26.お茶目な公爵夫人からの手紙
リシェルの両親との和解は、彼女の心をさらに深く解き放った。長年抱えていた心の壁が取り払われたことで、彼女はジュリアンへの愛情を一層素直に表現できるようになり、その絆は揺るぎないものへと変化していた。公爵邸での日々は、以前にも増して甘く、二人はまるで二人だけの世界にいるかのようだった。ジュリアンの「可愛いものが大好き」という秘めたる趣味は、今やリシェルへの行動すべてに、惜しみなく、そして自然に表れていた。彼の愛情は、公爵邸の隅々にまで満ち渡り、使用人たちすらもが、その甘やかな空気に癒やされていた。
朝、ジュリアンが執務室に向かおうとすると、リシェルがそっと彼のネクタイを直し、襟元に顔を寄せる。その瞬間、リシェルの甘い香りがジュリアンの鼻腔をくすぐり、彼の心臓を微かに跳ねさせた。
「ジュリアン様、今日も一日、頑張ってくださいませ。お仕事、はかどりますように」
その小さな声に、ジュリアンは無表情のまま、彼女の額にそっとキスを落とす。そのキスは、彼がリシェルをどれほど大切に思っているかを物語っていた。彼の口元には、ごくわずかな、しかし幸福に満ちた笑みが浮かんでいた。それは、彼がリシェルと出会ってから、初めて見せるような、心からの、偽りのない笑顔だった。
午後のティータイムでは、リシェルが淹れた淹れたての紅茶を飲みながら、ジュリアンは彼女が最近熱中している歴史書について尋ねる。彼の質問は、いつもリシェルの知的好奇心を刺激するもので、彼女は嬉々として語り始めた。
「ジュリアン様、最近読んだ古代王国の歴史書に、大変興味深い記述がございまして……。当時の王国の統治形態は、現在の我々のものとは大きく異なり、議会制に近い形を取っていたようですの。特に、女性が議会に参加していたという点は、現代の常識を覆すものでございます!」
リシェルが身振り手振りで熱く語るたびに、ジュリアンは愛おしそうに彼女を見つめ、時折、彼女の手を握りしめる。その手は、まるでリシェルの情熱を受け止めるかのように、強く、しかし優しかった。もはや、彼らが公爵夫妻としての威厳を保つことよりも、互いの愛を確かめ合うことの方が自然なことになっていた。彼らの間には、言葉以上の深い信頼と愛情が流れていた。二人の会話は、時に学術的な内容に及び、時に甘い囁きに変わる。その全てが、彼らの関係の深さを物語っていた。
公爵邸の庭園を散歩する際も、ジュリアンは常にリシェルの隣にぴったりと寄り添っていた。リシェルが咲き誇るバラに目を奪われると、彼はさりげなくその花について説明し、時には、リシェルの髪に花びらがついていると、そっと指で取り除いてくれる。その一つ一つの仕草に、彼の「可愛いものが大好き」という本性が表れていた。リシェルが少し疲れた様子を見せれば、ジュリアンはすぐにベンチに座るよう促し、彼女の肩を抱き寄せた。公爵邸の使用人たちは、そんな彼らの甘い光景を、微笑ましく見守っていた。メイド頭のマルグリットは、毎日のように「奥様と旦那様は、本当に絵になりますわ!」と感涙にむせび、執事のセドリックは、二人の幸福を静かに祈っていた。
そんな甘やかな日々が続いていたある日、ジュリアンの執務室に、一通の手紙が届いた。それは、王都の社交界の重鎮であり、ジュリアンとリシェルの関係を陰で支え、時には「爆弾発言」で背中を押してきたロゼリア・ド・ラ・ヴァリエール老公爵夫人からのものだった。ジュリアンは、彼女が旧知の仲であるため、何気なく手紙を開いた。
(さて、ロゼリア夫人が何を……また、何か面白いことを書いていらっしゃるのだろうか)
読み進めるジュリアンの顔は、次第に赤みを帯びていった。手紙には、世間話や近況報告に加え、からかい混じりの、しかし鋭い一文が記されていた。その内容は、ジュリアンの心の奥底に眠っていた、ある意識を呼び起こすものだった。
