25.親の愛と公爵の誓い
エルノワーズ伯爵夫妻がヴァレリオ公爵邸を後にする日。王都の空は澄み渡り、公爵邸の庭園からは、穏やかな鳥のさえずりが聞こえていた。玄関では、ジュリアンとリシェルが、彼らを見送るために並んで立っていた。その姿は、まるで絵画から抜け出たかのような完璧な夫婦像だった。セレスティア伯爵夫人は、娘がジュリアンの隣で、心から満たされた、偽りのない笑顔を浮かべているのを見て、感慨深げに目を細めた。彼女の瞳には、長年の心配から解放された安堵と、娘の成長への喜びが混じり合っていた。アルバート伯爵もまた、娘の幸福を確信し、その表情は安堵に満ちていた。彼は、ジュリアン公爵という頼りがいのある存在が、娘をこれほどまでに幸せにしてくれたことに、深い感謝を感じていた。
セレスティア伯爵夫人がリシェルの手を握り、優しく微笑んだ。その手は、かつてリシェルに厳しく淑女教育を施した、あの厳しい手とは異なり、温かく、そして慈愛に満ちていた。
「リシェル、公爵様と共に、どうかお幸せに。あなたの幸せな顔が見られて、母は本当に嬉しいわ。公爵様が、あなたをこれほどまでに大切にしてくださるとは……母の心配は杞憂だったようね」
そして、彼女はジュリアンの方へと向き直った。その表情は、これまでの緊張から解き放たれ、深い信頼と敬意が滲み出ていた。
「ジュリアン公爵様。私の娘リシェルは、少々……いえ、かなり、男勝りなところがございます。淑女としてあるまじき知識に傾倒し、お淑やかとは言えない部分も多々あるでしょう。これまで、そのことで私ども夫婦は、娘に対し厳しく接してまいりました。ですが、どうか、これからもあの子のありのままを愛し、お守りくださいますよう、心からお願い申し上げます。あの子のそういった部分も含めて、どうぞ受け入れてやってくださいませ」
セレスティア伯爵夫人の言葉は、以前のような厳しさではなく、娘への深い愛情と、そしてジュリアンへの絶対的な信頼に満ちていた。彼女の瞳は、これまでのリシェルへの「淑女教育」が、決して娘を苦しめるためではなく、良かれと思ってのことだったという、親としての不器用で、しかし深い愛情を物語っていた。彼女は、娘が社交界で苦しまないよう、そして幸せな結婚生活を送れるよう、必死に娘を淑女に育てようとしていたのだ。
アルバート伯爵もまた、ジュリアンに向かって深く頭を下げた。その姿は、一国の伯爵としての矜持よりも、一人の娘の父親としての、純粋な感謝と懇願の気持ちを表していた。
「公爵様、娘は私にとって、何よりも大切な存在です。未熟な娘ではございますが、公爵様にお預けすることとなり、大変喜ばしく思っております。どうかこれからも、末永くよろしくお願いいたします。そして、娘を、何卒お守りくださいますよう……」
ジュリアンは、伯爵夫妻の言葉に、無表情ながらも深く頷いた。彼の瞳には、彼らの言葉を真摯に受け止める光が宿っていた。そして、アルバート伯爵の言葉を遮るように、しかし毅然とした、そして揺るぎない声で答えた。その声には、公爵としての威厳と、リシェルへの深い愛情が込められていた。
「伯爵夫妻殿。リシェルは、私にとって、かけがえのない妻です。彼女の聡明さも、勇敢さも、そしてその全てを、私は深く愛しています。彼女が持つ、淑女の枠に囚われない自由な精神こそが、私にとって、何よりも尊いのです。何よりも、彼女の『素』の姿を、誰にも、そして何にも、傷つけさせません。いかなる者も、いかなる困難も、彼女に害をなすことは許さない。私が生きている限り、彼女を、このヴァレリオ公爵家が、絶対的に守り抜くことを誓います。これまでのことは、全て私が責任を持って対処いたしました。今後も、彼女の穏やかな日常を邪魔する者は、私が容赦なく排除します。どうぞご安心ください」
ジュリアンの言葉は、伯爵夫妻への確固たる誓いだった。彼の瞳には、リシェルへの揺るぎない愛と、彼女を守り抜くという強い決意が宿っていた。その誓いは、彼の心からの、偽りのない感情が込められたものだった。
そのジュリアンの言葉を聞いた瞬間、リシェルは、まるで雷に打たれたかのように、全身が震えた。彼の言葉の一つ一つが、彼女の心を深く揺さぶった。今まで、両親からの「淑女教育」は、自分を縛りつけるものだと感じていた。特に、自分の「男前」な本性を否定されるたびに、彼女は深い孤独を感じてきたのだ。淑女らしさを求められるたびに、自分の存在を否定されているように感じ、心の中に大きな壁を築いてきた。しかし、今、ジュリアンの言葉と、両親の表情から、その全てが、自分への深い愛情の表れだったのだと、初めて理解できたのだ。彼らは、ただ娘の幸せを願い、世間から守るために、不器用ながらも必死に教育してきたのだ。
(お父様、お母様……私を、愛してくれていたのね……こんな私を、淑女にしようと、必死になって……! そして、ジュリアン様……私の全てを、こんなにも深く愛してくださっていたなんて……!)
