37.去る者
曇天の空の下、馬車の車輪が土を踏みしめる音が、ヴァレリオ公爵邸の裏手に響いていた。春の終わりとは思えぬ、重苦しい空気が漂う。
執事長セドリックの手配により、アデルの新たな職場——地方の貴族家の分家筋——が用意された。そこは、公爵家ほどの格式はないが、使用人として働くには十分な、それなりの家柄だ。これ以上、公爵邸に置くわけにはいかない、かといって、単に放り出すような真似はしない。それが、公爵家としての最後の慈悲であり、リシェルの決断だった。
静まり返る屋敷の一角、使用人用の通用門の前に、ただ一人、アデルが立っていた。彼女の隣には、ささやかな旅行鞄が置かれている。顔色は冴えないが、最後の気力で、なんとか毅然とした態度を装っているようだった。
「アデル」
背後から、凛としていながらも温かみを帯びた声が聞こえた。アデルは、びくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
そこには、リシェルがいた。微風に揺れる栗色の髪、淡い桜色のドレス。どこまでも、品の良い貴婦人の姿だった。彼女の瞳は、アシェルをまっすぐに見据えている。
「……奥様」
アデルの声は、か細く、わずかに震えていた。彼女は、リシェルがわざわざ見送りに来るとは思っていなかったのだろう。
リシェルは、アデルの動揺を見透かすように、まっすぐにその目を見据える。その瞳には、公爵夫人としての揺るぎない覚悟と、決して許さないという強い意志が宿っていた。
「行く前に、ひとつだけ、言っておきます」
リシェルの言葉は、冷たく、しかし明確だった。アデルの喉が、ごくりと音を立てて動いた。彼女は、これからリシェルが何を言うのか、瞬時に理解した。
「たとえどんなに小さな噂であろうと。それが、ヴァレリオ公爵家、あるいはその関係者に向けられたものであったならば」
言葉を区切り、リシェルは一歩、アデルへと近づいた。その一歩は、アデルの心を深く震わせる。
「容赦はしません。心しておいてください」
その言葉は、鋼のように揺るがぬ強さを持っていた。それは、慈悲深い公爵夫人としての顔とは全く異なる、厳しく、絶対的な警告だった。リシェルは、ジュリアンを、そして公爵家を貶める行為を、決して許さないという揺るぎない決意を示していた。
アデルは、リシェルの視線に耐えきれず、視線を落とした。唇をかすかに噛む。彼女の心の中には、悔しさや屈辱、そして自分自身の未熟さに対する苛立ちが渦巻いていた。
「………っ。……お世話に、なりました」
アデルは、絞り出すように、しかし明確に、そう告げた。深くはないが、明確な一礼。それは、彼女なりの、最後の礼節だった。彼女は、この場でこれ以上、言葉を交わすことが無意味だと悟ったのだろう。
リシェルは黙って頷くと、少しだけ表情をやわらげた。最後の言葉は、公爵家としての義務と、彼女自身の慈悲深さから来るものだった。
「……紹介先では、健やかに過ごせますように。これからは、あなた自身の行いを見つめ直し、誠実に生きていくことを願っています」
アデルは何も言わなかった。ただ、その瞳にわずかな悔しさと寂しさを宿して、馬車へと乗り込んだ。彼女の心には、リシェルの言葉が重く響いていた。敗北と、そして、かすかな後悔の念が。
馬車の扉が閉まると、車輪がきしみ、ゆっくりと動き出した。リシェルはそれを見送るでもなく、静かに踵を返した。背中に、遠ざかっていく車輪の音が、乾いた風に乗って響いていた。アデルの去った後には、何事もなかったかのような静けさが残った。
アデルが去った午後、ヴァレリオ公爵邸には早くも通常の空気が戻っていた。ここ数日の澱んだ空気は嘘のように晴れ渡り、屋敷全体が清々しさに満ちている。使用人たちは、皆、安堵したような表情を浮かべていた。
「奥様、やはり貴女様はお強い……。あのような難しい状況を、見事に乗り越えられましたね」
マルグリットが、リシェルの傍らでそう呟いた。彼女の目には、尊敬の念が宿っている。
「本当に。奥様が毅然としてくださったおかげで、私たちも安心して仕事ができますわ」
エミリアもまた、誇らしげに微笑んだ。彼女は、リシェルが一人でアデルと対峙したことを知っている。
「これで屋敷にも、ようやく落ち着きが戻りますね」
