35.葛藤と別れと
「アデル……」
夕刻、人影もまばらな屋敷の温室にて。ひっそりと花々が並ぶその場所で、ノア・ラフィットの声は震えていた。西に傾いた夕陽が、温室のガラス越しに差し込み、彼の頬に残る光が、揺れる心を照らしているようだった。
目の前にはアデル・マルセラン。いつも通り、きちんと整ったメイドの制服姿のまま、ノアを真っすぐ見つめていた。その瞳には、一見して何の感情も読み取れない。
「俺、もう……無理なんだ」
ノアは、絞り出すような声で言った。彼の心は、ここ数日間、嵐の中にいるようだった。アデルの表情は変わらない。だが、ノアは続ける。彼の心に深く刻まれた、あの日のアデルの言葉を、振り払うことができなかった。
「おまえのこと、ずっと信じたかった。本当に。けど、あの日の言葉が……頭から離れないんだ」
あの日アデルは、震える声でノアに訴えた。「あたし、抵抗……したの。だけど、だけど……」そう言ったアデルの姿が、何度もノアの夢に現れた。彼の脳裏に焼き付いて離れない。
怒りと悲しみと、ジュリアンへの疑念と、アデルへの変わらぬ愛しさ。十六歳の心には重すぎる葛藤が、日ごとにノアの胸を締めつけていた。彼は、尊敬する主を信じたい気持ちと、愛する恋人の言葉を疑いたくない気持ちの間で、激しく揺れ動いていたのだ。しかし、アデルの言葉とジュリアンの日頃の行動との間には、あまりにも大きな矛盾があった。
「アデル、俺……好きだった。ずっと、ずっと好きだったんだ。最初にお前を孤児院で見つけた時、すぐにこの屋敷に連れてきたかった……。やっと連れてこれたけど、俺じゃ、おまえを守れない」
ノアは、ついに観念したかのように、そう告げた。彼の声は絶望に満ちていた。自分には、アデルを守るだけの力も、社会的地位もない。公爵に手を出されたという彼女を、守り切る自信がない。それが、ノアの偽らざる本心だった。
アデルは一瞬だけ目を伏せた。その表情は、まるで、演じていた芝居が終わりを告げるかのように、すっと力が抜けたかのようだ。しかし、彼女の返答は、思いのほかあっさりとしていた。その言葉には、恋人との別れを惜しむような感情は微塵も感じられない。
「……そっか。わかった」
ノアは、アデルのあまりにも素っ気ない返事に、思わず声を漏らした。
「……え?」
「ありがと、ノア。楽しかったよ。あたしも、ノアのこと……好きだった。今までありがとう」
その微笑みは、穏やかで、まるで友人にでも語りかけるかのようだった。そこには、ノアを想って流す涙も、彼への怒りも、別れを惜しむ悲しみも、何一つとしてなかった。ノアの胸に残ったのは、得も言われぬ空虚さだった。まるで、これまで自分が信じてきたものが、全て偽りであったかのような、冷たい感覚。
「じゃあ、元気でね」
くるりと背を向けたアデルの後ろ姿に、ノアは何も言えず立ち尽くすしかなかった。夕陽が差し込む温室の中で、花々の香りがむなしく漂う。
それが、若き二人の、あまりにもあっけない別れだった。ノアは、自分が見ていたアデルが、本当のアデルではなかったのだと、この時ようやく悟ったのだった。
その夜、ヴァレリオ公爵邸では妙な静けさが漂っていた。昼間までのざわめきが嘘のように、屋敷全体が落ち着いた雰囲気に包まれていた。若い使用人たちの間では、アデルと公爵の噂がまだ囁かれていた。しかし、ノアが温室での別れの後、食堂でその噂について毅然と否定したのをきっかけに、風向きは変わり始める。
「旦那様が? そんなわけないだろ。俺はアデルと付き合ってたけど、そんなこと、ありえないって!」
ノアは、普段の陽気さを封じ込め、真剣な眼差しで、同僚の小姓やメイドたちに訴えかけた。彼の言葉には、アデルに対する失望と、ジュリアンへの絶対的な信頼が込められていた。
「奥様にだけあんなにデレデレしてる旦那様が、他の女性を囲うとか……ありえないって。俺が一番近くで見てるんだから!」
ノアの必死な訴えは、若い使用人たちの心を動かした。彼らは、ノアがジュリアンに仕える中で、彼のことをどれほど深く尊敬しているかを知っていたからだ。さらに、年配の使用人たちの口からは、噂を打ち消すための、より明確な否定の言葉が次々に続いた。
「まったく、最近の若い娘は、ろくでもない噂を流すものだ。旦那様が奥様に差し上げたネックレスを見たか? あれは、王家御用達の工房に特注で作らせたんだ。公爵様が、奥様をどれほど大切にされているか、あの装飾を見れば一目瞭然だ」
執事長セドリックが、静かに、しかし威厳のある声で言った。彼の言葉には、公爵家に対する誇りと、ジュリアンへの揺るぎない信頼が込められていた。
「朝も夜もあの二人、食卓は必ずご一緒。どんなにお忙しくても、お顔を合わせてらっしゃるんだ。旦那様が公務を終えられたら、真っ先に奥様の元へ向かわれる姿を、私は何度も見ているよ」
