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38.希望の光

「うおおおおおお!  旦那様ァッ!  奥様ァァァァアアアア!  今日もお美しすぎて、尊いッス!」


 春の陽気が差し込む庭先で、ひとり声を張り上げたのは、公爵邸の使用人であるノアだった。彼は、花壇のチューリップの蕾を眺めながら、両手を広げ、まるで芝居でもしているかのように熱弁している。トーマから許可を貰い、花壇から花を摘もうとしていたマルグリットが、その大声に驚き、思わず剪定ばさみを落としそうになる。


「ノアちゃん!  ちょっと、声が大きいわよ!  屋敷中に響き渡るわ!」


 マルグリットは、ノアの背中に向かって注意した。しかし、ノアは全く気にする様子がない。


「あ、すみませんっ!  でも、今朝の朝食風景、まじで神々しかったッスよね!?  奥様が旦那様のネクタイ整えてあげるとか、恋愛小説でもそうそう出会えない、まさに尊いシーンでした!  生きててよかったッス!」


 ノアは興奮冷めやらぬ様子で、マルグリットに熱く語りかける。彼の顔は、まるで推しを見守るファンのように、紅潮していた。


「あんた、そんな大声で言ってたら、奥様に聞こえるでしょ。全く、熱心なのはいいけど、ほどほどにしなさい」


 マルグリットは溜め息をついたが、ノアの後ろ姿を見て、ふと目を細める。彼の肩には、少しだけ無理をしている影が落ちていた。アデルとの一件で、彼が深く傷ついていたことを、マルグリットは知っていた。誰よりも、アデルの噂に心を砕いていたのは、この少年だったのかもしれない。だが、そんな傷を見せることもなく、彼は今日も「奥様推し」として、屋敷の空気を明るく照らしている。その健気な姿に、マルグリットは胸を締め付けられる思いだった。


 ——本当に、いい子だねぇ。


 心の中でそう呟くと、マルグリットはふいに声をかけた。


「ノアちゃん、今日の昼休み、一緒に甘味でも食べに行こうかねぇ。屋敷の近くに、新しい菓子店ができたと聞いたよ」

「えっ、いいんスか!?  マルグリットさんと甘味!?  ……まさか、俺の推し活をご褒美に!?  やったーーッス!  ありがとうございます、マルグリットさん!」


 ノアは、目を輝かせ、飛び上がるほど喜んだ。彼の純粋な喜びぶりに、マルグリットも心が和む。


「ふふっ、なんでも“尊いッス”で片付けるあんたには、甘いものが似合うわよ。たくさん食べて、元気になりなさい」


 彼が嬉しそうに笑う姿に、マルグリットも小さく頷いた。


 ——傷が癒えるには、時間も、そしてほんの少しの甘さも必要だ。この子が、心の底から笑顔になれる日が早く来るといい。春の空の下、小さな優しさが、乾いた風に乗ってひとつ舞い上がっていった。




 その頃、公爵邸の一室では、甘さの権化のような光景が展開されていた。朝食を終え、ティーカップを片付けるリシェルと、その背後から彼女を抱きしめるジュリアンの姿があった。


「……ジュリアン様、その……もう、お仕事に戻らないと……執務室があなたを呼んでいますわ」


 リシェルは、ジュリアンの腕の中で身動きが取れず、顔を赤らめて言った。朝食後、彼女が花柄のティーカップを片付けようと立ち上がった瞬間、ジュリアンがその背を抱き寄せ、そのまま離そうとしないのだ。


「まだあと五分、許されるだろう?  君とこうしている時間が、私にとって何よりの癒しなのだから」


 ジュリアンの声は、甘く、誘惑的だった。


「えっ、でも……あっ」


 後ろから優しく抱き締められたリシェルは、肩をすくめて赤くなる。彼の腕の中に閉じ込められ、身動きが取れない。


「可愛い妻を前にして、なぜすぐに離れられると思う?  君が隣にいるだけで、私の心は満たされる」


 ジュリアンは、リシェルの耳元で囁く。その声には、深い愛情と、彼女を独り占めしたいという甘えがにじみ出ていた。


「……そ、そんな……また可愛いって、ジュリアン様は……」


 リシェルは、顔を背けながらも、その言葉に内心喜びを感じていた。


「本当のことを言って何が悪い?  君は、私にとってこの世で一番可愛い存在だ」


 真剣な顔で囁かれると、どうにも抗えない。この完璧な公爵は、相変わらず朝から甘すぎる。だが、その甘さが、リシェルの心を深く満たしていく。リシェルはぷいと顔を背けつつ、そっと彼の手に自分の指を重ねた。その指先が触れ合うたびに、二人の間に温かい電流が流れる。


「……もう、あなたってほんとに」

「“ほんとに”?  続きを聞かせてくれるかい?  私のどこが“ほんとに”なんだ?」


 ジュリアンは、リシェルの反応が可愛くて仕方ないといった様子で、彼女の耳元に唇を寄せる。


「……ほんとに、ずるい人です。私をこんなにも夢中にさせて……」


 リシェルは、観念したように、しかし愛しさを込めてそう言った。


「ふふ、それは君にだけ通じる魔法だと思ってくれ。君が私に心を許してくれるからこそ、この魔法は効くのだよ」


 くすくすと笑い合うふたりの姿は、まるで恋人そのもののようだった。彼らの間には、どんな困難も揺るがすことのできない、確固たる愛が築かれていた。


 午後、ジュリアンが執務室に戻ってから、リシェルは久しぶりに中庭を散歩した。春の陽光が降り注ぎ、心地よい風が頬を撫でる。木々の間を小鳥たちが飛び交い、花壇には赤や白のチューリップが咲き誇っていた。その色彩は、リシェルの心を明るく照らす。


