30.吹き込む春風
それはまるで、春風のような少女だった。アデル・マルセラン。年の頃は十六。栗色の髪を二つに編み、赤みを帯びたヘーゼルの瞳が印象的な、ヴァレリオ公爵邸のメイド見習い。
彼女がヴァレリオ公爵邸に来て、まだ三日しか経っていなかったが、使用人たちの間ではすでに評判だった。メイドたちの控え室では、休憩時間になるとアデルの話題で持ちきりになる。
「アデルちゃん、ほんとにお行儀がいいのよ。礼儀もきちんとしてるし、言葉遣いも丁寧だわ」
年長のメイドの一人が、感心したように声を弾ませる。
「そうそう、それでいて気さくで、私たちにも優しいしさ。新人なのに、もう何年も前からいるみたいに馴染んでる」
別のメイドが、淹れたての紅茶を一口飲みながら同意する。
「なんか見てると、心が和むっていうか……。ギスギスした空気が、アデルちゃんが来るだけでふんわりするのよね」
「癒されるってやつだね。うちの公爵夫妻に次ぐ癒し担当よ、ほんと」
年長メイドのひとりがそう呟くと、その場の全員が深く頷いた。
――リシェル様とジュリアン様は別格として。
その言葉に異論を唱える者はいなかった。ヴァレリオ公爵邸の使用人たちが日々心の栄養としているのは、何といってもあの甘々夫婦である。彼らの仲睦まじい様子は、日々の労働の疲れを忘れさせるほどの、清涼剤だった。だが今、そこに「可憐な新入り」が加わった。アデルが来てからというもの、公爵邸全体の空気がさらに柔らかくなったのは間違いなかった。
「アデルちゃん、こっち手伝ってもらえる? このリネン、まだ畳んでないのよ」
廊下の向こうから呼ばれる声に、アデルはぱたぱたと小走りで駆け寄る。
「はいっ、すぐに伺います!」
軽やかな足取りながらも、その身のこなしは丁寧で、品があった。もともと商家の令嬢だったアデルは、十歳まできちんとした淑女教育を受けていたという。両親を早くに亡くし、孤児院に引き取られてからは苦労も多かっただろうと、使用人たちは密かに噂していた。だが、彼女の表情には、いじけた様子やひねくれた感情は微塵もない。常に明るく朗らかで、だれにでも礼儀正しく、しかも気が利く――つまり、天性の「好かれる娘」だったのだ。
特に、厨房で給仕を担当する者たちは、アデルが来てからというもの、いつにも増して張り切っていた。彼らはアデルの無垢な笑顔を見るたびに、より一層美味しい料理を、より良い状態で提供しようと奮起するのだった。
「アデルちゃん、今日のお茶菓子、奥様に運んでもらえる? 今朝焼きたてなんだ」
料理長ジャンが、特別に用意した皿を差し出す。普段は寡黙なジャンも、アデルにはどこか優しい目を向けていた。
「もちろんです! ジャン様、ありがとうございます! あ、ノアさん、茶器お願いできますか?」
アデルが顔を輝かせながら、隣にいたノアに声をかける。
「はい、こちらに」
ノアが、にこっと笑って丁寧にトレイを渡す。ふたりの目が合った瞬間、アデルの頬がほんのり赤らんだ。ノアもまた、少し照れたように視線を逸らす。
「ありがと、ノアさん。……あっ、その……えへへ」
アデルは視線をそらし、恥ずかしそうにはにかんだ。
「……うん。頑張ってね、アデル」
ノアもまた、ぎこちないながらも優しい笑顔を返した。なんとも微笑ましい光景だった。それを見ていた年配の使用人たちは、互いに肘でつつき合った。
「こりゃあれだな。若い恋だな」
「可愛いもんねえ、ふたりとも。初々しいわぁ」
マルグリットは、満面の笑みでその様子を見守っていた。彼女にとって、主人の恋バナだけでなく、若い使用人たちの淡い恋もまた、日々のエネルギー源だった。
年配の使用人たちが肘でつつき合うのをよそに、アデルは顔を火照らせてリシェルの部屋へと向かった。胸の奥に、ささやかな、けれど確かな温かい感情が芽生えているのを感じながら。
「――まあ、美味しい! これ、厨房のジャン様の新作ですか?」
リシェルは、目の前のお皿に盛られた可愛らしい焼き菓子に目を輝かせた。ラズベリーの鮮やかな赤と、チーズの白い色がコントラストをなし、見た目にも美しい。一口食べれば、甘酸っぱさと濃厚なコクが口いっぱいに広がり、思わず笑みがこぼれる。
「はい、奥様。ラズベリーとチーズを組み合わせた焼き菓子だそうです。ジャン様が、奥様の喜ぶ顔が見たいと仰っていました」
アデルは、はきはきとした声で答える。
「ふふ、ありがとうございます。アデルさん、すっかり慣れたみたいですね。動きもスムーズになって、もう立派なメイドさんだわ」
リシェルは、アデルの成長を我が事のように喜んだ。彼女は公爵家の奥様として、使用人一人一人のことにも気を配っている。
「はい。皆様がとても優しくしてくださって……セドリック様もマルグリット様も、ノアさんも、わからないことを丁寧に教えてくださるんです。本当に、感謝ばかりで……」
アデルは深々と頭を下げる。その瞳には、嘘偽りのない感謝の気持ちが込められていた。
リシェルはその様子を、どこかお姉さんのような、あるいは母親のような温かい視線で見つめた。アデルがこの屋敷に来て以来、全体の空気がいっそう柔らかくなった気がする。特にノアとのやり取りは微笑ましく、つい応援したくなるほどだった。
