28.新たな甘い日常
月明かりがゆっくりと溶け、東の空が白み始める頃。ヴァレリオ公爵邸の広々とした寝室には、穏やかな朝の光が差し込んでいた。重厚なカーテンの隙間から漏れる柔らかな光が、室内の調度品を優しく照らし出す。部屋全体は、昨夜の甘やかな残り香と、二人の吐息が混じり合った、温かく特別な空気に満たされていた。
リシェルは、ジュリアンの逞しい腕の中で、深い眠りからゆっくりと目覚めた。彼女の肌に触れるジュリアンの温もりと、規則正しい寝息が、すぐそこで聞こえる。彼の胸元に顔を埋めると、温かく、安心できる香りがした。それは、彼女にとって、世界で一番心地よい香りだった。彼の力強い鼓動が、自分の鼓動と共鳴し、二人が完全に一つになったことを実感させた。昨夜の記憶が、甘く、そして鮮明に脳裏に蘇る。彼の唇の感触、指先の優しい触れ合い、そして全身を包み込むような彼の愛情……。リシェルは、これまでの人生で感じたことのない、絶対的な幸福感と安堵に満たされていた。淑女としての仮面を脱ぎ捨て、心から彼に身を委ねることができた喜びに、胸が震える。
目を開けると、ジュリアンの無表情な寝顔がすぐそこにあった。普段の完璧で隙のない公爵とは異なる、少しだけ幼さを残したその顔に、リシェルは愛おしさを感じた。彼の整った眉、長く伸びた睫毛、そして微かに開いた唇……。全てが愛おしくてたまらない。衝動に駆られるまま、リシェルはそっと彼の頬にキスを落とした。彼の滑らかな肌に触れる唇の感触は、リシェルの心を甘く締め付けた。
その瞬間、ジュリアンの漆黒の瞳がゆっくりと開いた。彼の視線が、リシェルの潤んだ瞳を捉える。その瞳には、寝起き特有の少しの気だるさと、そしてリシェルへの深い愛おしさが混じり合っていた。彼の一瞬の表情の変化が、リシェルを捉えて離さない。
「リシェル……」
ジュリアンの声は、朝特有の少し掠れた響きで、しかし甘く、そして深く響いた。その声を聞いただけで、リシェルの心臓は高鳴った。彼は、リシェルの顔が赤く染まるのを見ると、ごくわずかだが口元に笑みを浮かべた。リシェルは、その笑みに胸の奥が熱くなり、思わず彼の胸に顔を埋めた。ジュリアンは、そんな彼女をさらに深く抱きしめ、柔らかな髪にキスを落とした。彼の腕が、リシェルの体をしっかりと包み込み、まるで離したくないとでも言うようだった。
「よく眠れたか? 私の腕の中は、心地よかっただろうか。昨夜は、君にとって、良い思い出になっただろうか」
彼の言葉は、簡潔だったが、その中に込められた優しさと、昨夜の甘い思い出が、リシェルの心臓をさらに跳ねさせた。彼の言葉の一つ一つが、リシェルの心に温かい光を灯していく。
「はい……ジュリアン様のおかげで、とても……最高の夜でしたわ。わたくし、こんなにも満たされた気持ちになったのは、初めてです……」
リシェルの声は、小さく震えていた。彼女の言葉には、心からの感謝と、満たされた幸福感が込められていた。二人の間に、甘い沈黙が流れる。それは、言葉がなくとも、互いの心が高鳴り、深く愛し合っていることを知らせる、幸福な沈黙だった。ジュリアンは、リシェルの髪を優しく撫で、その頬に再びキスを落とした。このまま時間が止まってほしいと、二人は心から願っていた。彼らの間には、もう何の隔たりもなく、ただ純粋な愛だけが存在していた。ジュリアンは、リシェルの全てを独占したいという、抑えきれない欲望が満たされたことに、深い満足感を覚えていた。
あの夜を境に、ジュリアンとリシェルの絆は、誰の目にも明らかになるほど強固になった。彼らの愛は、もはや社交界の目を気にする必要のない、深い信頼と愛情に基づいたものへと昇華していた。ジュリアンの「可愛いものが大好き」という秘密の趣味は、公然とリシェルへの惜しみない愛情表現へと変わっていた。彼は、もはや自分の本性を隠そうとはしなかった。公爵邸全体が、二人の甘い空気に包まれていた。使用人たちは、以前にも増して穏やかで幸福そうな公爵夫妻の姿に、心から喜びを感じていた。
朝食のテーブルでは、ジュリアンがリシェルのために、彼女が好む温かいスープをよそってあげる。その手つきは、かつての完璧な公爵のそれとは異なり、どこか人間味を帯びていた。スプーンを口元に運ぶジュリアンの姿は、まるで小さな子供に食べさせる親のようにも見えた。リシェルもまた、彼の好みに合わせて、パンをこんがりと焼いて差し出す。些細なこと一つ一つに、互いへの思いやりと愛情が込められていた。ジュリアンは、リシェルが一口食べるたびに、満足そうに微笑み、リシェルもまた、彼が自分の用意した食事を美味しそうに食べる姿を見て、幸福を感じていた。食卓には、温かい笑顔と、時折交わされる甘い視線が満ちていた。
