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04.公爵の仕事


 政略結婚という形での新生活にも、リシェルは少しずつ慣れを見せ始めていた。とはいえ、夫であるジュリアン・ヴァレリオ公爵との距離感は未だ掴めないまま。リシェルは毎晩、就寝前のルーティンとして侍女のエミリアと「反省会」と称した日々の振り返りを行っていた。


「今日は……三回も噛んだわ。あの場で笑顔を崩さなかった自分、偉い!」


 リシェルの自画自賛に対し、エミリアは淡々と、しかし容赦なくリシェルの「猫かぶり演技」を評価していく。


「偉くありませんよ、奥様。あの目、旦那様は完全に“どうしたら助けられるのか”と葛藤してましたから」


 エミリアの的確な指摘に、リシェルは思わず言葉を詰まらせる。


「あと、奥様。カップを持つ手が震えてました。緊張しすぎです」

「そ、それは……!  だって、今日の旦那様、髪をくしゃって……!  あれは反則です!」


 普段は冷静沈着なジュリアンが、ふとした瞬間に見せる仕草に、リシェルは密かに胸をときめかせている。しかし、その想いは未だジュリアンには伝わっていない。


「だからと言って指先が震えるのは、騎士団長のような胆力をお持ちの奥様にしてはいけませんね」

「……わたし、いつになったら自然体でいられるんだろう」


 ベッドの上で深いため息をついたリシェルに、エミリアは小さく肩をすくめた。


「自然体でいたらいたで、奥様の“男前な内面”が全開になって、それはそれで旦那様の理性が崩壊しますよ」

「…………」


 リシェルは言葉を失い、枕に顔を埋める。


「……わたしってそんなに……?」


「はい、男前です。かつて男爵令息を言葉で論破して泣かせた方ですから」


 エミリアは過去の出来事を持ち出し、追い打ちをかける。


「それ、もう時効じゃない?」

「あのお茶会に参加された方々の中ではきっと永遠に記憶されてます。あの、初めて奥様にお会いした時の衝撃は、その場にいらした方々には忘れられないものだとお見受けします」


 エミリアの冷静な分析とともに、リシェルの悶絶は深まっていく夜だった。





 翌朝、まだ朝靄の残る公爵邸のダイニングには、早くから朝食が並んでいた。


「おはよう、リシェル」


 ジュリアンの穏やかな声に、リシェルは思わず身構える。


「お、おはようございます、旦那様……っ」


 “おしとやか令嬢モード”を発動したリシェルは、硬直しながら席に着いた。ジュリアンは相変わらず冷静沈着な顔でナイフとフォークを操っている。


(……今日も可愛い。寝癖ひとつなく整えられた髪、でも目がちょっと眠たげで……いや、見すぎるな自分……)


 リシェルは内心で葛藤しながら、ちらりとジュリアンに視線を送る。静かにパンを切るジュリアンとは対照的に、リシェルはその視線を敏感に感じ取り、ますます緊張していく。


(なんだか、今日の旦那様、いつもより視線が多い気が……)


 フォークの先でサラダを突きながら、なんとか落ち着きを取り戻そうとするリシェルだが、ジュリアンの一言が追い打ちをかけた。


「今日も一緒に食事ができて嬉しいよ、リシェル」

「ひゃ、ひゃいっ……!?  い、いえ、こ、こちらこそ光栄ですっ……!」


(何言ってるの私!?)


 頬が紅潮し、パンを喉に詰まらせそうになったリシェルに、ジュリアンはすぐに水差しを差し出す。


「落ち着いて。急がなくていいんだよ」


 ジュリアンの優しさに、リシェルはただ小さく頷くことしかできない。


「……ありがとうございます」


 そのやり取りを、食器を運ぶノアとマルグリットが遠巻きに見守っていた。


「……やっぱり旦那様、奥様に夢中ですね」

「ええ。でも、近づきすぎない絶妙な距離感がもどかしくも美しい……」


 小さく頷き合う二人に、エミリアが冷静な声で割り込んだ。


「奥様、今朝は昨日より0.5秒早く返事できました。成長してます」


 ノアとマルグリットは顔を見合わせ、思わず吹き出しそうになるのをこらえた。エミリアの監視の目が光る中、リシェルとジュリアンの朝食は続いていった。






 朝食後、ジュリアンは書類を手に執務室へと向かった。公爵としての責務は、彼の日常において膨大かつ多岐に渡る。その日もまた、彼の執務室には王都イシュタリアから派遣された軍務官たちが顔を揃えていた。


