41.父、突然の帰宅
夏の陽光が降り注ぐ午後、ヴァレリオ公爵邸の私道に一台の馬車が滑り込んだ。普段は訪問者の少ないこの時間帯に、突如として現れた見慣れない馬車に、屋敷の使用人たちは一瞬警戒の色を浮かべた。
「……? 予定にはなかったはずですが……」
中庭で花を選別していたマルグリットが眉をひそめ、訝しげに呟いた。彼女の長年の経験からしても、突然の来訪は珍しい。ノアが「急な来訪ッスね……何か問題ッスか?」と警戒しながら、通用口の扉へ向かう。彼の表情には、公爵邸を守る者としての責任感がにじみ出ていた。そして扉が開かれた瞬間――。
「おぉ、久しいなァッ!! この屋敷の空気、やはり格別じゃ! やはり、故郷は良い!」
豪快な笑い声とともに現れたのは、見目麗しい銀髪の壮年紳士だった。引き締まった体躯、そしてジュリアンに瓜二つの端正な顔立ち――だが、その表情と声の響きは、明らかにジュリアンのような冷静沈着さとは異なり、圧倒的な存在感と陽気さを放っていた。その瞳は、すべてを見透かすかのように鋭く、しかし底知れぬ優しさを秘めている。
「……ギュ、ギュスターヴ様!?」
マルグリットが目を見開いて叫んだ。彼女の声には、驚きと、そして深い敬意が込められていた。ノアもまた、その人物が誰であるかを知り、思わず息を呑む。
「うむ、ただいま。今朝ふと思い立って、帰ってきた! お前たちも元気そうで何よりだ!」
ギュスターヴ・ヴァレリオ――先代公爵は、そう言い放つと、マルグリットやノアの驚きをよそに、豪放な笑みを浮かべた。
「お屋敷の皆様に一言もなく……! さすがに急すぎます!」
マルグリットが、困惑と若干の呆れを込めて抗議する。
「我が子の家に帰るのに、いちいち連絡が要るものか? ましてや、故郷に戻るのに、誰かの許可が必要だとでも?」
ギュスターヴは、にかっと笑って、屋敷にずかずかと入り込んだ。彼の行動は、まさに予測不能でありながら、どこか憎めない魅力に満ちていた。その背中からは、圧倒的なまでの自由な気風が感じられた。
執務室に通されたジュリアンは、目の前で悠々と紅茶を啜る父、ギュスターヴの姿を見て、若干引きつったような表情で問うた。普段の彼からは想像できないほど、感情が表に出ている。
「父上……いったいどういう風の吹き回しですか。何の連絡もなく、突然お戻りになるとは」
ジュリアンの声には、困惑と、ほんの少しの呆れが混じっていた。
「いやなに、ジュリアン。そろそろ孫の顔が見られるのではと耳にしてな。期待しすぎて先走ったという次第よ。お前とリシェル嬢が、すっかり仲睦まじいと聞いて、いてもたってもいられなくなったのだ」
ギュスターヴは、にやりと笑いながら、紅茶のカップを置いた。彼の瞳は、ジュリアンの反応を面白がるかのように輝いている。
「誰です、その情報源は。まさか、ロゼリア夫人の噂話を真に受けたのですか?」
ジュリアンは、眉間に皺を寄せた。ロゼリア夫人の口の軽さは知っていたが、まさか父の耳にまで届いていたとは。
「ふふん、王宮の老婦人会の噂話に決まっておろう? 彼女たちの情報網は侮れんからな。……さて」
ギュスターヴは、椅子から立ち上がると、ジュリアンに向かって歩み寄った。
「お前の嫁に会わせろ。どんな娘か、この目で見てみたい。噂では、お前をすっかり骨抜きにしたとか。まさか、そこまでとはな」
ジュリアンの顔は、一瞬にして赤くなった。先代公爵の豪快な物言いに、彼はたじろぐしかなかった。
同刻、リシェルはエミリアと共に温室でお茶を飲んでいた。午後の穏やかな日差しが、色とりどりの花々を照らし、心地よい香りが漂っている。