リシェルの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。それは、これまでの誤解が解けたことへの安堵と、両親への深い感謝、そして、そんな自分を受け入れ、愛してくれるジュリアンへの、あふれるほどの幸福感からくる涙だった。彼女の胸は、温かい感情でいっぱになった。
リシェルは、泣きながら両親に駆け寄り、一人ずつ強く抱きしめた。その抱擁は、彼女がこれまでの人生で抱えてきた、全ての心の重荷を解き放つかのようだった。
「お父様、お母様……ありがとう……本当に、ありがとう……! わたくし、幸せです……!」
セレスティア伯爵夫人は、涙を流す娘を、優しく抱きしめ返した。彼女の背中をそっと撫でながら、母の温かい涙が、リシェルの髪に落ちた。アルバート伯爵もまた、娘の頭をそっと撫で、その瞳には、温かい光が宿っていた。彼の口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。
ジュリアンは、そんなリシェルの姿を、静かに見守っていた。彼の無表情の顔には、ごくわずかだが、満足げな笑みが浮かんでいた。彼の庇護の下で、リシェルは、ようやく心の底から、自分自身を受け入れられるようになったのだ。
エルノワーズ伯爵夫妻を乗せた馬車が、公爵邸の門をくぐり、遠ざかっていくのを見届けた後、リシェルはジュリアンにそっと身を寄せた。彼女の瞳には、まだ涙がにじんでいた。
「ジュリアン様……」
リシェルは、ジュリアンの胸元に顔を埋め、ぽつりぽつりと語り始めた。声は、まだ涙で震えていたが、その言葉には、長年心の奥底に秘めていた感情が込められていた。
「わたくし、ずっと、両親に理解されていないと思っていました……。特に、母には、淑女らしくないと言われてばかりで……。幼い頃、本ばかり読んでいたら、『それでは社交界で恥をかくわ』と叱られ、父の執務室を覗き見していたら、『はしたない』と厳しく叱られました。父も、いつも母の言うことを聞くようにと……。わたくし、自分が間違っているのだと、ずっと、ずっと苦しかったのです。この『男前』な本性は、誰にも受け入れてもらえないのだと……だから、必死で淑女の仮面を被って、皆に認められようと努力してきました……」
リシェルの言葉は、幼い頃からの心の傷を、ジュリアンの前で初めてさらけ出すものだった。彼女の小さな肩が、悲しみに震える。
「でも、今日……ジュリアン様が、わたくしの『素』の姿を愛していると、堂々と言ってくださり……そして、両親が、その言葉を聞いて、わたくしの幸せを心から願ってくれた……。今まで、わたくしを縛り付けていたと思っていた淑女教育も、実は、両親なりの愛情表現だったのだと、ようやく理解できました。本当に、本当に、わたくしは幸せ者です……」
リシェルは、嗚咽を漏らしながら、ジュリアンの胸にしがみついた。これまでの苦しみと、今回の深い理解、そしてジュリアンへの感謝が、彼女の心の中で入り混じり、抑えきれない感情となって溢れ出していた。
ジュリアンは、そんなリシェルを、ただ黙って抱きしめていた。彼の大きな手が、リシェルの柔らかな髪を優しく撫で、その背中をそっと叩いた。彼の無表情の顔には、ごくわずかだが、深い愛情と、そしてリシェルの過去の苦しみを癒やすかのような、温かい光が宿っていた。
「リシェル……君が苦しんでいたこと、知らなかった。だが、もう大丈夫だ。君はもう、孤独ではない。君の『素』の姿を、私が、このヴァレリオ公爵家が、全て受け入れる。君の価値は、誰かに認められることで決まるものではない。君は、君自身で、既に完璧なのだから。そして、君の両親も、君を深く愛している。不器用なだけだった」
ジュリアンの言葉は、簡潔だったが、その一言一言がリシェルの心の奥深くまで染み渡った。彼の温かい体温が、リシェルの体を包み込み、心の傷を癒やしていく。彼の腕の中で、リシェルは、これまで感じたことのない、絶対的な安心感に包まれていた。
エルノワーズ伯爵夫妻は、娘の成長と幸福を確信し、満足げに公爵邸を後にした。彼らの心には、娘への愛と、ジュリアン公爵への深い信頼が満ちていた。残されたジュリアンとリシェルは、互いの手を取り合い、その瞳に、未来への希望と、揺るぎない愛を映し出していた。公爵邸は、彼らの愛によって、温かい光に包まれ、その輝きは、永遠に続くかのように思われた。