「ヴァレリオ公爵、先日の北部情勢の件ですが、兵站の再編が必要かと……」


 軍務官の一人が重々しい口調で切り出した。北部の国境地帯では、近隣諸国との小競り合いが絶えず、常に緊張状態が続いていた。特に兵站、すなわち物資の補給路の安定は、前線で戦う兵士たちの士気を維持し、戦力を最大限に引き出す上で不可欠な要素である。

 ジュリアンは眉一つ動かさず、静かに彼らの報告に耳を傾けていた。彼の机の上には、すでに北部地域の詳細な地図と、過去の兵站に関する膨大な資料が広げられている。彼は報告を終えるや否や、即座に口を開いた。


「同意する。兵站の再編は喫緊の課題だ。ただ、再編には時間も資源も要る。まずは補給路の安定が最優先だ。王都からの支援はどの程度期待できる?」


 ジュリアンの問いかけに、軍務官たちは顔を見合わせる。彼らは王都の現状を熟知している。王都の中央集権体制は強固だが、その分、地方への迅速な対応は鈍い傾向にあった。


「正直なところ……薄いかと。陛下の御意向としては、あくまで防衛に徹し、無駄な出費は避けたいというお考えのようです」


 軍務官の言葉に、ジュリアンの顔にわずかな緊張が走った。予想通りの返答だったが、楽観視はできない。北部地域の防衛は、公爵家にとっての最重要課題であり、王都の支援が期待できないのであれば、自力で解決策を見出す必要があった。


「ならば、こちらで動く」


 ジュリアンは即座に決断を下した。彼の頭の中では、すでに複数の代替案が構築されている。


「港湾都市ギルディアと連携し、鉄道の貨物輸送を代替手段として活用しよう」


 軍務官たちは、ジュリアンの迅速な判断力と、その具体的な提案に目を見張った。ギルディアは内陸に位置するヴァレリオ公爵領にとって、唯一の海への玄関口であり、海路を用いた物資輸送の拠点として機能していた。しかし、鉄道の貨物輸送を大規模に活用するという発想は、これまでの慣例にとらわれがちな軍務官たちにはなかった視点だった。


「ギルディアの港は規模が大きく、大量の物資を効率的に陸揚げできる。そこから内陸への輸送には、鉄道が最も迅速かつ安全だ。現在の鉄道網は、主要都市間を結んでいるが、一部未整備区間がある。そこを優先的に整備し、補給路の多様化を図る」


 ジュリアンの言葉は淀みなく、その思考の速さと深さに、軍務官たちは圧倒された。彼はただ口頭で指示を出すだけでなく、具体的な整備計画まで頭の中で描いているようだった。


「整備に必要な人員と物資は、公爵領内の資源を最大限に活用する。不足分は、近隣の商会と交渉し、優先的に調達できるよう手配する。ギルディアの港湾管理官には、既に私から書簡を送ってある。彼もこの提案には前向きな姿勢を示している」


 即座に代案を示し、具体的な指示まで与えるジュリアンに、軍務官たちは感嘆の声を漏らした。


(なんという切り替えの速さ……これが“完璧公爵”か)


 彼らは口々に感嘆の声を漏らした。ジュリアンの指揮能力は、彼らがこれまで出会ってきたどの将軍や貴族よりも突出していた。彼の判断は常に冷静かつ合理的で、感情に流されることがない。その上で、未来を見据えた戦略的な思考を持ち合わせている。

 会議はさらに進み、外交官から諸国間の条約改定について問われると、彼は事前に熟読した資料と独自の分析に基づき、明確かつ中立的な立場で意見を述べた。


「我が国の立場としては、南境との友好関係を維持しつつ、北方の緊張緩和を図る必要がある。ゆえに、今回の条約改定には一部留保を求める。特に、国境線の明確化と、貿易に関する関税の見直しについては、我が国の利益を損なわない範囲での調整を望む」


 一切の無駄がないその答弁に、場は一気に引き締まった。ジュリアンは、軍事、外交、経済、あらゆる分野に精通しており、その知識と洞察力は、彼を単なる貴族の枠を超えた存在にしていた。彼の言葉には、常に国家の未来を真摯に憂う、確固たる信念が宿っていた。

