュリアンは、今日の記録を一緒に書き写しながら語り合う。書斎の暖炉の火が、二人の顔を優しく照らしていた。


「……ジュリアン様、あの布……何かに仕立てられたらいいなって思って。すごく綺麗だったから」


 リシェルが、書き終えたばかりの記録用紙を眺めながら呟いた。


「ふむ。クッションカバーか、それとも……君の、髪飾りとかどうだろう?  あの淡い青は、君の髪の色にとても映えると思うのだが」


 ジュリアンの提案に、リシェルの頬が、すっと朱に染まった。彼の言葉は、いつだって彼女の心をときめかせる。


「えっ……!  わたしの髪飾りに……ですか?」

「ああ。君が身につけてくれるのなら、あの布も、より一層輝くだろう。そして、私の目に、常に君が映ることになる」


 ジュリアンの瞳は、リシェルへの深い愛情で満ちていた。


「……じゃあ、縫います。自分で。ジュリアン様の分も、何か、作ってあげますね。お揃いで、身につけられるものを」


 リシェルは、嬉しそうにそう告げた。


「……楽しみにしているよ、リシェル。君が作ってくれるものなら、どんなものでも大切にする」


 優しい時間が、二人の間を静かに満たしていく――。彼らの愛は、日を追うごとに深まり、ヴァレリオ公爵邸は、幸福な家族の温もりに包まれていくのだった。

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