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003.傲慢な薔薇は棘となる 前編


 王都イシュタリアの華やかな貴族街に位置するミレーユ伯爵邸は、かつての輝きを失い、陰鬱な空気に包まれていた。かつては流行の最先端を行く装飾品で彩られ、夜な夜な煌びやかな社交の場と化していたその館も、今では埃を被り、使用人の足音もまばらだ。庭園のバラは手入れを怠り、生い茂る雑草に埋もれていく。


「お嬢様、本日の夕食は、ポトフでございます」


 メイド頭の声に、シャルロッテ・ミレーユは思わず顔を顰めた。食卓に並んだのは、湯気の立つ大鍋と、質素なパンのみ。かつては、旬の食材がふんだんに使われた前菜からデザートまで、何皿もの料理が彩り豊かに並んだものだった。


「ポトフ?  またポトフなの?  もう三日続けてではないの!」


 シャルロッテは、苛立ちを隠せないままスプーンを置いた。しかし、メイドは何も言わず、ただ静かに一礼するだけだ。以前なら、すぐに別の料理を用意させることができたのに。

 ヴァレリオ公爵家からの「最後通牒」。それは、ミレーユ伯爵家にとって、死刑宣告にも等しいものだった。公爵家は、長年ミレーユ家が担ってきた要職から彼らを外し、取引関係を全て断絶した。それはまるで、長年繋がっていた生命線が、突如として切断されたかのようだった。


 父、フランソワ・ミレーユ伯爵は、その日以来、日に日にやつれ、憔悴していく。かつては社交界で誰からも慕われ、鷹揚で優しいと評判だった父の顔は、生気を失い、まるで別の人間になったようだった。食事もろくに喉を通らず、夜な夜な書斎に籠もり、頭を抱えている。


 シャルロッテは、その原因が自分にあることを、まだ心の底から理解していなかった。リシェル・エルノワーズ伯爵令嬢、今はヴァレリオ公爵夫人となったあの女への度重なる嫌がらせが、これほどまでにミレーユ家を追い詰めるとは、想像もしていなかったのだ。ヴァレリオ公爵が、リシェルをそれほどまでに溺愛しているなど、考えもしなかった。政略結婚など、所詮はそんなものだと高を括っていたのだ。


「ジュリアン様が、あんな子リスのような女に本気になるなど、ありえないわ」


 そう信じて疑わなかった傲慢さが、今、彼女の首を絞めている。


 ミレーユ伯爵家の困窮は、もはや隠しようがなかった。社交界では、彼女に誰も近づかなくなった。かつては彼女の周りを蝶のように取り巻いていた貴族令息たちも、今では彼女の姿を見ると、露骨に顔を背けたり、さっとその場を離れたりする。令嬢たちは、陰でひそひそと嘲笑し、同情など微塵も抱いていないことを示すかのように、冷たい視線を浴びせる。


「ミレーユ伯爵家も終わりね」

「あのシャルロッテ様が、あんなにお痩せになって……」


 聞こえてくる噂は、すべてが冷酷な現実だった。シャルロッテは、何とか以前のように振る舞おうと、高級なドレスを身につけ、気品ある笑顔を繕う。だが、そのドレスは色褪せ、その笑顔は引き攣るばかりだ。どんなに足掻いても、状況は好転しない。父がかつての友人貴族たちに融資を頼んでも、皆が皆、ヴァレリオ公爵家を恐れ、手を差し伸べようとはしなかった。完全に孤立無援。ミレーユ伯爵家は、静かに、しかし確実に沈んでいっていた。

 シャルロッテの母は、彼女が幼い頃に早くに病でこの世を去った。妻を亡くしたフランソワ伯爵は、残された唯一の肉親である娘シャルロッテを、過剰なまでに甘やかした。欲しいものは何でも与え、彼女のどんな我儘も許した。その甘さが、シャルロッテを世間知らずで傲慢な令嬢に育て上げてしまったのだ。彼女は、父の権力と財力、そして庇護のもとで、自分が世界の中心であると信じて疑わなかった。

 そんな、絶望の淵に立たされたミレーユ伯爵家に、突如として一本の蜘蛛の糸が垂らされた。

 ある日、フランソワ伯爵は、憔悴しきった顔でシャルロッテの部屋を訪れた。彼の握りしめた手が震えている。


「シャルロッテ……話がある」


 父の口から告げられたのは、「デュラン家」からの縁談だった。


「デュラン……?  お父様、どちらの爵位の家ですの?」


 シャルロッテは、その家名に聞き覚えがなかった。当然だ。デュラン家は、爵位を持たない、新興の成金商家なのだから。主要な貿易港を持つ北部の都市ゼフィロスを拠点とし、国内の流通網を牛耳る商業ギルドの総帥。宝石、絹、香辛料など高級品を扱い、その莫大な富は、ヴァレリオ公爵家をも凌駕すると噂されるほどだ。