執務室での時間も、二人の甘い空間となった。ジュリアンは、難しい書類を読み解くリシェルの隣に座り、時には彼女の肩を抱き寄せ、時には疲れた彼女の指をそっと撫でた。リシェルが集中しすぎて眉間にシワを寄せると、ジュリアンは、彼の「可愛いものが大好き」な本性を隠すことなく、そっと彼の眉間を指でなぞり、労う。その優しい触れ合いが、ジュリアンの緊張を解きほぐし、彼を安心させた。リシェルが執務中に居眠りをしてしまうと、ジュリアンは彼女を優しく抱き上げ、隣のソファーに寝かせ、そっとブランケットをかけてやる。そして、彼女の寝顔を愛おしそうに見つめながら、静かに執務を再開するのだ。二人の間には、もはや言葉はいらなかった。互いの存在そのものが、最高の安らぎであり、幸福だった。彼らは、互いの存在があるだけで、どんな困難も乗り越えられると確信していた。
ある日の夕方、リシェルが庭園で散歩していると、ジュリアンが公務を終えて、静かに彼女の隣にやってきた。彼の足音は、普段の厳格なそれとは異なり、どこか軽やかだった。彼は、リシェルの手をそっと取り、指を絡めた。その手は、まるでリシェルを捕らえ、二度と離さないとでも言うかのように、しっかりと絡み合った。
「リシェル、今日は、君と過ごす時間が、何よりも待ち遠しかった。執務中も、君の笑顔が脳裏から離れず、早く君に会いたくて仕方がなかった。君のいない執務室は、まるで色が失われたかのように感じる」
ジュリアンの言葉に、リシェルは顔を赤らめた。彼の普段の無表情からは想像もつかないような、甘く、そして率直な愛情表現に、彼女の心は常に満たされていた。彼女は、ジュリアンの言葉の一つ一つが、まるで魔法のように、自分を幸福感で満たしていくのを感じた。
「わたくしも、ジュリアン様とご一緒できるこの時間が、一番の喜びですわ。ジュリアン様の隣にいると、心が温かくなりますし、何よりも心が安らぎます。ジュリアン様のおられる場所が、わたくしの居場所ですわ」
リシェルは、ジュリアンの手にぎゅっと力を込めた。二人は、沈みゆく夕日を眺めながら、腕を組み、ゆっくりと庭園を歩いた。咲き誇るバラの甘い香りが、二人の周りを漂い、夕日のオレンジ色が、二人の姿を美しく照らし出し、彼らの愛を祝福しているかのようだった。その姿は、まるで一つの絵画のようだった。彼らの間には、穏やかで幸福な空気が流れ、永遠にこの瞬間が続くように思えた。
ヴァレリオ公爵邸の使用人たちは、そんな二人の姿を見て、皆、温かい眼差しを向けていた。彼らは、二人の公爵夫妻が、真の愛で結ばれたことに、心から喜びを感じていた。
エミリアは、淡々とした表情の裏で、二人の幸福を心から願っていた。彼女の観察日誌は、もはや「夫婦の愛の軌跡」とでも呼ぶべき、甘い記録で埋め尽くされていた。「本日も、旦那様は奥様を抱きしめて執務にあられていた。奥様は赤面なされていたが、その表情は幸福に満ちていた。ああ、尊い……」「公爵夫妻が、庭園で仲睦まじく散歩なされていた。旦那様が奥様の手を優しく握り、奥様もまた、嬉しそうに寄り添われていた。これぞ、真の愛。私、感銘を受けました」といった記述が、日々増えていった。
マルグリットは、事あるごとに涙腺を緩ませ、「ああ、本当に素晴らしいご夫婦になられて……! わたくし、こんなに美しい愛の形を見たことがございませんわ! 殿下も奥様も、どうか末永くお幸せに!」と、感極まっていた。彼女は、二人の幸福な姿を見るたびに、自らの人生が満たされるような気がしていた。公爵邸のあちこちで、使用人たちが「公爵夫妻、本当にラブラブね」「見ているこっちが幸せになるわ」と、微笑みながら語り合う声が聞こえた。
そして、キューピッドの立役者であるレオンは、離れた場所から二人の甘い姿を見て、満足げに頷いていた。彼の口元には、自信に満ちた笑みが浮かんでいた。
「まったく、このレオン・ディアスの人を見る目は確かですな! 公爵様も奥様も、本当に良いご縁でしたぞ! 私の読み通り、公爵様の『可愛いものが大好き』という本性が、奥様をこれほどまでに愛おしむ結果となるとは! 天才的ですな、私! さて、次は『可愛い世継ぎ』の誕生を、陰ながらお手伝いするとしますかな! ふふふ……」
彼の声は、公爵邸の庭園に、幸福な笑い声として響き渡った。
ジュリアンとリシェルの物語は、政略結婚から始まり、数々のすれ違い、そしてシャルロッテの妨害を乗り越え、真実の愛へと辿り着いた。互いの**「素」を受け入れ、絶対的な信頼と愛情で結ばれた二人は、これからもヴァレリオ公爵家**を、そして互いを、温かい愛で満たしていくことだろう。彼らの甘い日々は、今、始まったばかりなのだ。




