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001.秘められた心 前編


 王都イシュタリアに位置するヴァレリオ公爵邸は、今日も朝から穏やかな空気に包まれていた。公爵夫妻、ジュリアンとリシェルの新婚生活は甘く深まり、二人の間には揺るぎない信頼と愛情が築かれている。公爵邸の隅々まで満ちるその温かな気配は、使用人たちの表情すらも和ませていた。メイド頭のマルグリットは、毎日のように「本当に素晴らしいご夫婦ですわ!」と涙ぐみ、執事のセドリックも、二人の幸福を静かに見守っている。


 その日、リシェルは普段通り、ジュリアンの執務室で彼の仕事を手伝っていた。膨大な書類の山と格闘するジュリアンの隣で、彼女もまた真剣な面持ちで資料を読み込んでいる。彼女の聡明さは、ジュリアンの執務を的確に補佐し、時には彼を驚かせるほどの洞察力を見せることもあった。


 昼休憩に入り、エミリアが執務室の掃除に入った時だ。エミリアは、公爵邸の隅々まで知り尽くしている優秀なメイドだ。リシェルは、ふとした拍子に、棚の奥にある小さな収納箱が目に入った。それは、この公爵邸に来てから一度も開いているのを見たことがない、古びた木箱だった。埃をかぶってはいるが、その置かれ方からは、まるで誰にも触れさせたくないかのような、特別な雰囲気が漂っていた。


「エミリア、あの箱、ずいぶん古そうですけれど、何をしまってあるのでしょう?」


 リシェルが問いかけると、エミリアはいつもの淡々とした表情のまま、しかし僅かに目を伏せて答えた。その声には、ジュリアンへの絶対的な忠誠と、決して踏み込んではならない領域への畏敬の念が感じられた。


「奥様。あそこだけは、ジュリアン様が『絶対に触れるな』と、厳しく仰せでございます。私どもも、何が入っているのかは存じ上げません。恐らく、ジュリアン様の……いえ、これ以上は、わたくしの口からは申し上げられません」

「まぁ、そうなのですか?」


 ジュリアンがそこまで厳重にしているものとは、一体何なのだろう。リシェルの好奇心がむくむくと湧き上がった。彼は、感情を表に出さない完璧な公爵だ。その彼が、これほどまでに執着する箱。どんな秘密が隠されているのだろうか。だが、彼の私的なものに勝手に触れるのは気が引ける。エミリアも「失礼いたします」とだけ言って、その場所には決して触れようとしない。彼女のその厳格なまでの態度は、ジュリアンがいかにこの箱を重要視しているかを物語っていた。


 その日の午後も執務に没頭し、夕食を終えて自室に戻った後も、リシェルの頭の中にはあの箱のことが残っていた。ジュリアンは、彼女が執務室から戻ってきてからも、普段と変わらぬ穏やかな表情で、彼女の今日の働きを労い、時に甘い言葉を囁いた。その温かい視線と優しい触れ合いは、リシェルの心をいつも満たしていた。だが、彼の完璧な無表情の裏に、一体どんな秘密が隠されているのだろうという、小さな疑問符が消えることはなかった。




 次の日も、そのまた次の日も、リシェルはあの箱のことが気になって仕方がなかった。公爵邸の掃除の時間、使用人たちが執務室から離れた隙を見計らって、リシェルは再びあの場所を訪れた。エミリアは、彼女が執務室に向かうのを静かに見送った。リシェルがジュリアンの執務の手伝いをするのは日常茶飯事だからだ。


 ジュリアンの席から少し離れた、壁際の大きな書棚。その一番下、最も奥まった場所に、件の木箱は置かれていた。手のひらでそっと触れると、少しばかりざらつきを感じる。埃をかぶっていたが、その丁寧な造りからは、中に収められたものがどれほど大切にされているかが伝わってきた。リシェルは、意を決してその木箱に手を伸ばした。


 そっと蓋を開けると、中には上質なベルベットのような、柔らかい布が丁寧に敷かれ、その上に何かが包まれているのが見えた。リシェルは息を潜めて、その布をゆっくりと広げた。


 現れたのは、一体の小さなリスのぬいぐるみだった。

 栗色の毛並みは、年月を経ても変わらず滑らかで、丸い瞳は黒く輝き、小さなマントをまとった愛らしい姿は、今にも動き出しそうに見えた。それは、ジュリアンの普段の厳格で、完璧な公爵としての雰囲気からは想像もつかないほど、可愛らしいものだった。リシェルは思わず「まぁ……」と感嘆の声を漏らした。ぬいぐるみの隣には、小さなハンカチが添えられており、ほんのりと甘く、どこか懐かしいラベンダーの香りが移っていた。その香りは、リシェルの記憶のどこかに触れるような、優しく、そして切ない感覚を呼び起こした。


