005.侍女が紡ぐ、公爵邸の甘い日常
エミリアは、リシェル・エルノワーズ伯爵令嬢――今はヴァレリオ公爵夫人となった主人の傍らに仕える侍女として、エルノワーズ伯爵家からヴァレリオ公爵邸へと同行した。公爵邸に足を踏み入れた時、エミリアの心には微かな不安があった。主人が政略結婚で嫁ぐ公爵家は、軍事と外交を担う北部の名門。当主であるジュリアン・ヴァレリオ公爵は「完璧な公爵」と評され、その無表情と冷徹さは王都でも有名だった。そんな冷ややかな男の元で、リシェルが幸せに暮らせるのだろうか。エミリアは、幼い頃からリシェルと共に育ち、彼女の「淑女らしからぬ」本性と、それ故に抱える繊細な苦悩を知っていた。
しかし、ヴァレリオ公爵邸で目の当たりにした日常は、エミリアの想像を遥かに超えるものだった。
朝、リシェルが目覚める頃には、既に公爵のジュリアンが彼女の寝室にいることが常だった。彼は、リシェルが目覚めるのをベッドサイドの椅子に腰かけて待つか、静かに彼女の髪を撫でている。リシェルが寝ぼけ眼で「ジュリアン様、もう朝ですか?」と問えば、公爵は無表情のまま、しかしその視線には微かな熱を宿して、「ああ。おはよう、リシェル」と答える。
エミリアが部屋に入ると、公爵はさっと身を引くが、その視線は常にリシェルを追っている。朝食の席でも、公爵はリシェルがパンに塗るジャムの種類から、紅茶の淹れ方まで、事細かに気を配る。まるで、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、全てを完璧に管理しているかのようだ。
「奥様、本日は焼き立てのパンと、甘露プラムのジャムがございます」
エミリアが給仕をすれば、公爵は視線だけで「リシェルがそれを選ぶか?」と問うてくる。リシェルが「あら、甘露プラムは珍しいわね!」と喜んで口にすれば、公爵の瞳の奥が、ほんのわずかに輝く。その変化は、ごく僅かで、普通の人間なら気づかないだろう。だが、ジュリアンがリシェルに見せる「可愛らしいものに弱い」という感情の機微に、エミリアは敏感だった。公爵邸の執事セドリックと、公爵の親友であるレオン・ディアス以外に、この無表情な主人の心の動きを読み取れるのは、おそらく自分だけだとエミリアは自負していた。
執務室での時間も、エミリアにとって観察の対象だった。リシェルは、公爵の執務を手伝うために、日々勉学に励んでいる。彼女の聡明さは公爵も認めるところで、難解な書類もあっという間に読み込み、的確な意見を述べる。そんなリシェルを、ジュリアンはいつも「よくやった」「素晴らしい」と、静かに称賛する。
ある日、リシェルが書類に目を通しながら、眉間に皺を寄せた。
「この報告書、どうも納得がいかないわね……。言葉遣いが回りくどい上に、肝心な情報がぼかされている気がするわ」
ジュリアンは無表情のまま、彼女の隣に座り、書類を覗き込んだ。そして、リシェルが指差す箇所に視線を落とす。
「……確かに。この書き方では、事実を隠蔽しようとしていると取られても仕方がない」
公爵は、その報告書を作成した者に、すぐさま再提出を命じた。リシェルの疑問が、公爵の決断を動かしたのだ。その様子を見たエミリアは、密かに感嘆する。公爵は、決して感情に流されることなく、主観を排除して物事を判断する人物だ。そんな彼が、リシェルの言葉をこれほどまでに重んじるのは、彼女の知性と洞察力を心から信頼している証拠だった。そして、リシェルが公爵の隣で、生き生きと自身の能力を発揮している姿を見るのは、エミリアにとっても喜ばしいことだった。
しかし、エミリアの真骨頂は、リシェルの可愛らしさを「プロデュース」し、公爵を「動揺」させることにあった。
「奥様、本日は新作のドレスが入荷いたしました。そちらを着て、庭園へお散歩などいかがでしょう?公爵様も、きっとお喜びになりますわ」
エミリアは、リシェルが庭園での散歩を好むことを知っていた。そして、ジュリアンが、美しいもの、可愛らしいものに目がないことを、誰よりも理解していた。特にリシェルが、彼の好む花々を背景に、愛らしい仕草を見せる姿は、ジュリアンを確実に動揺させた。
