002.秘められた心 後編
ジュリアンがリスのぬいぐるみに触れた瞬間、彼の意識は遠い過去へと引き戻された。それは、まだ彼が、感情のままに笑い、喜び、悲しむことを許されていた、幼い日の記憶だった。
陽光が降り注ぐ、懐かしい庭園。色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。そこに、常に優しい笑顔を絶やさなかった女性がいた。彼の母、アメリア・ヴァレリオ。西方の名家出身である彼女は、病弱ながらも、生命力に満ちた花々のように可憐で、温かく、そして芸術に造詣の深い人だった。彼女は、まるで天使のような存在で、その柔らかな声と、人を包み込むような母性で、公爵邸全体を温かい光で満たしていた。彼女はいつも庭園のベンチで、香り高いラベンダーの香水を纏いながら、繊細な刺繍や、分厚い読書に耽っていた。
「ジュリアン、ここへいらっしゃい」
母の小さな手は、いつも温かかった。優しく頭を撫でてくれるその感触は、幼いジュリアンにとって、何よりも心地よいものだった。母は、彼にたくさんの物語を読み聞かせ、草花の名前を教え、絵を描く楽しさを伝えた。彼女の声は、まるで子守唄のように優しく、ジュリアンは母の隣で過ごす時間を心から愛していた。
「あら、この小さなお花は、とても可愛らしいわね。まるでジュリアンのようだわ」
母は、小さくて可愛いもの、美しいもの、柔らかなもの全てを慈しんだ。咲き誇る一輪の小さな野花にも、彼女は目を細め、愛おしそうに眺めた。そして、幼いジュリアンは、そんな母が愛する「可愛いもの」全てを、無邪気に愛した。彼は、母の愛を通して、世界の美しさを知った。可愛いものに触れるたびに、母の笑顔が脳裏に浮かび、心が温かくなった。
五歳の誕生日、母はジュリアンに、手作りのぬいぐるみを贈ってくれた。それが、今、リシェルの手に乗せられた、リスのぬいぐるみ、ティアだ。栗色の毛並みは丁寧に縫い合わされ、マントの刺繍も細やかで、母の愛情が込められているのが一目でわかった。
「ジュリアン、お誕生日おめでとう。この子はね、ティア。母さんがね、『Tiens, mon petit trésor(ほら、私の小さな宝物)』って、いつもジュリアンに言っているでしょう? そこから取った愛称なのよ。この子はね、ジュリアンが寂しい時や、困った時に、いつもあなたを守ってくれる騎士なのよ。だから、大切にしてあげてね」
ティアを抱きしめたジュリアンは、満面の笑みを浮かべた。母の愛と温もりが、ティアを通して自分に注がれているのを感じた。ティアは、幼いジュリアンにとって、母の愛情の象徴であり、彼を守ってくれるかけがえのない友だった。彼は、ティアを抱きしめて眠り、どんな時も肌身離さず持ち歩いた。
だが、幸福な時間は、あまりにも短かった。
病に蝕まれていた母の体は、日に日に衰弱していった。朝起きた時、母が起き上がれなくなっているのを見て、幼いジュリアンは胸が締め付けられるようだった。彼は、母が弱っていく姿を、ただ見ていることしかできなかった。医者が毎日屋敷に訪れ、父が悲痛な面持ちで母の傍らにいる姿を見るたびに、幼い心は恐怖で震えた。彼が手を伸ばしても、母の手は次第に冷たくなっていった。
母の最期の日。王都は嵐に見舞われ、窓から差し込む陽光はかろうじて、痩せ細った母の顔を照らしていた。母は、弱々しい声でジュリアンの手を握りしめた。その手は、かつて彼を優しく包んだ、あの温かい手とは異なり、骨ばって冷たかった。
「ジュリアン……あなたは、立派な人になるわ。どんな困難も乗り越えて、公爵としての務めを果たして。でも、心は閉じないで。愛することを、恐れないで……」
その言葉が、母からの最後の贈り物だった。そして、母の温もりは、永遠に失われた。彼の小さな手から、母の全てが、そっと零れ落ちていくかのような感覚。
その瞬間、幼いジュリアンの心に、深い絶望と無力感が刻み込まれた。「可愛いものは、必ず失われる」。「愛せば、必ず失う」。「だから、もう二度と、大切なものを愛さない」。そうすれば、この痛みを感じずに済む。そうすれば、これ以上、失うものはない。彼は、自らの心を閉ざすことを選んだ。
彼は、母の愛の象徴であったティアを、自らの手で木箱にしまい込んだ。それは、母の死がもたらした途方もない痛みと、彼自身の無力感を忘れ、二度と誰かを愛して傷つかないための、心の封印だった。愛着を抱けば弱くなる、感情に流されれば完璧な公爵としての務めを果たせない。完璧でなければ、大切なものを守れない。そう信じて、彼は冷徹な「完璧な公爵」としての仮面を被り、感情を表に出さなくなったのは、その日以来のことだ。心に鍵をかけ、無感情な壁を築くことで、彼は自身を守ろうとしたのだ。
