29.甘々な日常
「おはようございます、ジュリアン様。……って、だから、起きてください!」
窓から差し込む朝の柔らかな光が、寝室の天蓋付きベッドを優しく包み込む。その光を受けて、リシェルは困ったように眉を下げた。傍らには、柔らかな寝具に身を沈めたジュリアンがいた。彼の銀色の髪は寝癖ひとつなく整っており、まるで生まれ持った貴族の品位が、眠りまでも美しく保っているかのようだ。漆黒の瞳はまだ固く閉じられたまま、規則正しい寝息が聞こえる。しかし、その口から漏れる声は、年頃の少年のように子どもじみた甘えを含んでいた。
「ん……もう少しだけ……このまま……」
リシェルの温もりに包まれたまま、ジュリアンは身動ぎ一つしない。
「リシェル、あと五分……」
「それ、もう三回目です。これ以上寝坊したら、公爵様の名折れになりますよ」
リシェルの声には、わずかな呆れと、隠しきれない優しさが滲んでいた。
「妻が可愛すぎるのが悪い」
ジュリアンの掠れた声は、寝起きの甘さに拍車をかけている。
「寝ぼけながら口説かないでください!」
リシェルの頬が、みるみるうちに朱を帯びる。まん丸の黒目がきゅっと細められ、困ったように笑う姿は、見る者に愛嬌を与える“子リス”そのものだ。だが内面は、ヴァレリオ公爵家の騎士団長をも凌駕するほどにきっぱりとしていた。この可愛らしい外見と男前な内面のギャップに、ジュリアンは毎朝、自身の理性を削られているのだった。布団の中で腕を組んだまま、彼は懲りずにリシェルの腰に手を回し、自分の方へと引き寄せる。
「じゃあ、行く前にキスをくれたら起きよう」
「……なんで交渉になってるんですか、もう」
リシェルは呆れつつも、逃れることなく彼の額に小さく口づけた。柔らかな唇の感触に、ジュリアンの口元がゆるりと弧を描く。
「これで満足?」
「うん、完璧だ。今日も一日、頑張れる」
まるで朝の儀式のように、彼は満面の笑みを浮かべる。しかし、リシェルは冷静だ。
「本当ですか? では、まず朝食に行きますよ。セドリックが心配します」
「だが離れたくない……」
ジュリアンは、リシェルの腰を抱いた腕にさらに力を込める。その姿は、駄々をこねる大きな猫のようだ。
「旦那様」
リシェルの凛とした声に、ジュリアンの肩がピクリと震える。
「はい、今行きます、奥様……」
しぶしぶといった様子で体を起こし始めるジュリアンに、リシェルはため息交じりに笑った。そして、その幸せそうな笑顔を見つめるジュリアン。結婚から一年近く月日が経ったというのに、この新婚じみた甘いやり取りは、ヴァレリオ公爵邸の日常風景となっていた。
使用人控えの廊下では、メイドたちが朝食の準備を済ませながら、いつものように微笑ましい空気を感じ取っていた。
「今日も朝からあまあまですね、旦那様と奥様」
「ええ、まあ……このくらいは普通じゃないッスか?」
そう答えたのは、ノアだった。年若い彼はまだ仕事に慣れない部分もあるが、主に対する忠誠心と気遣いは人一倍。そして何より、公爵夫妻の恋の「観測者」として、彼らの動向を誰よりも楽しみにしている。微笑を浮かべる彼の視線の先には、腕を組みながら楽しそうに食卓に向かう公爵夫妻の姿があった。
大食堂では、執事長セドリックが恭しく頭を下げ、料理を運ぶマルグリットとメイドたちが手際よく動いている。公爵夫妻の朝食は、いつものように温かいスープと焼きたてのパン、そして新鮮な果物と紅茶が並んだ。
朝食中も、ジュリアンは終始にこやかな顔でリシェルを見つめていた。まるで彼女の笑顔を見ているだけでご飯三杯はいける、とでも言いたげな勢いだ。
「このクロワッサン……ふわふわで、外がカリッとしてて……美味しいです!」
リシェルが目を輝かせながら感想を漏らすと、ジュリアンはすぐに反応する。
「気に入った? なら毎朝でも用意しよう」
「え、でもジュリアン様、甘いものはあまりお好きではないでしょう?」
リシェルが気遣わしげに尋ねる。公爵であるジュリアンは、日頃から甘いものを避けていることを彼女は知っていた。
「きみの笑顔を見られるなら、朝から十個でも構わない」
真顔でそう言い放つジュリアンに、リシェルは思わず言葉を失う。
「……それじゃ糖分過多で倒れます」
