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36.対面

 春の終わりを告げる風が、ヴァレリオ公爵邸の庭の木々を揺らしていた。柔らかな陽光が窓から差し込み、執務室の中を明るく照らす。


 その日、リシェルは午前の文通相手への返事を書き終えると、ふと、ペンを持つ手を止めた。彼女の視線は、書きかけの羊皮紙ではなく、遠くを見つめている。その瞳の奥には、確かな決意の光が宿っていた。


「……エミリア。お会いしようと思います」


 執務机の前に立っていた侍女のエミリアは、リシェルの突然の言葉に、目を丸くした。普段の穏やかな奥様からは想像もできないほど、その声には強い意志が込められている。


「……どなたに、でございますか?」


 エミリアは、訝しげに尋ねた。心当たりがあるのか、彼女の表情は少しだけこわばっている。


「アデルさんに、です」


 その名を聞いたとたん、部屋の空気が一瞬、ひやりと冷えた気がした。エミリアの顔からは、完全に表情が消える。アデルが流した悪意ある噂は、屋敷中の使用人たちの間で既に終息に向かっていたが、リシェルの耳にも届いていたことは、エミリアも承知していた。

 だが、リシェルの表情は静かで、どこか透き通るような強さを宿していた。そこには、先日までの不安や動揺は微塵も感じられない。


「直接、話をします。お伝えしたいことがあるんです」


 リシェルの声は、まるで冷たい泉のように澄み切っていた。


「……わかりました。奥様。お付き添いいたしましょう。もしものことがあっては……」


 エミリアは、リシェルを心配し、申し出た。アデルがどのような態度で出るか、予測できなかったからだ。


「いいえ、エミリア。一人で行きます。私の言葉で、私の口から、直接伝えたいのです」


 リシェルの言葉には、一切の迷いがなかった。それは、公爵夫人としての品位と、一人の女性としての覚悟が滲み出ているかのようだった。それ以上、エミリアは何も言わなかった。ただ、静かに頭を下げ、リシェルの決断を受け入れた。彼女は、リシェルがこの数日でどれほど強く成長したかを、間近で見てきたからだ。




 アデルが控えているのは、西棟の裏手にある使用人用の控え室だった。屋敷の中心部からは離れた、目立たない場所だ。かつては輝かしい前途を期待されていた少女が、今では屋敷の端でひっそりと過ごしている。ジュリアンの命により、彼女は公爵邸の表舞台から遠ざけられていた。リシェルが控え室の扉をノックすると、少しの間の後、アデルの、どこか投げやりな声が返ってきた。


「どうぞ……」


 リシェルは、ゆっくりと扉を開けて中に入った。控え室の家具は簡素で、窓から差し込む光も薄暗い。室内には、アシェルが一人、椅子に腰かけ、手元の布に針を刺して縫い物をしていた。まるで、罰を受けているかのような光景だ。アデルは、リシェルの姿を見ると、縫い物をする手を止めた。相変わらず整った顔立ちに、可愛らしいリボンを添えている。しかし、その瞳はどこか醒めていて、以前のような純粋な輝きは失われていた。


「奥様……わざわざ、このような場所まで、おいでいただいたんですね」


 アデルの声には、皮肉めいた響きが混じっていた。


「あなたと話をしたかったのです。直接、きちんと」


 リシェルは、淡々とした口調で言いながら、アデルの真正面に立つ。その姿勢は、一切の揺るぎがなく、公爵夫人としての威厳に満ちていた。


 アデルは、そんなリシェルの様子に、少し芝居がかったような悲しげな表情を浮かべた。そして、静かに、まるで用意された台詞を読み上げるかのように、口を開いた。


「……奥様。あたし……抵抗したんです。あの時、公爵様の執務室で……無理矢理、手を……。怖くて、逆らえなくて……公爵様のお気持ちを逆なでするわけにはいかないと……申し訳ありません、奥様……」


 流れるように紡がれる言葉。その声には、いかにも被害者らしい悲しみと、公爵に逆らえなかったという諦めが込められているように聞こえた。それは、彼女がノアに語った言葉と酷似していた。アデルは、この嘘がリシェルの心を揺さぶり、自らを同情させることができると信じていたのだろう。だが、それが終わる前に、リシェルの瞳がぴたりと揺れを止めた。彼女の目には、アデルの言葉に対する一切の動揺も、疑念も映っていなかった。


「……アデル」


 リシェルの声音は、どこまでも凛としていた。その響きは、澄み切った氷のようでありながら、揺るぎない鋼のような強さを秘めている。


「あのジュリアン様が、無理矢理何かをする人だと、本気で思っているの?」


 リシェルの言葉は、アデルの虚偽の言葉を真っ向から否定するものだった。アデルは、一瞬言葉に詰まる。彼女の計算が、リシェルの揺るぎない信頼の前に、脆くも崩れ去っていくのを感じた。