「それで、お茶会では“朗報が楽しみ”って、皆さんに言われてしまって……っ。ジュリアン様にも、ロゼリア夫人の期待に応えるって言われてしまって……私、もうどうしたらいいのか……」
リシェルは、今日の茶会の出来事をエミリアに話し、顔を赤らめていた。
「まぁまぁ……“朗報”だなんて、奥様が可愛いからですよ。皆さんも、奥様と旦那様の仲睦まじさに、心から期待を寄せていらっしゃるのです。お顔、真っ赤で……ふふ、本当に可愛らしいですわ」
エミリアは、優しくリシェルの手を握り、微笑んだ。
そのときだった。温室の扉が勢いよく開かれ、聞き覚えのない豪快な声が、温室中に響き渡った。
「おーい! リシェル嬢はおるかー! 儂がお前の義父だ!」
「……えっ!?」
リシェルは、突然の声に驚き、ティーカップを落としそうになった。振り向けば、リシェルの目に映ったのは――。
「はじめましてだな! ジュリアンの父親、ギュスターヴ・ヴァレリオだ! 噂のリシェル嬢か? いやはや、想像以上に可愛らしい!」
ジュリアンによく似た端正な顔立ちに、まるでライオンのような威圧感と、しかしどこか親しみのある豪快な笑みを携えた男が立っていた。その存在感は、温室の空気を一変させるほどだった。
「ひ、ひゃ……は、はじめまして……リシェルと申します……!」
思わず立ち上がって深々と頭を下げると――。
「おお、かしこまらんで良い、良い。息子の可愛い嫁さんは、もう儂の娘みたいなもんじゃ! 肩の力を抜いて、楽にしてくれ!」
ギュスターヴは、そう言いながら、がばりとリシェルの肩を抱き寄せた。その豪快な抱擁に、リシェルの口から「ひゃっ」と情けない声が漏れる。
「い、いえっ、そんな……滅相もございません……!」
リシェルは、顔を真っ赤にして恐縮した。
「むしろ礼を言うぞ。あの堅物のジュリアンが、あれだけ柔らかい顔をするようになったのは、君のおかげだ。心から感謝しとる! いつも氷のような顔をしていたあのジュリアンが、まさかあんなに甘い顔をするようになるとはな!」
ぽんぽん、と背中を叩かれて、リシェルは顔を真っ赤にしながら目を瞬かせる。ジュリアンが父の前で甘い顔をしているなど、彼女には想像もできなかったからだ。
「そ、それは……こちらこそ、わたしなんか……まだまだ妻として未熟で……」
リシェルは、さらに謙遜しようとする。
「そういう謙遜が、また可愛いんじゃよな〜。まったく、ジュリアンが夢中になるのも無理はないわい。……む、照れたか? 頬が真っ赤だぞ?」
「て、照れてませんっ! 暑いだけです!」
リシェルは必死に否定したが、その必死さがさらにギュスターヴの笑いを誘う。
「うむ、照れてるな! いいぞ、いいぞ! 儂の息子をこんなにも可愛らしくしてくれるとは、本当に良い嫁をもらったわい!」
笑いながらリシェルを見つめるギュスターヴに、リシェルもふっと小さく笑ってしまう。彼の豪快さの中にある温かさに、リシェルは不思議と安堵感を覚えた。
(なんだろう……豪快なのに、不思議と怖くない……この人も、“ヴァレリオ家”の人なんだ。ジュリアン様とは違う意味で、強くて、あたたかい……)
リシェルは、ギュスターヴの存在が、ジュリアンの隠された一面を教えてくれるかのように感じた。
その夜、夕餉は珍しくギュスターヴを交えての食卓となった。食堂には、いつもよりも賑やかな笑い声が響き渡る。ジュリアンとギュスターヴ。二人並ぶと、まるで世代を超えた“兄弟”のような整った横顔で、ノアが背後で給仕をしながら「尊い……」と呟いていた。彼の瞳は、ジュリアンと先代公爵の並び立つ姿に、深い感銘を受けている。