ジュリアンがふっと我に返ると、目の前には、心配そうに自分を見つめるリシェルの瞳があった。彼の手に乗せられたティアは、幼い頃と同じように、暖かかった。そして、リシェルの優しい声が、彼の心の奥底に染み渡った。
「ジュリアン様……だから、私のことも可愛いと思っても、近づけなかったの?」
リシェルの言葉は、彼の心の奥底に封じ込めていた痛みを、真っ直ぐに抉った。ジュリアンは、無表情の仮面の下で、感情の嵐が吹き荒れるのを感じた。声が出ない。認めたくない。この、何十年も守り続けてきた心の壁が、今、目の前のリシェルによって崩されようとしている。だが、リシェルの澄んだ瞳は、彼の全てを見透かしているようだった。そこには、非難も好奇心もなく、ただひたすらに、彼への深い理解と愛情だけがあった。
「……怖かった」
ジュリアンの唇から、絞り出すような声が漏れた。それは、彼が何十年もひた隠しにしてきた、幼い日の弱さだった。彼の声は、乾ききった砂漠に水が染み込むかのように、どこか切なさを帯びていた。
「君も……消えるような気がして。愛せば、また失うのではないかと……。二度と、あの無力感を味わいたくなかった」
リシェルの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、ジュリアンの過去の悲しみと、彼がどれほどの孤独を抱え、痛みに耐えて生きてきたのかを理解したことへの、深い悲しみの涙だった。そして同時に、自分への彼の愛が、そんな深い場所に根差していたことへの、途方もない感動の涙でもあった。彼女の心は、彼が抱えてきた重荷を想像し、胸が締め付けられるようだった。
リシェルは、そっとジュリアンの手からティアのぬいぐるみを取り上げた。そして、その愛らしいリスのぬいぐるみを、自分の胸にぎゅっと抱きしめた。その温もりは、ジュリアンが幼い頃に感じた、母の温もりに似ていた。
「だったら、今から守って」
リシェルは、涙で潤んだ瞳でジュリアンを見上げた。その瞳には、揺るぎない決意と、彼への無限の愛が宿っていた。
「これを。そして、私も」
彼女の言葉は、まるで魔法のように、ジュリアンの心の奥深くへと響いた。彼は、リシェルの言葉の重みに、そして彼女の真っ直ぐな愛情に、全身を震わせた。愛することを恐れる必要はない。失うことを恐れる必要はない。今、彼の隣には、彼が全身で守り抜くと誓った、かけがえのない存在がいるのだ。失われたものを恐れて、今ある幸福を手放すことほど愚かなことはない。母が望んだのは、閉じられた心ではなく、愛に満ちた心だった。
ジュリアンは、リシェルとティアを、震える腕で力強く抱きしめた。その抱擁は、彼が長年抱えてきた心の氷を溶かすかのように、温かく、そして深かった。リシェルの柔らかな温もりが、彼の体にじんわりと染み渡る。ラベンダーの香りが、彼の鼻腔をくすぐる。それは、母の面影を感じさせると同時に、彼の腕の中にいるリシェルという、現実の温かい存在を実感させた。もう、何も怖くない。彼に、失われた過去を恐れる必要はない。
その夜、書斎の奥深く、埃をかぶっていた収納箱は、ゆっくりと扉が閉じられた。二度と、ティアが中に閉じ込められることはないだろう。そして代わりに、書斎の棚の片隅、ジュリアンの執務机からも見える位置に、リスのぬいぐるみ、ティアがちょこんと飾られるようになった。その隣には、リシェルが手ずから摘んできた、摘みたてのラベンダーが、小さなガラスの花瓶に活けられていた。甘く優しい香りが、執務室を満たす。
リシェルは、朝の挨拶をする際、時おり「ティアちゃんに挨拶してから行くの」と言って、ジュリアンをからかうようになった。ジュリアンは、そのたびに口元をわずかに緩ませ、リシェルの髪を愛おしそうに撫でる。彼の瞳は、ティアとリシェルを交互に見つめ、その表情には、以前には見られなかった、穏やかな幸福感と、そして「可愛いものに弱い自分」を少しだけ許すようになった、人間らしい柔らかさが宿っていた。
ジュリアンの心にかけられた長年の封印は、リシェルの揺るぎない愛によって、ついに解き放たれたのだ。彼の「可愛いものが大好き」という本性は、もはや恐れるべきものではなく、リシェルと彼らの未来を、温かく照らす光となっていた。公爵邸は、今日も、愛と理解、そして新たな幸福の香りに満ちている。