「奥様、よろしければ、こちらのお茶を。午後のティータイムにぴったりの、カモミールティーです」


 エミリアが微笑みながら紅茶の入ったカップを差し出す。彼女の顔には、心からの安堵と、リシェルへの深い愛情が浮かんでいた。


「ありがとう、エミリア。ちょうど喉が渇いていたところだったわ」


 リシェルは、カップを受け取り、一口飲んだ。温かい紅茶が、体に染み渡る。


「あの……奥様。最近は、笑顔が自然に見えるようになりましたね。以前は、どこか遠慮がちで、無理をなさっているような時もありましたけれど」


 エミリアは、そっとリシェルに語りかけた。リシェルは少し驚いた顔をして、それから頬を染めて照れ笑いを浮かべる。エミリアの言葉は、リシェルの心の変化を的確に言い当てていた。


「そう見えるかしら……?  まだまだ、公爵夫人としては未熟な私ですが」

「はい。まるで、“幸せ”というお洋服を、奥様がやっと着慣れたみたいに、自然で、奥様の魅力を最大限に引き出していますわ」


 エミリアは、温かい眼差しでリシェルを見つめた。


「……ふふっ。うまいこと言うのね、エミリア。でも、嬉しいわ」


 本妻として、夫と向き合い続けた日々。アデルの一件も乗り越え、ジュリアンへの信頼を揺るぎないものにしたことで、リシェルは確かに、少しずつ、自分に正直になれていた。周囲の言葉に惑わされず、ジュリアンを信じ、自分の立場を受け入れて——いや、「選んで」歩いている。公爵夫人として、ジュリアンの妻として、彼女は自らの意思でこの道を歩むことを決めたのだ。


 だからこそ、こんなふうに、心から笑えるのかもしれない。カップに唇を寄せ、香り高い紅茶を口に含むと、舌先に柔らかな甘さが広がった。それは、リシェルの心に広がる幸福感そのものだった。


「エミリア、あとで一緒にお菓子でも焼きましょうか。新しいレシピに挑戦してみたいの」


 リシェルは、弾むような声で提案した。


「えっ、奥様が!?  もちろん、喜んで!  奥様の焼くお菓子、きっと美味しいでしょうね!」


 エミリアは、目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。春の陽は、ゆっくりと傾きながら、ヴァレリオ公爵邸を優しく包み込んでいた。その光は、公爵夫妻の揺るぎない愛と、その邸に満ちる幸福を祝福しているかのようだった。


 その夜。ジュリアンが寝室に入ってきた時、リシェルは髪をほどいて鏡の前に座っていた。伸びた栗色の髪が、彼女の白い肩に柔らかな影を落としている。


「リシェル、今日の君も……綺麗だ。どんな時も、君は私を魅了する」


 ジュリアンは、リシェルの姿を一目見るなり、感嘆のため息とともにそう言った。


「う……っ、また、そういう……ジュリアン様は、いつでも私をからかうんですから」


 リシェルは、顔を赤らめてそっぽを向いた。しかし、その言葉に偽りがないことを知っているからこそ、彼女の心は温かい幸福感で満たされる。


「嘘じゃない。君は、私にとって一番大切な存在であり、最も美しい女性だ」


 ジュリアンは、彼女の背後からそっと近づき、鏡越しにリシェルの目を見た。その瞳には、深い愛情と、揺るぎない信頼が宿っている。


「君がこの家を守ってくれている。私にとってはそれだけで、十分すぎる理由になる。君がいてくれるからこそ、私は安心して公務に集中できるのだから」

「……わたし、なにもしてないわ。ただ、ここにいただけ。私なんて、何の役にも立っていないのに」


 リシェルは、謙遜するように呟いた。彼女は、ジュリアンの助けになれているのか、常に不安を感じていた。


「“ここにいてくれる”ことが、私には何より大きなことなんだ。君の存在そのものが、この公爵邸の光であり、私の支えなのだ」


 ジュリアンが、リシェルの耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。その言葉は、リシェルの心臓を強く揺さぶった。やっぱりこの人は、ずるい。こんなにも甘い言葉で、私を夢中にさせる。けれど——。


「……ずっと、います。あなたの隣に。どこにも行かないわ」


 リシェルは、彼の言葉に応えるように、そう告げた。その声には、深い愛情と、永遠の誓いが込められていた。そう告げると、ジュリアンは彼女の手を取り、そっと指先に口づけた。その口づけは、二人の愛が永遠に続くことを誓うかのようだった。


 その夜、ふたりはただ寄り添って眠った。言葉を多く交わさずとも、互いのぬくもりがそこにあった。揺るぎない愛と信頼で結ばれた二人の間に、静かな平和が満ちていた。小さな平和が、確かに今ここにある。そう信じられる夜だった。




 そして、屋敷の片隅で。使用人ノアは、夜空を見上げながら、ひとり、こっそり呟いた。


「……俺も、あんなふうに、誰かを信じて、守りたいな。いつか、俺にも、心から大切にしたい人が見つかるかな……」


 目を閉じると、春風が頬を撫でた。彼の心には、アデルとの別れの傷はまだ残っているが、その痛みは、ジュリアンとリシェルの深い愛の光によって、少しずつ癒され始めていた。彼の未来にも、きっと優しい光が差し込む。そんな夜だった。ノアの心にも、希望の光が灯り始めていた。

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