「……して、父上。しばらくはこちらに? まさか、このまま住み着くつもりではあるまいな?」
ジュリアンが、皮肉めいた口調で尋ねる。
「うむ、数日な。屋敷の空気も吸いたくなってな。お前が公爵になってから、ほとんど来ていなかったからな。……それに、リシェルの様子も見たいし、孫の顔も、そろそろかなと思ってな」
ギュスターヴは、にやりと笑いながら、リシェルに視線を向けた。
「わたし……ですか?」
リシェルは、再び子供の話題が出たことに驚き、顔を赤らめる。
「うむ。子ができたとき、どんな母になるか、楽しみでな。きっと、お前のように可愛らしい子になることだろう」
「ちょ、ちょちょちょ……! ギュスターヴ様! そんなことを、食事中に……!」
リシェルは、さらに顔を真っ赤にして、ジュリアンに助けを求めるような視線を送った。
「ちょ、ちょっと、ジュリアン様っ!? 何も言わないで、何でそんな目で見てるんですかあぁぁっ! 私の顔を見て、何を考えているんですか!」
顔を覆うリシェルと、それを見て微笑むジュリアン。ジュリアンは、リシェルの困惑する姿が可愛くて仕方ないといった様子で、彼女に優しい眼差しを向けていた。ギュスターヴは満足げに笑った。彼の目には、二人の間の深い愛情が見て取れた。
「……この家には、あたたかい風が吹いとるな。儂がいた頃よりも、ずっと明るくなったようだ」
彼の言葉には、心からの喜びと、この家に対する愛情が込められていた。
夜。リシェルが寝室で髪を解いていると、ジュリアンがそっと近寄って、肩に手を添えた。彼の指先が、リシェルの髪を優しく梳く。
「……父上が来て、緊張したか? 君のことだから、きっと気を遣ったのだろう」
ジュリアンは、リシェルの様子を心配そうに尋ねた。
「ううん、ちょっとびっくりしたけど……お義父様、素敵な方だった。あんなに優しく迎えてもらえるなんて思わなかったから……正直、私、少し怖がっていたの」
リシェルは、素直な気持ちを打ち明けた。
「……そうか。父上は、ああ見えて繊細なところもあるからな。君のことを気に入ってくれたようで、私も嬉しい」
「ジュリアン様とは似てるけど、全然違うんですね。お顔はそっくりなのに、中身はレオン様みたいっていうか……」
リシェルは、思わず笑ってしまった。ギュスターヴの豪快な性格は、ジュリアンの冷静さとは対照的だ。
「……否定はしない。私も、父にはいつも驚かされるばかりだ」
ジュリアンもまた、くすりと笑い合う。二人の間には、温かい空気が流れていた。
「……でも、わたしは、ジュリアン様の方がずっと好きです。どんなあなたも好きだけど、やっぱりジュリアン様が一番」
リシェルは、ジュリアンの頬に手を添え、まっすぐな瞳で見つめて言った。
「……リシェル」
ジュリアンの声が、愛しさを孕んで震えた。
「今の笑顔も、言葉も、全部……わたしだけのもの、だよね? 誰にもあげないから」
「もちろん。――君のためだけに、私はいる。私のすべては、君のものだ」
ジュリアンは、リシェルの手を握り、その指先にキスを落とした。
「……よかった。じゃあ、安心して、寝ます。あなたがいれば、どんなことがあっても大丈夫だから」
リシェルは満たされた笑顔で、ベッドに横たわった。
「……では、君が眠るまで、そばにいよう。君の寝顔を見守るのが、私の日課だから」
「ん……おやすみなさい、ジュリアン様。いつもありがとう」
「おやすみ、俺の可愛い妻。ゆっくり休んでくれ」
そうして、父が帰宅した日の夜は、穏やかに、そして静かに更けていった。ヴァレリオ公爵邸に吹く新しい風は、家族の絆をさらに深め、彼らの幸福な未来を予感させるものだった。




