31.広がり始める黒い影
翌朝、ヴァレリオ公爵邸にはいつもと変わらぬ、穏やかな光が差し込んでいた。窓から差し込む陽光は、磨き上げられた床にきらきらと反射し、優雅な朝の始まりを告げている。
朝餉の席には、銀の髪を軽く整えたジュリアンと、まん丸の黒目をくるくると動かすリシェルの姿があった。向かい合って座る二人の間には、温かいコーヒーと焼きたてのパン、そして新鮮な果物が並べられている。
「……うふふ、なんだか今日のスープ、いっそう美味しく感じます」
リシェルが、琥珀色のスープをスプーンですくいながら、幸せそうに微笑んだ。
「リシェルが隣にいるからだ。……三日も離れていたなんて、もう二度と御免願いたい」
ジュリアンは、リシェルの言葉にすぐさま反応し、真剣な眼差しで彼女を見つめた。その表情は、まるで遠距離恋愛の恋人のようだ。
「過保護ですわよ、ジュリアン様」
リシェルは軽く笑いながら指摘する。彼の甘えん坊な一面は、二人きりの時だけ見せる特別なものだ。
「だとしても、私には君の不在が何より堪える。君のいない三日間は、三週間にも、いや三ヶ月にも感じられた……」
スプーンを置いたジュリアンが、ため息混じりに額に手を添える。まるで劇中の貴族のような芝居がかった仕草に、リシェルは吹き出しそうになった。彼のオーバーな表現はいつものことだが、その言葉に嘘偽りがないことも知っていた。
「お戯れを……でも、嬉しいです。お帰りなさいませ、ジュリアン様」
リシェルは、温かい眼差しでジュリアンに語りかける。
「……ああ、ただいま、リシェル」
ジュリアンの瞳は、もう何度目かの出会いに恋をしているかのように、まっすぐリシェルだけを見つめていた。その瞳には、深い愛情と、彼女への絶対的な信頼が宿っている。
これがジュリアンの日常だった。完璧なスパダリであり、誰よりも甘やかし上手な夫。そして、リシェルにとっては世界でただひとり、心から愛しい人。互いに信頼し、愛し合う、揺るぎない絆。――この幸福が、永遠に続けばいいと、リシェルは心から願っていた。彼女の心には、一片の曇りもなかった。
その数刻後。リシェルは執務室でジュリアンと向かい合っていた。彼が巡察中に得た報告を聞き終えた後、リシェルは切り出した。
「ジュリアン様、ご紹介したい方がいるのです。先日ノアの推薦で採用した、新人メイドなのですが……とても働き者でして」
リシェルは、アデルが公爵邸に来てからの三日間で、いかに真面目に働き、他の使用人たちにも慕われているかを簡潔に説明した。
「ふむ。ノアの推薦となれば、期待できるな。ノアは貧困街出身だが、見る目は確かなようだから。どの子だ?」
ジュリアンは、興味深そうに眉を上げた。彼は使用人の出身や身分で判断することなく、その能力と人柄を重視するタイプだ。リシェルが視線を送ると、部屋の少し離れた場所で待機していた栗色の髪の少女が、一歩前に進み出た。アデル・マルセランである。
アデルは、ジュリアンの前に立つと、深々と頭を下げた。緊張しているのだろう、唇がきゅっと結ばれているのが見て取れた。しかし、その姿勢は崩れることなく、彼女の淑女教育の成果がうかがえる。
「アデル・マルセランと申します。公爵様にお目にかかれて光栄でございます」
アデルの声は、緊張でわずかに上ずっていたが、それでもはっきりと聞こえた。ジュリアンが静かに頷いた瞬間だった。
(――あっ)
アデルは、思わず息をのんだ。彼の漆黒の瞳に、自分の姿が映ったのだ。細部まではっきりと見えるわけではない。けれど確かに、自分がその中にいた。その瞬間に、アデルの胸の奥で、何かがかすかに、音を立てて崩れた。それは、まるで凍てついていた氷が、微かにひび割れるような音だった。
(……どうして……こんなに、美しいの……?)
ジュリアン・ヴァレリオは、アデルの想像を遥かに超える存在だった。完璧に整った顔立ち。均整の取れた体躯。そして、その全身から放たれる気品に満ちた所作。何よりも、リシェルへ向けられた柔らかな微笑みは、彼の完璧さを際立たせていた。ジュリアンは、ただ見ているだけで心を奪われる存在だった。彼の存在そのものが、光り輝く宝物のように見えた。
(私……何を……)
思考がうわずる。呼吸が浅くなる。心臓が早鐘を打つ。鼓動が耳の奥で響き、身体中が熱くなる。ああ、そうだ。忘れていた。この感覚。この心のざわめき。
幼い頃、両親が健在だった頃に、漠然と抱いていた願い。誰かに「選ばれたい」と願ったこと。誰よりも美しく、誰よりも価値のある人間になりたいと思ったこと。そして、物語に出てくるような「運命の王子様」を、自分の手で掴み取りたいという――幼いながらに抱いた、純粋な欲望。あの頃の自分には、きっと、この「王子様」が手に入るはずだった。家が没落しなければ、自分こそが……。
(こんな人が、この世に存在するなんて……そして、その隣に立つのが、あのリシェル……?)