 リシェルは、ぬいぐるみをそっと手に取った。柔らかな毛並みが指先に心地よい。こんなに可愛らしいものを、ジュリアンが箱にしまって隠しているなんて。一体なぜだろう? 彼女は、ジュリアンの完璧な無表情の裏に、こんなにも愛らしいものを大切にする一面があったことに驚きと、そして微かな戸惑いを覚えた。彼の「可愛いものが大好き」という本性を知ってはいたが、このリスのぬいぐるみは、彼が普段溺愛する彼女への眼差しとは、また少し違う感情が込められているように感じられたのだ。まるで、大切な思い出を、もう二度と触れないようにと、心の奥底に閉じ込めてしまったかのような……そんな切なさが伝わってきた。

 リシェルがぬいぐるみをじっと見つめ、その可愛らしさに心を奪われていると、不意に背後から、低い、しかし心臓を鷲掴みにされるような声が聞こえた。


「リシェル、何をしている」


 心臓が跳ね上がった。振り返ると、そこにはジュリアンが立っていた。いつもと変わらぬ無表情だが、その漆黒の瞳の奥には、動揺の色が明確に見て取れた。彼の表情がここまで乱れるのを、リシェルは初めて見た。彼の完璧な仮面が、今、微かにひび割れているようだった。


「ジュリアン様……!」


 リシェルは、手に持ったリスのぬいぐるみと、広げられた布をジュリアンに見られないよう、咄嗟に背中に隠そうとした。だが、時すでに遅い。ジュリアンの視線は、既に彼女の背中に隠されたものに向けられている。まるで獲物を狙う猛禽のように、その視線は正確に、そしてまっすぐに彼女の背中に突き刺さっていた。


 彼はゆっくりと、しかし確実にリシェルに近づいてくる。一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、リシェルの心臓は高鳴った。部屋の空気は、ジュリアンの張り詰めた気配に満たされ、重く感じられた。彼はリシェルの目の前で立ち止まり、その身長差から、リシェルは彼に見下ろされる形になる。静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。


「そこにあるものを、見せてみろ」


 リシェルは、もう隠し通せないと悟った。だが、ジュリアンがこの可愛らしいぬいぐるみをどうして隠しているのか、彼のあからさまな動揺の理由が分からず、困惑した。彼女は、恐る恐る背中からリスのぬいぐるみを差し出した。ジュリアンの視線が、リスのぬいぐるみに落ちた瞬間、彼の無表情の顔に、明らかに苦痛の色がよぎった。それは一瞬のことで、すぐに元の無表情に戻ったが、リシェルは見逃さなかった。彼の瞳の奥に、深い悲しみが揺らめいたのを、確かに見たのだ。


「申し訳ございません、ジュリアン様。エミリアが話しているのを耳にして、つい、好奇心に負けてしまって……。あなたの許可なく、大切なものに触れてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」


 リシェルは、素直に謝罪した。ジュリアンは、その言葉に何も言わず、ただじっとリスのぬいぐるみを見つめている。彼の瞳の奥には、悲しみと、そして何かを押し殺すような感情が渦巻いているように見えた。その視線は、まるで遠い過去を辿っているかのようだった。彼の周囲には、目には見えない悲しみのオーラが立ち込めているかのようだ。


 書斎に、重い沈黙が降り注ぐ。時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく響く。リシェルは、ジュリアンの様子から、このぬいぐるみが彼にとって非常に大切な、そして同時に、何か辛い思い出と結びついていることを察した。彼女は、どうすればいいか分からず、ただジュリアンの隣に立ち尽くした。


(ジュリアン様……どうか、お話しになって……)


 その時、ジュリアンが、ゆっくりと手を伸ばした。彼の指先が、リシェルの手に乗せられたリスのぬいぐるみに、そっと触れる。その触れ方は、まるで壊れ物を扱うかのように、細心の注意が払われていた。彼の指先が、リスの毛並みをなぞるたびに、彼の瞳の奥の感情がさらに深く揺れるのが見えた。まるで、そのぬいぐるみに触れることで、心の奥底に閉じ込めていた記憶の扉が、ゆっくりと開かれていくかのようだった。


 彼の心の中で、一体何が起こっているのだろう。リシェルは、ただ静かに、彼の隣に寄り添うことしかできなかった。彼女の心は、彼が抱えるであろう悲しみに寄り添おうと、静かに波打っていた。

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