 しかし、財力があっても、爵位がなければ上流貴族社会では認められない。デュラン家は、その莫大な富をもって、貴族の血筋と爵位を手に入れようと躍起になっていた。まさに、喉から手が出るほど「爵位」を欲しがっている。そして今、ミレーユ伯爵家は、喉から手が出るほど「経済力」を必要としている。まさに、相互の利益のための結婚。


 フランソワ伯爵は、娘を成金商人に嫁がせることに抵抗を感じつつも、他に選択肢がない現実に直面し、苦悩していた。彼のプライドはズタズタに引き裂かれている。だが、この縁談を断れば、ミレーユ家は完全に破滅する。


「この話を受けるしか……ミレーユ家を救う道は、これしかないのだ……」


 父の言葉に、シャルロッテは激しく反発した。


「冗談でしょう?  成金商人の息子ですって?!  わたくしは、ミレーユ伯爵令嬢よ!  侯爵以上の貴族と結婚して、この国の社交界の女王となるはずだったのよ!  あんな下賤な商人と結婚するくらいなら、死んだ方がましだわ!」


 シャルロッテは、テーブルの上の花瓶を叩き落とし、泣き叫んだ。彼女の夢見ていた未来は、煌びやかな侯爵夫人としての地位だった。それが、名も知らぬ成金商人の妻となるなど、屈辱以外の何物でもない。

 しかし、フランソワ伯爵は、これまで見せたことのない、厳しい目で娘を見据えた。彼の顔は、憔悴しきっているが、その瞳の奥には、ヴァレリオ公爵家から突きつけられた現実の重さが刻まれていた。


「いい加減にしろ、シャルロッテ!  お前のその身勝手な振る舞いが、このミレーユ家をここまで追い詰めたのだ!  ヴァレリオ公爵家は、お前を二度と貴族社会には受け入れないと言っている。もう、お前を庇いきれんのだ!」


 フランソワ伯爵の声は、怒りに震えていた。長年甘やかしてきた娘に、初めて突きつけられた厳しい現実。


「この結婚で、ミレーユ家は生き残るのだ!  お前は、そのために嫁ぐのだ!」


 父の叫びが、シャルロッテの耳朶を打ち、彼女の心臓を締め付けた。絶望。夢見ていた未来が、音を立てて崩れ去る。輝かしい光は失われ、目の前には暗闇が広がっている。


 そして、婚約を交わす日が来た。相手は、デュラン家の長男、ジルベール・デュラン。30歳。

 ジルベールは、シャルロッテが想像していた貴族の男性像とは、あまりにもかけ離れていた。筋肉質でがっしりした体格に、日に焼けた肌。短く揃えられた黒髪、鋭く黒い眼光は、まるで獲物を探す獣のようだ。上質な仕立ての服を着ているが、その体にはどこか馴染んでおらず、着慣れない様子が窺える。貴族の舞踏会で見るような、優雅な所作など微塵もない。


「シャルロッテ・ミレーユ嬢、初めまして。ジルベール・デュランだ」


 彼の声は低く、野性的な響きがあった。その口調も、貴族のそれとは異なり、直接的で飾り気がない。シャルロッテは、彼の粗野な外見と、貴族らしい立ち居振る舞いができない様子に、心底幻滅し、露骨に嫌悪感を抱いた。


(こんな男と……!  わたくしが、このミレーユ伯爵令嬢が!)


 シャルロッテは、精一杯の気品を装い、彼から視線を逸らした。


「初めまして、デュラン様」


 一方のジルベールもまた、シャルロッテの高慢な態度と、世間知らずな言動に苛立ちを覚えていた。彼は、生まれながらにして莫大な富を築いた叩き上げの商人だ。貴族の体面や伝統には興味がなく、実利を重視する。自分の意見をはっきり言い、弱気な態度を取る者を軽蔑する傾向があった。


(これが、ミレーユ伯爵令嬢か。噂に違わぬ高慢ちきな小娘だ。金は稼げぬくせに、誇りだけは一丁前か)


 ジルベールは、シャルロッテの美しさは認めるが、彼女をあくまで爵位と血筋を得るための道具としか見ていなかった。彼にとって、シャルロッテは「役に立たない飾り」以外の何物でもない。


 二人の間には、まるで冷たい氷の壁があるかのように、互いへの軽蔑と嫌悪感が流れていた。それが、ミレーユ伯爵家の未来を決める婚約の場だという、あまりにも皮肉な現実。シャルロッテの瞳からは、かつての輝きが完全に失われていた。彼女の望む未来は、もうどこにも存在しないのだ。

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