39.期待に応えよう
夏の風に乗って、絹のドレスがふわりと揺れる。公爵邸の庭に咲き乱れる薔薇の香りが、微かに鼻腔をくすぐる。
リシェルは緊張した面持ちで、優雅なティーテーブルへと歩み寄った。今日のお茶会の主催者は、ロゼリア・ド・ラ・ヴァリエール。かの名門ド・ラ・ヴァリエール公爵家の老公爵夫人であり、ジュリアンの幼少期を知る数少ない人物でもある。彼女と会うのは、今回で二度目だった。一度目は、公爵夫人となったリシェルが、各公爵家への挨拶回りで訪れた時だ。その時も、ロゼリア夫人のお茶目な発言に、リシェルはたじろいだものだが。今回の招待は「改めて親交を深めたい」との申し出であり、リシェルとしても断る理由はなかった……のだが。
——まさか、こんなにお茶目が過ぎるご婦人だなんて聞いてませんっ!
ティーカップを手に微笑むロゼリア夫人のまなざしは、まるで孫を見るように優しく、そして何かを悟るように鋭い。彼女の視線は、リシェルの心の奥底まで見透かすかのようだった。
「それにしても、久しぶりに会ったジュリアンったら、まるで人が変わったようだったわ。前回の挨拶回りの時よりも、ずっと……柔和になったように見えたもの」
周囲の夫人たちが「まぁ」「そうなのですね」と笑みを交わす中、ロゼリア夫人は片手で扇子をぱたぱたとあおぎながら、意味ありげにリシェルを見つめた。彼女の視線は、まるでレーザー光線のようにリシェルに突き刺さる。
「最近、ヴァレリオ公爵が変わったと、専らの噂なのよ。貴女のおかげね? リシェル嬢」
「え、そ、そんな……っ」
カップを持つ手がぷるりと震える。まさか初対面の時をなぞるように、またもジュリアンの話題になるとは思っておらず、リシェルは思わず背筋を伸ばした。ロゼリア夫人の問いかけは、リシェルの心を直撃した。
「ジュリアン様は、最初から立派なお方ですし、わたしなんて——」
「まぁまぁ、謙遜なさらないで。あの子、昔から頑固で、感情を人に見せるのが下手だったの。私が膝に乗せても、ぴくりともしないような子だったのよ? 可愛い飾りの付いたマドレーヌを手にしても、無表情で黙々と食べるだけで、何を考えているのか全く分からないような、難しい子だったの」
ロゼリア夫人は、懐かしむように遠い目をして語る。その話に、リシェルは思わず微笑んでしまう。
「ふふっ、なんだか想像できますわ。お顔は変わらず完璧でしょうけれど、表情は今よりもずっと硬かったのでしょうね」
「そうでしょう? でも今は、笑うのね。それも、貴女といる時は、本当に楽しそうに。“妻が淹れた紅茶は特別だ”なんて話まで耳に挟んだものだから、さすがに耳を疑ったわ。あの子が、そんな甘いことを言うなんて、考えられなかったもの」
ロゼリア夫人の言葉に、リシェルの頬がみるみるうちに赤く染まる。ジュリアンがそんなことを言っていたとは、リシェルは知る由もなかったからだ。
「え……そ、それは……あの……」
ぎくしゃくと動くリシェルの口元に、ロゼリア夫人がさらに追い討ちをかけるように、笑顔で言った。その笑顔は、どこまでも優しく、しかし有無を言わせぬ圧力を含んでいた。
「それでね、リシェル嬢。前々から気になっていたのだけれど……そろそろ、ヴァレリオ家に朗報がこの耳に届くのも、時間の問題かしらね? 私も、ジュリアンの子を見るのが楽しみでならないのだけれど」
「〜〜〜っ!」
リシェルの顔が、真っ赤に染まった。これまでの「ジュリアンが変わった」という話はまだしも、子供の話題となると、途端に羞恥心と焦りが押し寄せてくる。ロゼリア夫人が、明確に子供の話題に触れたのは、これで三度目だ。一度目の挨拶回り、二度目は手紙で。そして今回。毎回のように、彼女はストレートに、子を望む視線を向けてくるのだ。
周囲の夫人たちからも、あたたかな笑みと共に「楽しみにしてますわ」「やっぱり新婚って素敵ですのね。私たちも、あの頃は……」「公爵様と奥様の可愛いお子様が早く見たいわ」と声が上がる。その視線は、リシェルに期待と、わずかなプレッシャーをかけているようだった。
慣れていないこの空気に、リシェルはただただ挙動不審にカップを傾け——あろうことか、紅茶の香りすらわからなくなっていた。彼女の頭の中は、真っ赤な炎のように燃え上がっていた。
帰宅した夕刻。公爵邸の食堂にて、ジュリアンはいつものように妻の向かいに座り、食事を口にしていた。今日の夕食は、リシェルがレシピを考案したという、彩り豊かな野菜のポタージュだった。が、今日は何かが妙だった。リシェルは、いつもなら食事中はジュリアンの顔をちらちらと見ては微笑むのだが、今日は終始俯きがちで、ほとんどジュリアンと目を合わせようとしない。
「リシェル、味はどうだ? 君が考案したレシピだと聞いているが」
ジュリアンが尋ねると、リシェルは小さく頷いた。
「……はい。美味しいです。とても」
しかし、その声はどこか上の空で、自信がなさそうだった。ジュリアンは、リシェルの皿に残ったスープの様子を見て、ふと疑問に思った。
「……それ、塩と砂糖を間違えているんだが?」
ジュリアンの言葉に、リシェルははっと顔を上げた。
「え?」
慌ててスープに口をつけたリシェルは、ひゅっと顔をしかめた。