マルグリットは、心から安堵したように言った。
「いいえ。私ひとりの力じゃありません。――皆さんが私を信じてくれたおかげです。そして、ジュリアン様が、私を信じてくれたからこそ、私は強く居られました」
リシェルが小さく頭を下げると、マルグリットが「やだ、奥様ったら、そんなご謙遜を」と目を潤ませた。エミリアもまた、温かい眼差しでリシェルを見つめていた。リシェルは、自分が公爵夫人として成長できたのは、周囲の人々の支えがあったからだと、心から感謝していた。
屋敷の空気が少しずつ、いつもの穏やかさを取り戻すなか。それぞれの持ち場に戻った使用人たちの間には、以前よりも深い信頼と結束が生まれていた。アデルの起こした騒動は、結果として、公爵家とその使用人たちの絆を再確認させるきっかけとなったのだ。
夜、リシェルは静かに書斎を訪ねた。ジュリアンは、暖炉のそばのソファに座り、読書をしていた。その姿は、一日の仕事を終え、心からくつろいでいるかのようだった。
「ジュリアン様」
リシェルの声に、ジュリアンは顔を上げた。彼の瞳が、リシェルの姿を捉えると、瞬時に温かい光を宿した。
「……リシェル」
ジュリアンは、ソファから立ち上がると、彼女をそっと抱き寄せた。彼の腕の中に包まれると、リシェルは安堵のため息をついた。彼の温もりは、何よりも彼女を安心させる。
「ありがとう。君が毅然とした態度でいてくれたおかげで、私も……何一つ手を汚さずに済んだ。君が、この問題を解決してくれた」
ジュリアンは、リシェルの髪に頬を寄せ、感謝の言葉を囁いた。アデルの件は、ジュリアンが直接関与すれば、公爵としての立場上、厳罰に処すしか選択肢がなかっただろう。しかし、リシェルが乗り出したことで、穏便に解決することができたのだ。
「手を汚すようなこと、あなたはしないでしょう? あなたは、そんな方じゃないわ」
リシェルは、ジュリアンの胸元に顔を埋めながら、そう答えた。彼女の言葉には、ジュリアンへの絶対的な信頼が込められている。その言葉に、ジュリアンはふっと微笑んだ。その微笑みは、深く、そして優しかった。
「そう言ってもらえると、救われるよ。君が私を信じてくれるからこそ、私は私でいられる」
リシェルの指が、彼の胸元にそっと触れる。彼女の心には、ジュリアンの言葉が温かく響いた。
「あなたを信じているもの。誰が何を言おうと、あなただけを信じています」
「……っ、君は、本当に……」
ジュリアンの声が震える。それは、リシェルの揺るぎない信頼に対する、深い感動と愛しさから来るものだった。そしてそのまま、彼女を優しく引き寄せ、その唇にそっと触れた。そのキスは、感謝と愛、そして二人の絆を確かめ合うように、深く、優しかった。
その夜。広い寝室に、わずかな月明かりが差し込んでいた。窓の外からは、穏やかな春の夜風が吹き込んでいる。リシェルはゆっくりとベッドに腰掛け、ナイトガウンのリボンに手をかけた。その仕草ひとつで、ジュリアンの喉がごくりと鳴った。彼の視線は、リシェルの一挙一動に釘付けになっている。
「リシェル……」
ジュリアンの声は、愛しさを孕んで震えていた。彼の瞳は、欲望と、リシェルへの深い愛情で輝いている。
「今日は……あなたのことを、独り占めさせてください。誰にも邪魔されずに」
リシェルの言葉は、甘く、そして誘惑的だった。その一言で、ジュリアンの理性の最後の糸が切れた。
ジュリアンは彼女の唇に静かに触れ、そのままそっと押し倒す。柔らかい寝具に、二人の体が沈み込む。淡く甘い香りが、ふたりの間に満ちていく。それは、リシェルの肌から発する、彼の最も愛しい香りだ。ガウンの隙間から覗く白い肩を、指先がなぞるたび、リシェルの身体がびくりと震える。その反応が、ジュリアンの愛しさをさらに募らせた。
「君は……君だけは……」
ジュリアンが、リシェルの耳元で囁く。その声は、震えるほどに愛しさを孕んでいた。
「何があっても、離さない。何があっても、守り抜く。……君が、私のすべてだ。私の光だ」
「うん……私も……あなたの妻で、本当に幸せです……」
リシェルもまた、ジュリアンの背中に腕を回し、その存在を全身で感じ取る。熱を持った肌が重なり、指が絡み、鼓動がひとつになる。月明かりの下、ふたりは言葉を交わすよりも深く、互いを求め合いながら、一夜を過ごした。