苦笑しながらも、リシェルはジュリアンに促されるまま、もう一口クロワッサンを頬張った。ジュリアンは、そんな彼女の小さな手にそっと触れ、じっと見つめる。
「きみの好きなものが、私の好きなものになるんだ」
甘い言葉が、公爵の口からごく自然に紡がれる。リシェルは完全にノックアウトされたように、顔を真っ赤にして残りのクロワッサンをかじった。
「……恥ずかしいです、もう」
「きみが可愛いから仕方ないだろう?」
「……本当にもう!」
この甘い空気は、エミリアが小さく咳払いしても、料理人のジャンが空気を読んで視線を逸らしても、誰にも止められない。それほどに、ジュリアンとリシェルは仲睦まじい夫婦だった。
だがその日は、ほんの少しだけ特別な朝だった。ジュリアンが領地の巡察に出向く予定になっていたのだ。三日間の予定で、北の砦まで足を運ぶ。
「三日ほど、北の砦まで行ってくる。心配は要らないよ。リシェルが淋しくならないよう、夜に手紙を送る」
食後、ジュリアンはリシェルの手を取り、優しく告げた。
「……夜だけじゃなく、昼も送ってくださいね」
リシェルは上目遣いで、甘えるような声を出した。その小さなわがままに、ジュリアンは目を細めて微笑む。
「可愛いお願いには従わねば。一日三回でも送ろう」
リシェルが送る笑顔には、わずかばかりの寂しさが滲んでいた。ジュリアンは、そんな彼女の瞳にそっと口づけると、玄関で待機していた銀の馬車へと乗り込んでいった。
「いってらっしゃいませ、ジュリアン様!」
リシェルは馬車の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。
「いってくるよ、私の最愛の妻!」
ジュリアンの声が遠ざかり、彼の姿が門の向こうに完全に消えると、リシェルはそっと息を吐いた。そして、その表情は一変する。
「……さて。ジュリアン様がいない間に、城の点検でもしましょうかしら」
そこには、先ほどの甘い新妻の面影はどこにもない。どこか凛々しく、引き締まった表情。それは、子リスの皮をかぶった、リシェルの心の中に眠る『騎士団長』が、久々に姿を現した瞬間だった。ジュリアンがいない間、公爵家の主として、彼女は屋敷の隅々まで目を光らせるつもりだった。
その日の午後、メイド頭のマルグリットが奥様の控え室に現れた。
「奥様、ノアちゃんが“新人をひとり見つけた”と推薦してまいりました。以前から人手が足りておりましたがノアちゃんの紹介ですし、もしよろしければ面接なさいますか?」
「ええ、お願いします。ノアが推薦するなら、きっと真面目な子でしょう」
リシェルは快く承諾した。ノアは貧困街出身ながら、その真面目さと明るい性格でセドリックからも信頼されている。彼が見つけてきた人材なら、間違いないだろうとリシェルは信じていた。すぐに案内されてきたのは、年の頃は十六、栗色の髪をきちんと編み上げた可憐な少女だった。メイド服はまだ少し大きいが、清潔感があり、姿勢も良い。彼女はリシェルの前で深く頭を下げ、柔らかな、しかしはっきりと聞こえる声で挨拶した。
「初めまして、リシェル様。わたくし、アデル・マルセランと申します」
その瞳は赤みを帯びたヘーゼル色。はにかんだ笑みは控えめで、どこか愛らしい。まるで、摘みたての野の花のような清らかさがあった。
「元々は商家の子でございましたので、基本的な作法は習っておりました。至らぬ点も多々あるかと存じますが、ヴァレリオ公爵家のお役に立てるよう、精一杯努めさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
淀みない自己紹介と、上品な立ち居振る舞いに、リシェルは満足そうに優しく微笑んだ。
「よろしくお願いしますね、アデルさん。分からないことがあれば、いつでもマルグリットやエミリアに聞いてください」
「はい!ありがとうございます!」
アデルは顔を輝かせて、深々と頭を下げた。その瞬間――アデルの瞳に、一瞬だけ強い光が宿ったのを、その場にいた誰も気づかなかった。その光は、喜びだけではない、何か別の強い感情を秘めているようにも見えた。
その名もない少女の入邸が、ヴァレリオ公爵邸に、そしてリシェルとジュリアンの穏やかな日常に、大きな波紋を広げる始まりだったとも知らずに。