「そういえば、ノアさんと仲が良いみたいですね? よく一緒にいるところを見かけるわ」
リシェルは、茶目っ気たっぷりに尋ねた。ノアとアデルの間の、初々しい雰囲気に気づいているのは、マルグリットだけではなかった。
「えっ、そ、そんな……! わたくしとノアさんですか? えっと、その……えへへ」
アデルは途端に顔を真っ赤にして、視線を泳がせた。その反応は、年相応の乙女そのもの。リシェルは思わず頬を緩めた。
「うふふ。いいですね、青春って。キラキラしていて、見ているこちらもなんだか幸せな気持ちになるわ。私もジュリアン様と、そういう時期があればよかったのかしら」
リシェルは遠い目をして、微笑んだ。彼女とジュリアンの関係は、政略結婚から始まったものだ。恋愛感情が芽生える前に、夫婦としての絆が先に形成された。
「えっ? でも今、すごく仲が良いって……皆さん言ってますよ? 奥様と旦那様のラブラブぶりは、公爵邸の名物だって」
アデルが純粋な瞳で尋ねる。彼女から見れば、リシェルとジュリアンの関係は、まさに理想の夫婦そのものだった。
「……そ、それは、えっと……いまは、ですから! その……ねえ!」
リシェルは顔を真っ赤にして、湯気の立つ紅茶をすすりながら、ぽふんとクッションに身を沈めた。ジュリアンの前では「騎士団長」然とした一面を見せることもあるが、使用人の前では、やはり「可愛らしい奥様」としての顔を保とうとする。だが、時折その素顔がちらりと見え隠れする瞬間が、また彼女の魅力でもあった。
「ふふ、奥様……」
アデルの目に浮かぶのは、心から尊敬する“理想のご夫人”の姿。可愛らしくて優しく、でも芯のある淑女。アデルが「将来、私もああなりたい」と思える、憧れの大人の女性が、リシェルだった。少なくとも――その時点では、彼女の目はリシェルにだけ、向けられていた。彼女の未来は、希望と憧れに満ちていた。
その日の午後、公爵邸はどこか慌ただしくなっていた。朝の静けさとは打って変わって、あちこちで人の声が聞こえ、活気が満ちている。
「旦那様がお戻りになります!」
門番の朗々とした声が、庭から屋敷へと響き渡った。その声を聞いた瞬間、リシェルはぱっと立ち上がった。まるで弾かれたように。
「ジュリアン様がお戻りに!?」
エミリアが、すぐに支度の準備に走る。
「三日ぶり……こんなに早く戻られるとは。天候が良かったのかしら、それとも巡察が順調だったのかしら」
リシェルは、喜びを隠しきれない様子で呟いた。エミリアは慣れた手つきで、リシェルに袖を通しやすいようにと、薄い水色のドレスを選んで差し出した。
「奥様、お召し物はこちらを。旦那様、きっとお喜びになりますよ」
エミリアの言葉に、リシェルはきゅっと袖口を整えながら、自然と頬がほころんだ。
「ふふ……嬉しいです、やっぱり。こんなに早く会えるなんて」
庭からは、銀の馬車の音がだんだんと近づいてくる。蹄の音、車輪が石畳を転がる音が、リシェルの胸を高鳴らせた。そして――玄関の扉が、ゆっくりと、しかし荘厳に開いたその瞬間。
アデルの時間が、止まった。
開かれた扉の向こうに、一人の男性が立っていた。
銀色の髪が、午後の柔らかな風に揺れる。漆黒の瞳が、まっすぐに屋敷の奥へと、夫人であるリシェルへと向けられる。その人は、ヴァレリオ公爵――ジュリアン・ヴァレリオ。
彼の放つ圧倒的な存在感、洗練された佇まい、そして何よりも、その瞳に宿るリシェルへの深い愛情が、アデルの心を鷲掴みにした。
「リシェル……ただいま。会いたかった」
ジュリアンの声は、低く甘く、そして愛情に満ちていた。彼はリシェルへと一歩踏み出し、その手をそっと取った。
「……お帰りなさいませ、ジュリアン様」
リシェルもまた、その手を握り返し、満面の笑みで夫を迎える。
誰もが息を呑むほどに美しい再会だった。そこには、二人の間にしか存在しない、特別な空気が流れていた。公爵邸の使用人たちは、いつものように温かい眼差しでその光景を見守っていた。ただひとり、アデルだけが――その人を見て、胸を撃ち抜かれていた。
(……なに……?)
アデルの脳裏に、形容しがたい衝撃が走った。初めて見た。こんなに完璧な人。
完璧な容姿。その長身と、どこまでも洗練された立ち居振る舞い。優雅で、柔らかで、そして――リシェルへと向けられる、まっすぐな愛情。そして、あの微笑み。自分には向けられていないとわかっていながら、見ているだけで心臓が早鐘を打つ。胸の奥がざわめき、指先が震える。
(この人が、奥様の……)
アデルの心の中に、今まで知らなかった、どす黒い感情が湧き上がってくる。それは、純粋な憧れとは全く異なるものだった。
(……ずるい。こんな人を独り占めしてるなんて)
アデルは、まるで熱に浮かされたかのように、ジュリアンから目を離すことができなかった。その感情が、何なのかはまだ彼女自身にもはっきりとわかっていなかった。しかし、その根底にあるのは、憧れを超えた、もっと支配的な欲求だった。ただ、確かなのは。
この日、この瞬間。アデル・マルセランは、ジュリアン・ヴァレリオに――恋をした。そして、その恋は、やがて彼女の心を蝕み、純粋だった彼女を、全く別の人間へと変貌させていくことになるのだった。