 最後の報告を終えた後、部屋を出ようとする参謀に彼は声をかけた。


「会議の概要を今日中にまとめ、リシェルにも回覧を頼む。内容は把握しておいてもらいたい」


 ジュリアンの言葉に、参謀は驚きを隠せない。公爵夫人に政務の報告書を回覧するというのは、異例中の異例だった。


「は、はい!  奥様に……」


(そうか、あの方が公爵夫人……!  あの穏やかな方が、政務にも関心を……)


 参謀たちは、ジュリアンのリシェルに対する信頼のほどに、思わず背筋を伸ばした。それは単なる公爵としての義務感からくるものではない。ジュリアンは、リシェルを一人の人間として、そして公爵夫人として、深く信頼し尊重している証拠だった。彼はリシェルが、ただの花嫁としてではなく、公爵家を支える重要な存在となり得ることを見抜いていた。







 夕餉の席もまた、ジュリアンとリシェルは静かに向かい合っていた。


「今日の料理、君の故郷の味に似せてみたんだ。ジャンに相談してね」


 ジュリアンの言葉に、リシェルははっと顔を上げた。故郷を離れてから、故郷の味を口にする機会はほとんどなかった。


「そ、そうなんですか!?  すごく美味しいです……懐かしい味……」


 リシェルは感極まったように、皿の上の料理を見つめた。ジュリアンは、その表情を満足げに見つめている。


「よかった。君の笑顔が見たくて」

「……っ……」


 またも紅潮する頬を隠すように、リシェルはスープに視線を落とす。


(こんなのずるい。どうしてそんなに自然に優しいの……)


 ジュリアンの方も、手元のワインを見つめながら小さく息をついた。


(今日も触れられなかったな……でも、それでいい。今はこの距離を、丁寧に埋めていこう)


 二人の間には、まだ触れることのできない壁が存在していたが、その壁は確実に薄くなっていた。ジュリアンの穏やかな優しさと、リシェルの戸惑いながらも隠せない感情が、静かに交錯する。


 その夜。


「奥様、今日の返答は完璧でした」


 エミリアの声に、リシェルはベッドの中で飛び起きた。


「えっ、どこが!?」


 エミリアの手元のメモには、今日の会話テンポ、笑顔の回数、目線の揺れなど、事細かに記録されていた。まるで戦術を分析するかのように、彼女はリシェルの言動を数値化していた。


「食前、旦那様の『笑顔が見たくて』に対し、視線を落としたタイミングが絶妙でした。あの“はにかみ”は、まさに至高の域です」

「それ……褒めてるの?」

「はい。完全に“萌え”です」


 エミリアは真顔で言い切る。リシェルは恥ずかしさのあまり、枕を抱きしめた。


「……もう、寝るっ!」


 ベッドに潜り込むリシェルの頬は、微熱のような熱を宿していた。ジュリアンの優しさが、彼女の心にじんわりと染み込んでいる証拠だった。





 その夜の月は、二人の部屋に静かに光を落としていた。

 政略結婚という形から始まったリシェルとジュリアンの関係は、まだ始まったばかりである。しかし、彼らの間には、目に見えない絆が確かに芽生え始めていた。ジュリアンは、リシェルのぎこちない“猫かぶり演技”の奥に隠された、真っ直ぐで真面目な内面を見抜いている。そしてリシェルもまた、ジュリアンの完璧な公爵としての姿だけでなく、その奥に潜む穏やかで優しい人柄に惹かれ始めていた。

 彼らの距離は、まだ近くて遠い。しかし、それは決して絶望的な距離ではない。むしろ、互いを尊重し、理解しようと努めるがゆえに生まれる、心地よい緊張感とも言えた。毎日のささやかな会話、ふとした瞬間の視線、そして言葉にはならない優しさの交換。それらが積み重なることで、二人の間には少しずつ、しかし確実に、確かな時間が流れていく。

 ジュリアンがリシェルを政務に巻き込もうとしているのは、単なる義務感からではない。彼はリシェルの隠れた才能と、公爵夫人としての資質を信じている。そして、リシェル自身もまた、ジュリアンの隣で、新たな自分を発見し、成長していく可能性を秘めている。

 この政略結婚が、いつか本当の愛へと発展するのか。それはまだ誰にも分からない。しかし、月明かりが照らす二人の部屋には、互いを想い、互いを尊重する、静かな温かさが満ちていた。近くて遠い二人の距離は、確実に一歩ずつ、確かな時間を重ねながら縮まっていた。彼らの物語は、まだ始まったばかりである。

 

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