『ジュリアン、お変わりなく公爵の務めに励んでいらっしゃるかしら? リシェル殿も、公爵夫人として立派にお務めになっているようで、わたくしは安心しておりますわ。公爵家の運営も、リシェル殿の手腕によって、以前にも増して円滑になっていると聞き及んでおります。素晴らしいことですわね。ところで、以前、お茶会で申し上げた「可愛い世継ぎ」の件ですが、そろそろ朗報が届いても良い頃ではないかしら? あまり奥様を甘やかしすぎて、大事な務めを忘れてはなりませんわよ。公爵家を継ぐ者としての責任も、忘れてはいけませんことよ。ふふふ……期待しておりますわ』
ジュリアンは、手紙を読み終えると、まるで焼けた炭でも握りしめたかのように、その紙を強く握りしめた。彼の耳は真っ赤になり、普段の無表情はどこへやら、完全に動揺を隠せない。ロゼリア夫人の言葉が、再び、彼の理性の壁を揺るがしたのだ。それは、彼らが自然と深めてきた愛情表現とは異なる、より明確な「目的」を彼に意識させた。
(はああ……ロゼリア夫人め……! このタイミングで、この話題を……! まるで、私の心を読んでいるかのような……!)
ジュリアンは、頭を抱えたくなった。彼とリシェルの関係は、あの最初の口付け以来、飛躍的に進展し、二人の間に愛が満ちていた。しかし、「世継ぎ」という明確な目的意識は、まだ互いにはなかったのだ。彼らは、ただ互いの存在を慈しみ、愛を育むことに夢中だった。ロゼリア夫人の言葉は、その甘やかな世界に、現実という名の「爆弾」を投下したようなものだった。
その夜、夕食の席に着いたジュリアンは、どこか落ち着かない様子だった。いつもは淡々と食事を摂る彼が、ナイフとフォークを置いたり、グラスを弄んだり、そわそわとした様子を見せていた。リシェルが彼に話しかけても、上の空で返事をする。彼の視線は、時折リシェルの顔に向けられるものの、すぐに逸らされてしまう。リシェルもまた、ジュリアンの様子に気づき、心配そうに彼を見つめていた。
「ジュリアン様、何か、お悩み事がございませんか? もしよろしければ、わたくしにお話しくださいませ」
食事が終わり、ジュリアンが席を立つと、リシェルが彼の様子を伺うように尋ねた。彼女の優しい声に、ジュリアンは一瞬たじろいだ。
ジュリアンは、リシェルの真っ直ぐな視線に、思わず目を逸らした。彼の頬は、すでに微かに紅潮している。そして、意を決したように、小さな声で呟いた。その声は、普段の彼からは想像できないほど、か細かった。
「いや……ロゼリア夫人から、手紙が来てな……その、内容が……」
ジュリアンは、手紙の内容を全て話すことはできなかったが、彼の耳の赤みと、視線がリシェルの唇に吸い寄せられる様子で、リシェルもすぐに察した。ロゼリア夫人の、あの「世継ぎ」の話題だ。リシェル自身も、公爵夫人としての「務め」であることは理解していたが、ジュリアンとの間に育まれた愛が、まだそこまで具体的に結びついてはいなかったのだ。
リシェルの顔も、みるみるうちに赤くなった。彼女の脳裏にも、あの日のロゼリア夫人の言葉が、まるで熱い烙印のように鮮明に蘇り、再び「夜伽」という言葉が、これまでとは異なる意味を持って刻み込まれた。彼女の視線もまた、ジュリアンの引き締まった唇へと吸い寄せられていく。
(よ、世継ぎ……それはつまり……)
二人の間に、甘く、そして重い沈黙が流れた。部屋の空気は、彼らの高鳴る心臓の音で満たされているかのようだった。彼らは、互いの視線から、その想いを読み取っていた。一度タガが外れ、互いの愛を全身で感じてきた二人にとって、ロゼリア夫人のからかい混じりの言葉は、もはや避けて通れない「次のステップ」への、明確な合図となったのだった。その夜、公爵邸には、これまでとは違う、新たな期待に満ちた甘い空気が漂い始めた。