アデルの目に映るリシェルは、ただ可愛らしいだけの、平凡な女性だった。なぜ、こんなにも完璧なジュリアン・ヴァレリオが、リシェルを選んだのか。彼女には理解できなかった。
(あんな、平凡な可愛いだけの人が……? なら、あたしだって……あたしの方が、もっとこの人の隣に相応しいはず……!)
胸の奥で、何かがきゅっと締め付けられ、そして、ぐにゃりと蠢いた。それは、今まで知らなかった、どす黒い感情だった。
それが嫉妬と呼ばれるものだと気づくには、まだ少しだけ時間が必要だった。しかし、その感情の芽は、アデルの心に確実に根を張り始めたのだった。ジュリアンが公務で執務室にこもるようになってから、アデルの様子は目に見えておかしくなった。
「アデルちゃん、タオル取り替え、お願いできる?」
メイドの一人がアデルに声をかける。普段なら「はいっ!」と元気よく返事し、そつなくこなすアデルが、このところジュリアンの周辺でだけ、なぜか挙動が不審だった。
「あっ、はいっ! すぐに……あれっ、えっと……あの……」
タオルを取り違える。カップを逆さに置く。ジュリアンに話しかけられると声が裏返る。些細なミスが頻発するようになったのだ。
「……大丈夫? アデル? 最近、少し疲れてるみたいだけど」
隣でその様子を見ていたノアが、心配そうに眉をひそめた。アデルの最近の不審な行動に、ノアは何か違和感を覚えていた。
「あっ、ご、ごめんなさいノアさん……ちょっと考え事をしてて……大丈夫です、すぐにやります!」
アデルは言い訳のようにそう答えると、ノアからふいと視線をそらした。その瞳は、ちら、と廊下の奥を見やった。
そこでは、執務室から出てきたジュリアンが、庭に出ようとするリシェルに、優雅な仕草でコートを羽織らせながら、笑顔で耳元に何かを囁いている。リシェルは顔を赤らめながら、嬉しそうに笑っていた。二人の間には、誰も踏み込めないような、親密で甘い空気が流れている。
(……また、あんなに近くで……また、あんなに甘い顔で……)
アデルの胸がきゅっと締め付けられる。それは、ただの羨望ではなかった。胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされるように苦しい。こんな気持ち、今まで知らなかった。こんなにも、誰かの幸福を憎いと思ったことはなかった。そしてそれは、リシェルにも少しずつ伝わっていった。
「……マルグリット、最近アデルさんの様子が変なのです」
夕方、公務を終えて執務室に戻ったリシェルが、メイド頭のマルグリットに相談していた。マルグリットは、リシェルが公爵邸に来て以来、常に彼女を温かく見守ってきた、頼れる存在だ。
「何と言いますか……他の方にはいつも通り接しているのに、ジュリアン様の前ではどこか落ち着きがなくて、小さなミスを繰り返すのです」
リシェルは、自分が感じている違和感を慎重に言葉にした。彼女は、使用人たちの些細な変化にも気づくほど、よく周りを見ている。
「お気づきになられていましたか、奥様」
マルグリットは、静かに頷き、温かい紅茶をリシェルの前に差し出す。彼女もまた、アデルの様子がおかしいことに気づいていたのだろう。
「確かに、旦那様の前では様子が違いますね。ですが、まだ若い娘です。公爵様のようなお方に仕えることへの、尊敬の念が強すぎて、緊張しているのでは?」
マルグリットは、穏やかな口調でそう言った。それは、最も考えられる、無難な解釈だった。
「そう……でしょうか」
リシェルは、マルグリットの言葉に頷きながらも、心のざわつきはおさまらなかった。彼女は、自分の勘を信じる方だった。何となく感じる「違和感」は、えてして的中する。彼女の直感は、伯爵令嬢として培われた観察眼と淑女として厳しく育てられたことによって磨き上げられていた。
(……まさか。そんなこと、ないわよね……)
ジュリアンは自分を一番に想ってくれている。何度も、言葉にもしてくれた。彼の行動の全てが、リシェルへの深い愛情を示している。だから、そんなはずはない、と。でも。
(……もし、アデルさんが、ジュリアン様のことを……)
声にならない疑念が、ふっとリシェルの心に浮かび上がる。それは、微かな、しかし確かな波紋となって、彼女の心の平穏を揺らし始めた。マルグリットは、そんなリシェルの心を読み取ったかのように、そっと微笑んだ。彼女は長年、この公爵邸で多くの人間模様を見てきたベテランだ。
「奥様、あの方がどれほど奥様を大切にされているか、誰よりも私が存じております。公爵様の奥様に対するご愛情は、この邸の使用人全員が知るところ。ご不安には及びませんわ」
マルグリットの優しい言葉が、リシェルの心に温かく染み渡る。
「……ありがとう、マルグリット」
リシェルは、少しだけ安堵したように微笑んだ。
けれど。その胸の奥に、小さなさざ波が立ち始めたのは――確かだった。そのさざ波は、やがて大きな波となり、二人の関係を試すことになる。リシェルの「騎士団長」の側面が、再び試される日が来ることを、彼女はまだ知らなかった。