マルグリットも、普段のおっとりとした表情を引き締め、きっぱりと言い放った。
「そうよ、そうよ! 奥様のお部屋に、旦那様がこっそり奥様のお好きなお菓子を差し入れてるって話もあるよ。一度、私、鉢合わせしちゃってねえ……その時の旦那様の照れた顔ったら、もう!」
厨房の女中が、微笑ましそうに付け加える。まるで誰かが仕組んだかのように、ジュリアンとリシェルの仲睦まじい証言が次々に飛び出し、噂は数日のうちに終息へと向かっていった。アデルがジュリアンの執務室に押しかけた一件は、ごく一部の人間だけが知る事実となり、彼女が流した「お手付き」の噂は、ジュリアンとリシェルの愛情の深さを逆に強調する結果となったのだ。
アデルはというと、その頃からあまり屋敷で姿を見せなくなった。表向きは体調を崩したという名目だったが、実際にはジュリアンの命で仕事を外され、別の部屋に隔離されているようだった。
「……それでいい」
ノアは、夜空を見上げながら、誰にともなく呟いた。彼の心には、アデルへの未練はほとんど残っていなかった。代わりに、純粋な失望と、自分自身の見る目のなさを悔いる気持ちが募っていた。その頃、リシェルはというと――。
「ふふっ、今日のハーブティー、また新しいブレンドですね? とても香りが良くて、心が落ち着きますわ」
朝餉のテーブル。相変わらずジュリアンと向かい合い、温かいハーブティーを手にしながら微笑むリシェル。その表情には、噂に惑わされた様子は微塵もない。
「ああ。ジャンが“旦那様が奥様のお疲れを心配されて”って……。ちょっと色々入れすぎたかもしれんが」
ジュリアンは、リシェルの言葉に嬉しそうに頷き、少し照れたように目を逸らしつつも、こっそり頬を緩ませた。彼の優しい眼差しは、常にリシェルに向けられている。
(本妻らしく、堂々と――)
そう言ってくれたエミリアの言葉を、リシェルは何度も思い出していた。あの日、不安に揺れる心を支えてくれた侍女たちの言葉が、今、彼女の背中を力強く押してくれている。
マルグリットの「おこがましい」「本妻は堂々と構えるもの」という叱咤も、今では心強い後押しとなっている。リシェルは、自分がジュリアンの妻として、この公爵邸の奥方として、毅然と振る舞うべきだと強く認識していた。
「奥様。あのようなくだらない噂に、惑わされてはなりません。奥様と旦那様の絆は、誰にも壊せませんから」
エミリアが、リシェルのお代わりの紅茶を注ぎながら、そっと囁いた。
「ええ、そうですね。私……ジュリアン様を信じていますから。彼が、私以外の女性を見るはずがないと」
リシェルは、迷いのない瞳で答えた。信じるということは、時に勇気が要る。特に、自分が愛する人が、世間の悪意ある噂の的になった時、その信念を貫くのは簡単なことではない。
でも、ジュリアンの言葉、仕草、視線。そのすべてが、リシェルにとっては何よりの証だった。彼は誰よりも真摯で、誰よりも誠実で、そして、何よりも――誰よりも、リシェルを大切にしてくれている。その確かな愛情を感じているからこそ、リシェルは彼を信じることができたのだ。
「ジュリアン様、今日もお忙しいのでしょう? 執務室にこもりっきりですか?」
リシェルが尋ねると、ジュリアンはにこやかに答えた。
「いや。今日は午後から空きができた。……一緒に庭を散策しないか? 最近、君とゆっくり話す時間も取れていなかったから」
「まあ、それは……ぜひ! 嬉しいですわ」
リシェルの頬がゆるむ。心が緩む。ジュリアンと過ごす時間は、彼女にとって何よりも大切な宝物だ。疑うより、愛する方がずっと、幸せだった。リシェルは、確かな幸福感を噛みしめた。
その日の夜。リシェルは自室で、エミリアとマルグリットにそっと言った。
「ありがとう。あのとき、強く言ってくれて……本当に感謝しているわ」
リシェルの言葉に、エミリアは微笑んで首を振る。
「奥様は、もともと芯のあるお方です。わたくしたちは、ただ少しだけ、奥様の背中を押しただけですよ」
「そうそう。奥様にぴったりなのは“堂々とした本妻”って肩書きさ。愛されてる人は、それにふさわしい態度でいればいいのです。公爵様が奥様をどれほど深く愛しておられるか、私たちが一番よく知っていますから」
マルグリットの言葉に、リシェルはくすりと笑った。彼女たちの言葉は、リシェルに確かな自信を与えてくれた。――その通りだ。
ジュリアンがくれた愛情を、信じて、守って、育てていこう。そう思いながら、リシェルは夜空を見上げた。月は静かに輝いていた。風も穏やかで、明日もまた、優しい日になる気がした。アデルの起こした波紋は、リシェルの心を一時的に揺るがしたが、結果としてジュリアンとの絆をより一層深めるきっかけとなった。そして、リシェルの心の中の「騎士団長」は、さらに強固なものとなっていた。




