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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
第2章 溺愛が昇華するまで

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40.夫婦の明暗

 ――翌朝。いや、もはや“朝”というには少々遅い時刻であった。ヴァレリオ公爵邸の寝室には、カーテン越しに柔らかな夏の陽がふわりと差し込んでいる。その光が、部屋の隅々まで優しく包み込んでいた。


 リシェルは目を覚ました――いや、目だけは覚めていたのだが、肝心の身体が、どうにも起き上がれなかった。全身が鉛のように重く、わずかに動かすだけでも、じんわりとした痛みが走る。


「…………っ」


 体中がじんじんと火照って、肌の奥から熱が湧き上がってくるようだ。足には微かに力が入らず、まるで生まれたての小鹿のように震えていた。何より……首筋や肩、鎖骨に散った、鮮やかな紅色の痕跡が、昨夜のすべてを雄弁に語っていた。鏡を見るまでもなく、自分の顔がどんなに火照っているか、リシェルには想像できた。


(ど、どうして、あんなに……っ)


 昨夜のジュリアンは、明らかに本気だった。あのロゼリア夫人の言葉がきっかけになったとはいえ、「ロゼリア夫人の期待に応えるため」などと理屈を口にしていたが、あれは絶対に建前で、ただただ彼女を求める本能のまま、情熱を注ぎ続けたのだ。普段の冷静沈着なジュリアンからは想像もできないほどの、情熱的な夜だった。その結果が、これだ。全身に残る甘い痛みと、深い疲労感。


「……だ、だめ……起きられない……っ」


 小さく呻いた瞬間――


「お目覚めですか、奥様!?」


 扉の向こうから、ぱたぱたと駆けてきたのは、侍女のエミリアだった。彼女は、リシェルが目覚めるのを、扉の外でじっと待っていたのだろう。リシェルがようやく薄く目を開けた瞬間、エミリアは表情を緩め、手慣れた動きで冷たい水を含ませた布を持ってきた。その顔には、心配と、そしてどこか微笑ましさが混じっている。


「お体、お辛いですね?  無理に起き上がらなくて大丈夫です。朝食は軽めのスープと、喉越しの良い果物をご用意しております。温かいお湯も沸かしてありますので、お目覚めになられましたらお申し付けください」


 エミリアの声は、いつものように穏やかで、リシェルの心を安心させた。


「うぅ……ありがと、エミリア……」


 リシェルは、情けない声を出しながら、エミリアの差し出した布を受け取った。エミリアは手慣れた仕草で、リシェルの額や首筋を優しく拭う。その姿はまるで、熱にうなされる病人を看護する看護婦のようで――。


「しっかし、旦那様……そんなに、お強いなんて。奥様の表情を見れば、一目瞭然ですね」


 エミリアが、からかうような口調で呟いた。その言葉に、リシェルは全身の血が逆流するような感覚に陥った。


「言わないでえええぇぇぇぇぇ!!  エミリアのいじわる!」


 リシェルは、羞恥心から布団に顔を埋めた。


「ふふふ、失礼いたしました。ですが、すごく……幸せそうなお顔でしたよ、奥様。心も体も、深く満たされているのが分かります」


 エミリアはおどけるように笑いながらも、どこか真剣な表情でリシェルを見つめる。その瞳には、リシェルの幸福を心から願う気持ちが宿っていた。


「きっと、心も体も、まっすぐに愛されているのですね。奥様が元気でいられるように、私も尽力いたしますから。どんなことでも、お申し付けくださいませ」

「……うん……エミリアがいてくれて、本当に良かった……。あなたなしでは、私、どうなっていたか……」


 微笑む彼女の手を、リシェルは小さく握り返した。エミリアの存在は、リシェルにとって、まさに心の支えだった。




 その頃。公爵執務室では、いつも以上に整然と書類が片づいていた。ジュリアンは、驚くべき集中力で、目の前の山積みの書類を次々と処理していく。彼の羽ペンは、まるで魔法のように紙の上を滑り、正確な文字を刻んでいく。


「……次。これはベルグ領からの税収報告だな。問題はない。署名を済ませて、すぐに返送だ」


 ジュリアンは、淀みなく指示を出していく。


「ジュリアン様、本日は驚くほどの進捗ですね。午前中だけで、通常の一日分以上の仕事をこなされているようです」


 執事長のセドリックが呆れと賞賛をないまぜにしたような声を出す中、ジュリアンはさらさらと羽ペンを走らせ続ける。彼の背中からは、並々ならぬ気迫が感じられた。


「当然だ。妻が眠っている間に片づけられるものは、すべて終わらせておく。彼女が目覚めた時に、すぐにでも会えるように」


 ジュリアンの言葉に、セドリックは小さく微笑む。


「……かつてない集中力でございます。奥様の影響力の大きさに、改めて驚かされますな」

「……いや、正確には“余韻”の中にいるというべきか。昨夜の、甘い余韻が、私の思考を加速させているのだ」


 ジュリアンは、そう呟くと、わずかに口元を緩めた。その表情は、普段の冷静な公爵からは想像できないほど、甘く蕩けていた。


「はい?」


 セドリックが訝しげに聞き返すが、ジュリアンはそれ以上何も言わず、書類の山を片づける手を止めなかった。書面の内容よりも、昨夜のリシェルの表情が脳裏をよぎって離れない。彼女の甘い吐息、愛おしげな声、肌の温もり……そのすべてが、ジュリアンの心を満たしていた。どれだけ名前を呼んでも、どれだけ抱き締めても足りなかった。