「……っ、し、塩っぱい……!? ほんとだ、私ったら……!」
リシェルは、自分のミスに気づき、顔を真っ赤にした。彼女がこれほど上の空になることは、滅多にない。
「珍しいな。君が味を感じないほど上の空とは。今日のティーパーティーで何かあったのか?」
ジュリアンの言葉は、優しかったが、どこか真剣な響きを含んでいた。彼の視線は、リシェルを深く見つめている。
視線を泳がせながら俯くリシェルに、ジュリアンは静かに笑みを深めた。その微笑みは、彼女の動揺を面白がっているかのようだった。
「今日のお茶会に、何かあったのか? ロゼリア夫人にでも、何か言われたのかい?」
ジュリアンが、核心を突くような言葉を口にする。彼は、リシェルの今日の様子から、何かロゼリア夫人に言われたことを察していたのだろう。
「い、いえ! なにも……その……っ、ロゼリア夫人が……っ」
もごもごと言葉を濁すリシェルに、ジュリアンは優しく促した。
「隠さなくていい。君がこんなにも動揺するとは、よほどのことだったのだろう。さあ、正直に話してごらん」
リシェルは、観念したように、小さな声で続けた。その声は、恥ずかしさで消え入りそうだった。
「“朗報が耳に届くのも時間の問題”って言われたんです……っ! お子のことかと……」
「……は?」
ジュリアンの目が、すっと細まった。その瞳の奥に、何かを企むような光が宿る。
「……つまり、子どもの話、か?」
ジュリアンが、ゆっくりと、確認するように尋ねる。
「〜〜〜っ! そうだと思います! 他のご夫人たちも“楽しみにしてます”って、私に……っ! なんだか、私だけが取り残された気分で……」
リシェルは、顔を真っ赤にして、身振り手振りで説明した。彼女は、周囲の期待に押しつぶされそうになっていたのだ。
「……ふむ」
ジュリアンはナイフとフォークを置くと、椅子に深く座り直した。そして、じっと彼女を見つめる。その瞳には、真剣な、しかしどこか甘い光が宿っていた。
「ロゼリア夫人の期待に応えないとな。そして、君を不安な気持ちにさせてはいけない」
「なっ!? ちょっ、待って、それって、そういう——!」
リシェルは、ジュリアンの言葉の意味を察し、慌てて否定しようとした。彼女の顔は、さらに真っ赤に染まる。
「そのためには、今夜、君と向き合う必要があるだろう? 違った意味で、ね」
ジュリアンは、微笑みのまま立ち上がると、リシェルの手を取り、そのまま食堂を後にした。リシェルは、彼の突然の行動に、何も言えず、ただ彼の後を追うしかなかった。食堂には、残された食事と、静かに揺れる蝋燭の灯りだけが残された。
夜。寝室の扉が静かに閉じられた後は、もう誰にも聞こえない。柔らかな月明かりが、室内を幽かに照らしている。
柔らかなシーツの上、リシェルはあっという間に言葉を奪われていた。ジュリアンの瞳に映る、情熱的な光に、彼女の心は震える。
ジュリアンの動きは、いつにも増して丁寧で、優しくて、そしてどこか本気だった。彼は、リシェルのすべてを慈しむように、ゆっくりと、しかし確実に彼女を求めていた。
「今夜は……君のすべてを、じっくり味わいたい気分だ。君の甘い香りを、もっと深く、私のものにしたい」
ジュリアンが、リシェルの耳元で囁く。その声は、熱く、甘く、そして彼女の心を痺れさせた。
「そ、そんな……恥ずかしいことを……っ」
リシェルは、顔を隠そうとするが、ジュリアンの手がそれを許さない。
「……だって、君があまりにも可愛かったから。ロゼリア夫人の言葉で、あんなにも真っ赤になる君を見たら、私はもう、君を離すことなどできなかった」
ジュリアンは、リシェルの頬にキスを落としながら、そう言った。
「……ジュリアン様の……いじわる……っ」
リシェルは、甘く抗議するような声を漏らした。だが、その声には、彼の愛を受け入れる喜びが滲んでいた。
指先が触れた場所に熱が生まれ、唇が触れるたび、甘い息が漏れた。ふたりの間に、言葉はいらない。ただ想いと想いが、互いを確かめ合うように交わされる。それは、二人だけの、特別な時間だった。——朗報が届くかどうかなんて、まだわからない。未来のことは、誰にも予測できない。
けれど。今、この時間こそが、何よりの“答え”だと、そう思えた。互いを求め合い、愛し合うこの瞬間が、何よりも確かな幸福なのだと。
夜が明ける頃、リシェルはジュリアンの腕の中で、夢のような余韻に包まれていた。彼の温かい腕に抱かれ、穏やかな寝息を立てる。彼女の頬にキスを落としたジュリアンが、低く囁く。
「君がどんな顔で“ロゼリア夫人のこと”を話すのか、想像していた以上だった。君のあんなにも可愛い顔を見たら、私も我慢できなかった」
「もう、からかわないで……恥ずかしいわ」
リシェルは、彼の胸元に顔を埋めて、拗ねるように言った。
「からかってはいない。ただ、君を見ていたいだけだ。君のあらゆる表情を、すべて私のものにしたい。それほどに、君は私にとってかけがえのない存在なのだから」
ジュリアンは、リシェルの髪を優しく撫でながら、そう答えた。
——甘く、深く、優しく。
ふたりの世界は、確かに幸せで満ちていた。そして、ロゼリア夫人の期待は、もしかしたら、そう遠くない未来に現実となるかもしれない。