「……いえ、あたしは、ただ……怖くて……その場の空気に逆らえなくて……」


 アデルは、慌てて言い訳をしようとする。しかし、その言葉は、もはや説得力を持たなかった。


「やめなさい」


 リシェルは、淡く笑うでも、怒鳴るでもなく、ただ静かに、その言葉を発した。けれど、それは冷たい刃のような強さで、アデルの心臓を貫くかのようだった。


「あなたが私に何を言おうと、それで私が怯むと思った?  あなたのくだらない嘘に、私が動揺するとでも?」


 リシェルの言葉は、アデルの心の奥底を見透かしているようだった。アデルの顔から、血の気が引いていく。


「……っ……」

「旦那様を、そんな風に貶めること。私は許しません。私の夫は、そんな卑劣な真似をするような男ではないわ」


 リシェルの目は、燃えるような怒りを宿していた。その怒りは、ジュリアンを侮辱されたことに対する、純粋な憤りだった。アデルの目が大きく揺れた。彼女は、リシェルがこんなにも強い女性だとは、想像もしていなかったのだ。彼女は、リシェルをただの「可愛いだけの平凡な女」と侮っていた。


「……奥様、信じてらっしゃるんですね……」


 アデルは、唇を噛みしめながら、か細い声で呟いた。その声には、諦めと、わずかな驚きが混じっていた。


「ええ、信じています。私の夫は、あのジュリアン・ヴァレリオ公爵は、そんな真似をする方ではありません。彼の誠実さは、誰よりも私がよく知っていますから」


 リシェルは、迷いなく答えた。その声には、ジュリアンへの揺るぎない信頼と、深い愛情が込められている。そして、リシェルは言った。静かに、しかし揺るぎない声で、まるで最終宣告をするかのように。


「アデルさん。荷物をまとめなさい」


 アデルが、ピクリと肩を震わせる。その言葉が何を意味するのか、すぐに理解した。


「明日、執事長に言って、あなたの新しい働き口を手配していただきます。安心してください。あなたが今後、衣食住に困るようなことにはさせません。公爵家から、ささやかな餞別もいたします」


 リシェルは、冷酷な言葉を発しながらも、その中に慈悲の心を忘れていなかった。公爵家としての体面を保ち、アデルをただ放り出すような真似はしない。


「……どうして、そこまで……?  私を憎んでいるはずなのに……」


 アデルは、理解できないといった表情で、リシェルを見上げた。自分を貶めようとした相手に、なぜそこまで優しくするのか。


「私は“奥様”ですから」


 そう微笑んだリシェルは、背筋を伸ばしたままアデルに一礼した。その姿勢は、公爵夫人としての品格と、揺るぎない自信に満ちていた。


「今後、他人の誠実を踏みにじることのないように。今回のことは、あなたにとって良い教訓となるでしょう。……あなたの未来に、幸あらんことを」


 その言葉に、アデルはなぜか何も返せなかった。リシェルの清らかな強さに、彼女の悪意は全く通用しなかったのだ。ただ、糸の切れた人形のように、呆然と立ち尽くしていた。彼女の心の中に、今まで感じたことのない、空虚感と敗北感が広がった。




 西棟の控え室を出たリシェルを出迎えたのは、庭から戻ってきたばかりのジュリアンだった。彼は、リシェルが普段使用しない西棟の裏手から出てきたことに、すぐに気づいたようだ。


「……リシェル?」


 彼の目が、いつになく心配げに細められる。ジュリアンは、リシェルの表情から、何かただならぬことがあったのを察したようだった。


「こんなところでどうしたんだい?  まさか、アデルに何か言われたのか?」


 ジュリアンは、眉をひそめ、すぐにアデルの存在に思い至った。彼自身、アデルの件はすでにセドリックに任せていたが、リシェルが直接会ったと聞いて、動揺を隠せない。


「少しだけ、お話をしに。もう、済んだことですから」


 リシェルは、にこやかに答えた。その声には、何の陰りもない。


「何か……あったのか?  君の顔が、いつもより、その……」


 ジュリアンは、リシェルの顔色を心配そうに覗き込む。彼女の表情には、毅然とした強さが宿っているが、どこか疲れているようにも見えたからだ。


「いいえ、もう何も。むしろ、全てが終わった、という感じです」


 そう答えて、リシェルはふわりと微笑んだ。その笑みは、春の陽光のように温かく、ジュリアンの心を安心させた。その笑みに、ジュリアンは何かを察したようだった。彼は、リシェルが一人で、この問題にきちんと向き合い、解決してきたのだと理解した。そして、彼女がどれほど強い女性であるかを、改めて痛感する。


「君は……強いな、リシェル」


 ジュリアンは、心からの賞賛の言葉を口にした。


「そんなことありませんわ。ただ、信じていたいだけです。自分が信じるものを、大切にしたいだけ」


 リシェルは、ジュリアンの言葉に首を振った。


「私を?」


 ジュリアンが、改めて尋ねる。


「ええ。あなたを。そして、私たち夫婦の絆を」


 リシェルは、ジュリアンの瞳をまっすぐに見つめ、確かな愛情を込めて答えた。


 ジュリアンの腕が、そっと彼女の肩に触れた。その手は、優しく、そして力強い。リシェルがその温もりに身を預けると、春の光が再び差し込んできたかのように、二人の間が明るく輝いた。どんな風が吹こうとも、どんな噂が流されようとも、彼らの間には、動じることのない絆があった。その絆は、困難を乗り越えるたびに、より一層強固になっていくのだった。

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