 ――彼女は、俺の妻だ。それが、あれほどまでに愛おしいものなのかと、自分で自分に驚いているほどだ。彼の心は、リシェルへの深い愛情で満たされていた。


「……書類より、早くリシェルの顔が見たい。彼女の笑顔を見れば、今日の疲れもすべて吹き飛ぶだろう」


 ジュリアンが、心底そう願うように呟いた。


「そこは我慢なさってくださいませ、公爵閣下。奥様も、今頃ようやくお目覚めになられた頃かと。もう少し、お待ちくださいませ」


 セドリックがそっと苦笑しながら言った。彼は、ジュリアンがリシェルをどれほど愛しているか、誰よりもよく知っていた。




 日が傾き始めた頃。ようやく体を起こせるようになったリシェルは、エミリアに助けられながら食堂まで来ていた。その足取りはまだ少しおぼつかないが、顔色はずいぶん良くなっていた。すると、すでに食堂で待っていたジュリアンが、リシェルの姿を一目見るなり、すっと立ち上がって出迎える。彼の瞳には、安堵と、そして愛しさが満ちていた。


「起きられたのか、リシェル。体は大丈夫か?」


 ジュリアンは、リシェルの傍らに寄り添い、その手をそっと取った。


「うん……やっと、ね……ジュリアン様、ご心配をおかけして、ごめんなさい」


 リシェルは、少し照れたように俯いた。


「無理はしなくていい。食事も半分食べられたら十分だ。君が健康でいてくれることの方が、私にとっては重要だから」


 ジュリアンの声は、優しく、リシェルの心を温めた。彼は、リシェルの体調を心から気遣っている。


「……ありがと。あの、昨夜のことだけど」


 リシェルは、ジュリアンの言葉に感謝しつつ、意を決したように切り出した。彼女の頬が、わずかに赤く染まる。


「……ん?  何か気になることでも?」


 ジュリアンは、リシェルの言葉に優しく促した。


「……ロゼリア夫人の期待に、応える気はある……けど、その、少しずつ……にして、くれると嬉しい……です。私、まだ、心の準備が……」


 頬を染めながら視線を逸らすリシェルに、ジュリアンはそっと微笑みながら言った。その微笑みには、リシェルへの深い理解と、愛情が込められている。


「その“少しずつ”に、どれほどの意味が込められているかは……俺にとって重要だ。君の気持ちを尊重しよう。君が望むペースで、私たちは進んでいこう」


 ジュリアンの言葉は、リシェルの心を深く安心させた。彼は、彼女の気持ちを何よりも大切にしてくれる。


「……ばか。ジュリアン様の意地悪……」


 リシェルは、ジュリアンの腕に軽く触れながら、甘えるように呟いた。その一言に、静かに二人は笑い合う。彼らの間には、言葉以上の深い絆と理解が生まれていた。


 その夜。寝室ではまだ布団の上にうつ伏せで横たわるリシェルが、隣で本を読んでいるジュリアンに向かってぽつりと呟いた。月明かりが、部屋の半分を明るく照らし、もう半分は影に包まれている。


「……明と暗、って感じだね。私たち」

「ん?  何のことだい?」


 ジュリアンは、本から目を離し、リシェルに視線を向けた。


「わたしはベッドに沈んでて、体が重くてだるいのに、ジュリアン様は政務がはかどって、なんだか絶好調みたいで……こう、対照的というか。まるで、私の“暗”が、ジュリアン様の“明”になっているみたいで」


 リシェルは、少し拗ねたように言った。彼女は、自分の体調不良と、ジュリアンの絶好調ぶりを比べて、妙な気分になっていたのだ。


「そうか?  俺にとっては、君が隣にいるだけで充分“明”だが?  君の存在そのものが、私の人生を明るく照らしているのだから」


 ジュリアンの言葉は、リシェルの心を温かく包み込んだ。彼の言葉は、常にリシェルへの愛情に満ちている。


「…………ずるい。ジュリアン様は、ずるいです」


 リシェルは、ジュリアンを見上げ、そう呟いた。


「なにが?  君に正直な気持ちを伝えているだけだが?」


 ジュリアンは、リシェルの頭を優しく撫でながら、そう言った。


「そっちのほうが、よほど甘い言葉じゃない。私がどんなに疲れていても、そんな言葉を聞いたら、すぐにでも元気になってしまう」


 そっと、ジュリアンが本を閉じる音がした。手が、彼女の背を優しく撫で、その髪を慈しむように触れた後、額にキスを落とす。


「君の明暗も、痛みも余韻も、すべて引き受ける。君のすべてが、私にとっては愛おしいのだから。――だから、また一緒に夜を迎えよう。何度でも」


 ジュリアンの声は、深く、甘く、そして情熱的だった。


「……うん。次はもうちょっと、ほどほどにしてね?  私の体力が、もたないかもしれないから」


 リシェルは、少し照れたように、しかし愛しさを込めてそう言った。


「それは……検討しよう。君の可愛さ次第で、私の理性もどうなるか分からないからね」


 ジュリアンは、楽しそうに微笑みながら答えた。


「“検討”じゃなくて、“確約”でお願いしたいです……っ。でないと、私、明日も一日中ベッドから出られなくなっちゃう」


 そうしてまた、ふたりの夜が、甘く、そっと幕を開けるのだった。彼らの間には、言葉では語り尽くせないほどの深い愛と信頼が育まれていた。

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