004.傲慢な薔薇は棘となる 後編
結婚式は、簡素なものだった。ヴァレリオ公爵夫妻はもちろん、かつてはミレーユ伯爵家と親交のあった上位貴族からの参列は皆無。親戚や、デュラン家の関係者が数えるほど列席しただけで、それはまるで、ミレーユ伯爵家の凋落を象徴しているかのようだった。シャルロッテは、純白のウェディングドレスに身を包みながらも、その心は鉛のように重かった。夢見ていた華やかな結婚式とは、あまりにもかけ離れた現実が、彼女の目の前に広がっていた。
輿入れの日。シャルロッテは、慣れ親しんだミレーユ伯爵邸を後にし、デュラン家へと向かった。ミレーユ伯爵家の家紋は、そのまま掲げられている。だが、実情はまるで違った。デュラン家の莫大な財力によって、ミレーユ伯爵家は経済的に完全に掌握されていた。もはや、この屋敷を動かすのは、ジルベール・デュランなのだ。
広大なデュラン家の屋敷は、その規模こそヴァレリオ公爵邸に匹敵するが、内部は新興の成金特有の趣味の悪さが散見された。高価な美術品が所狭しと並べられているが、その配置はちぐはぐで、芸術的な統一感はない。貴族社会のしきたりを無視した実利主義的な運営は、館の隅々にまで浸透しているようだった。
「今日から、ここがお前の住処となる。ミレーユ伯爵家の令嬢としての役割は、今日で終わりだ。今後は、このデュラン家の妻として、私の意に従ってもらう」
ジルベールは、シャルロッテに対して、夫としての義務を果たすが、そこには一切の愛情や配慮はなかった。彼の言葉は、彼女を妻として迎えるというよりも、飼いならす獣に言い聞かせているかのようだった。夫婦の営みも、それはただの義務的な行為として淡々と行われた。彼の身体からは、石鹸と汗の混じった匂いが漂い、決して香り高くはない。言葉もなく、ただ機械的に触れ合い、行為が終わればすぐに背を向ける。ジュリアンとリシェルの間にあった、甘く、情熱的な肌の触れ合い、心を通わせる会話、そして相手を慈しむような眼差しなど、そこには微塵も存在しなかった。まるで、肉体を繋ぎ合わせるだけの、無味乾燥な作業。ジルベールにとって、ミレーユの血筋の子を設けることは盤石な地盤のために必要なことであった。シャルロッテは、虚しさと嫌悪感を覚えながら、ただ目を閉じることしかできなかった。
デュラン家の使用人たちもまた、彼女を貴族として敬うことはなかった。「デュラン様の奥様」とは呼ばれるものの、それは形式的なものに過ぎず、彼女を「ジルベール様の妻」として、あるいはただの「高慢な小娘」として見下している視線が、常に痛いほど感じられた。
シャルロッテは、この屈辱的な結婚生活の中で、自分の「ミレーユ伯爵令嬢」としての誇りを保とうと必死に足掻いた。かつての貴族的な振る舞いや、優雅な言葉遣いを貫こうとする。使用人たちにも、厳しく接しようとした。しかし、ジルベールはそれを鼻で笑い、冷酷に言い放った。
「そんな貴族の遊びはデュラン家では通用しない。ここでは金が全てだ。金にならんものは無価値。お前のそのくだらないプライドもな」
そして、何よりもシャルロッテの誇りを深く傷つけたのは、父親の姿だった。
代替わりもしていないのに、ジルベールはミレーユ伯爵として振る舞い始めた。公爵家からの援助を失い、困窮したミレーユ伯爵家は、デュラン家の経済的支援なしには立ち行かなくなったのだ。そのため、フランソワ・ミレーユ伯爵は、ジルベールに完全に頭が上がらなくなっていた。
「フランソワ殿、今日の商談は滞りなく進んだか? 貴族社会のしきたりなどどうでもいい。重要なのは利益だ。分かっているな?」
ジルベールは、シャルロッテの目の前で、かつての威厳を失い、成金商人の婿に媚びへつらう父の姿を晒した。父は、ジルベールの言葉に逆らうこともできず、ただ恭順の姿勢を示すばかり。その姿は、かつての社交界で輝いていたフランソワ伯爵とは似ても似つかないものだった。父親が、自分の目の前で、これほどまでに屈辱的な扱いを受ける。その光景は、シャルロッテの「ミレーユ伯爵令嬢」としての誇りを、ずたずたに引き裂いた。
デュラン家の人間関係や商家の論理は、貴族社会で生きてきたシャルロッテには全く理解できなかった。物事は全て利益と効率で判断され、感情や体面は顧みられない。彼女が、かつて身につけていた貴族の教養も、ここでは何の役にも立たない。自分の無力さを、これほど痛感したことはなかった。
「お前はミレーユの血筋のために娶った飾りだ。だが、飾りも使い道がなければ、ただの無駄だ。役に立たないなら、ただの高慢な我が儘小娘に過ぎん」
ある日、ジルベールは、シャルロッテに冷酷に言い放った。彼の言葉は、容赦なく彼女の心を抉った。彼女は、未だにリシェルへの恨みや、かつての栄光への未練を抱いているが、ジルベールはそれすらも「無駄な感情だ」と一蹴した。
「そんなくだらない恨み言を並べている暇があるなら、デュラン家の金勘定でも学べ。それがお前の、この家での唯一の存在価値になるだろう」
ヴァレリオ公爵家が自分たちを見捨てた現実。そして、ミレーユ伯爵家がデュラン家に完全に吸収され、もはや自分が「ミレーユ伯爵令嬢」ではないという現実を、ジルベールは冷酷に突きつけた。
誇りだけでは生きていけないことを、シャルロッテは初めて心から思い知った。貴族としての地位も、華やかな未来も、全てが幻だった。彼女には、この厳しい現実を受け入れる術も、この境遇から逃れる術も残されていない。
窓の外を見つめるシャルロッテの姿は、ひどく打ちひしがれていた。かつての輝かしい未来は消え去り、そこにあるのは冷徹で現実的な商家の生活だけ。彼女の瞳には、かつての傲慢な輝きはなく、ただ深い絶望と、打ちひしがれた無力感が宿る。だが、その胸には、ミレーユ伯爵令嬢としての最後の「誇り」だけが、冷たい炎のように残っていた。それは、彼女を支える最後の砦であり、同時に、彼女を永遠に囚える鎖でもある。
「シャルロッテ。いつまでそんなところでぼんやりしている? 今日の帳簿の確認をしろ。お前はもう、貴族のお嬢様ではないのだからな」
ジルベールの冷酷な声が、彼女の部屋に響き渡る。その声は、彼女がこれから歩む、地獄の日々の始まりを告げるかのようだった。彼女は、ゆっくりと、しかし抗うように顔を上げ、彼の声のする方へと歩き出す。彼女の新しい人生は、彼女が望んだものとはかけ離れた、厳しい現実の中で始まったばかりだった。それは、永遠に続くかのような、終わりのない苦しみの始まりだった。