ある日、エミリアはリシェルに、淡いピンク色のフリルがあしらわれた、可愛らしい帽子を被らせた。リシェルは、普段の「男前」な本性とは裏腹に、意外と素直にエミリアの提案を受け入れる。
「エミリア、これは少しばかり可愛らしすぎませんか?」
「いいえ、奥様。公爵様は、奥様のそういったお茶目な一面を、きっとお喜びになりますわ。さあ、そのまま公爵様の元へ」
エミリアは、リシェルを公爵の執務室へと送り出した。数分後、執務室から聞こえてきたのは、微かな物音と、ジュリアン公爵の、普段では考えられないような、わずかに震える声だった。
「リシェル……その、帽子は……」
その日の公爵は、いつも以上にリシェルに甘かった。執務も早々に切り上げ、リシェルと共に庭園を散歩し、彼女の隣を片時も離れようとしなかったという。エミリアは、その報告を聞き、心の中で静かに頷いた。やはり、公爵はリシェルの可愛らしさに弱いのだ。そして、リシェルが、そんな公爵の愛情を一身に受けて、心の底から幸福そうに微笑む姿を見るのは、エミリアにとって最高の喜びだった。
夜、公爵夫妻の寝室での出来事は、エミリアの想像をはるかに超える甘さで満ちているようだった。翌朝、リシェルの髪は乱れ、頬は上気し、公爵の白いシャツを借りて身につけていることもあった。ジュリアンは、そんな彼女を愛おしそうに見つめ、決して視線を離そうとしない。
「奥様、昨夜はよくお休みになられましたか?」
エミリアが紅茶を差し出せば、リシェルは照れたように顔を伏せ、「ええ、おかげさまで……」と小さく答える。そして、ジュリアンが、無言でリシェルの手の甲にキスをする。その光景は、エミリアがかつて想像していた政略結婚とは、あまりにもかけ離れたものだった。彼らの間には、言葉以上の深い愛と信頼が育まれている。
エミリアは、リシェルがヴァレリオ公爵邸に来てから、以前よりもはるかに明るく、そして穏やかになったことに気づいていた。かつては、「男前」な本性を隠し、淑女の仮面を被ることに疲弊していたリシェルだが、今ではジュリアンの前では、素の自分を惜しみなく晒している。彼が、彼女の全てを受け入れ、愛していることを知っているからだ。
ある時、リシェルが突然、「エミリア、今日の私の髪型、少しばかり男前すぎないかしら?」と、自身のミディアムヘアの髪を触りながら、心配そうに尋ねてきた。
「いいえ、奥様。奥様のその髪型は、公爵様が一番お好きなはずでございます」
エミリアは、きっぱりと言い切った。実際、ジュリアンはリシェルの凛とした美しさと、その芯の強さを愛していることを、エミリアは知っていた。彼は、リシェルが「可愛い」だけでなく、「格好良い」一面を持っていることを、むしろ誇りに思っている節があった。
「それに、奥様。公爵様が本当に可愛いと思ってらっしゃるのは、奥様のその……無意識の、少しばかりお行儀の悪い仕草だったりしますわよ」
エミリアは、クスリと笑みを漏らした。例えば、集中しすぎると少しだけ口元が緩む癖や、考え事をすると指先でテーブルを叩く癖など。そんな、リシェル自身が無意識に行っている仕草にこそ、ジュリアンは心を奪われているのだ。
リシェルは、目を丸くしてエミリアを見つめた。
「えっ、そうなの? 私、気付かなかったわ……」
「ええ、奥様。ですから、ご安心くださいませ。奥様のありのままが、公爵様にとって、何よりも愛おしいのです」
エミリアの言葉に、リシェルは顔を赤らめながらも、ふわりと柔らかな笑顔を浮かべた。その笑顔は、かつての彼女が無理に作っていた淑女の微笑みとは異なり、心の底から湧き上がる、偽りのない幸福の証だった。
エミリアは、そんなリシェルの成長を、間近で見守ることができて、心から幸せだった。公爵夫妻の日常は、決して派手ではない。だが、そこには確かな愛情と信頼、そして互いを慈しむ温かな絆が満ち溢れている。
完璧な公爵ジュリアンと、男前令嬢リシェル。二人の愛の物語は、エミリアの目を通して、今日も静かに、そして深く綴られていく。公爵邸は、彼らの愛によって、温かい光に満ちている。エミリアは、これからも、彼らの幸福を陰ながら支え、そして時折、リシェルの可愛らしさをプロデュースして、公爵を「動揺」させる役目を、密かに楽しむことだろう。




