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22.捨てきれない自尊心


 ド・ラ・クロワ公爵家の夜会は、シャルロッテにとって悪夢以外の何物でもなかった。王都の社交界で最も輝く存在であるはずのヴァレリオ公爵夫妻が、まさに絵に描いたような理想の夫婦として、衆目の的となっていた。ジュリアンとリシェルの間に流れる甘く、愛に満ちた空気は、シャルロッテのプライドを粉々に打ち砕き、心に深い絶望を刻みつけた。彼女の全てを賭けた妨害工作は、彼らの揺るぎない絆の前では、まるで無意味なものと化したのだ。しかし、シャルロッテは、その絶望を簡単に受け入れるような女ではなかった。彼女の胸には、まだ、最後の悪あがきへの炎が燃え盛っていた。それは、ジュリアンへの執着というよりも、ただひたすらに、自分がリシェルよりも優れていると世間に知らしめたいという、歪んだ自尊心からくるものだった。




 夜会から数日後、シャルロッテは自室にこもりきり、憔悴しきった表情で父、フランソワ伯爵を呼び出した。部屋の窓からは、穏やかな日差しが差し込んでいるにもかかわらず、部屋の空気は重く、シャルロッテの怒りと焦燥で満ちていた。


「お父様!  お父様は、このまま黙って見ているつもりですか!? あの女が、ジュリアン様の隣で、あんなに得意げにしているのを……!」


 シャルロッテの声は、嫉妬と怒りで震えていた。その瞳は、狂気と憎悪に満ち、まるで燃え盛る炎のようだった。フランソワ伯爵は、娘のただならぬ様子に、ただため息をつくばかりだ。彼は、これまでのシャルロッテの行動を冷静に分析しており、ヴァレリオ公爵家の状況、特にジュリアン公爵がリシェル夫人をどれほど深く愛し、庇護しているかを理解していた。もはやシャルロッテが入り込む余地など微塵もなく、これ以上行動すれば、ミレーユ伯爵家が破滅しかねないことを悟っていたのだ。


「シャルロッテ、もう諦めなさい。ヴァレリオ公爵夫妻の仲は、もはや誰も引き裂けぬほど強固だ。あの夜会で、公爵があれほどまでに奥方を慈しむ姿を見たか? あれは、偽りなどではない。これ以上、無駄な真似をすれば、我々ミレーユ伯爵家が窮地に立たされるだけだ。あのヴァレリオ公爵の怒りを買うことになれば、我々は……」


 フランソワ伯爵は、娘を諭そうとした。彼の声には、深い疲労と、そして娘を案じる気持ちが込められていた。しかし、シャルロッテの耳には、その言葉は届かない。彼女の心は、すでに嫉妬と自尊心によって完全に支配されていた。


「何を仰るのですか!  あの女が、私よりも公爵様に相応しいはずがないわ! あんな、どこぞの伯爵家の出の女が! 私が、あの女より劣っているとでも言うのですか!? お父様が、もっと早く動いていれば……! あんな女など、私の敵ではなかったはずなのに!」


 シャルロッテは、自分の失敗を認めず、全ての責任を父に転嫁しようとした。彼女は、ジュリアンを心から愛しているわけではなかった。ただ、王都で最も高貴で完璧なジュリアン公爵の隣に立つのは、自分こそが相応しいと、そう信じて疑わなかったのだ。リシェルという「劣った存在」が、自分より先に公爵夫人の座に収まり、しかも公爵に溺愛されているという事実が、彼女の自尊心を許さなかった。そして、その目に狂気を宿らせ、最後の悪あがきに打って出た。


「お父様、わたくしはまだ、諦めておりません。公爵様とあの女を引き離す、最後の手段がございますわ。あの女が、いかに公爵夫人に相応しくないか、王都中の貴族に知らしめるのです!」


 シャルロッテは、フランソワ伯爵に、耳元で恐ろしい計画を囁いた。その内容は、リシェルの過去の「男勝りな」行動や、淑女としてはあるまじき知識への傾倒を誇張し、そこに事実無根の尾ひれをつけ、社交界に悪い噂を流すことで、ヴァレリオ公爵夫妻の評価を貶め、ジュリアンがリシェルを捨てるように仕向ける、というものだった。彼女は、リシェルが公爵家を運営する際に、伝統を無視して独自の改革を行ったことや、書斎にこもって書物を読み耽っていることを、醜聞として広めようとしていた。

 フランソワ伯爵は、娘の言葉に顔色を変えた。彼の顔は、みるみるうちに青ざめていく。


「馬鹿なことを言うな!  そのような真似をすれば、ヴァレリオ公爵家を敵に回すことになる! あの公爵は、我々が想像するよりもはるかに、リシェル夫人を大切にされているのだぞ! それは、ミレーユ伯爵家にとって破滅を意味するのだぞ!」


 伯爵は、娘の暴走を止めようと必死だった。彼の言葉は、警告であり、懇願でもあった。しかし、シャルロッテの狂気は、もはや誰にも止められなかった。彼女の瞳には、成功への妄執と、リシェルへの憎悪しか映っていなかった。




 その日の午後、フランソワ伯爵の元に、ヴァレリオ公爵家からの使者が訪れた。通常ならば、使者との面会は執務室で行われるものだが、使者は伯爵の私室に直接現れた。使者が差し出したのは、厳重な封がされた一通の書簡だった。その書簡の紋章は、ヴァレリオ公爵家の誇りを示す獅子と剣の紋章であり、伯爵はそれを見た瞬間、嫌な予感がした。彼の心臓は、早くも不安でざわめき始めていた。

 震える手で書簡を開くと、そこにはジュリアン・ヴァレリオ公爵の筆跡で、簡潔に、しかし明確に、そして絶対的な拒絶の意思が記されていた。その文面は、公爵の普段の無表情とは裏腹に、激しい怒りと、リシェルへの揺るぎない庇護の意志に満ちていた。


「ミレーユ伯爵フランソワ殿

 貴殿の息女シャルロッテ嬢による、我が妻リシェルへの度重なる無礼な干渉、および不適切な言動について、再三の警告にもかかわらず改善が見られないことを深く憂慮している。貴殿の息女の行為は、既に我がヴァレリオ公爵家の名誉を著しく毀損するものであり、これ以上看過することはできない。

 貴殿の息女は、過去において、私の妻に対して多岐にわたる妨害行為を仕掛けた。晩餐会での失態の画策、公爵邸における無断侵入、偽造の手紙による離間、そして最近では、公衆の面前での侮辱行為。これら全ての行いは、私が愛し、妻として迎え入れたリシェルへの、許されざる侮辱である。

 よって、ここに最後通告を突きつける。

 今後、シャルロッテ嬢が我がヴァレリオ公爵夫妻に対し、いかなる干渉も、不適切な言動も行った場合、ヴァレリオ公爵家はミレーユ伯爵家との一切の交流を断絶し、貴殿の領地における経済活動、及び社交界における地位に対する全面的支援を停止する。貴殿の領地で展開されているヴァレリオ公爵家系列の全ての商業活動は即刻中断され、社交界におけるミレーユ伯爵家の評判は地に落ちるだろう。これは、我が妻への侮辱に対する、ヴァレリオ公爵家としての断固たる意思表明である。もはや、一切の容赦はしない。

 ジュリアン・ヴァレリオ

 ヴァレリオ公爵」


 フランソワ伯爵は、書簡を読み終えると、その場に崩れ落ちた。ジュリアンは、リシェルの夫として、そしてヴァレリオ公爵として、明確な「最後通告」を突きつけてきたのだ。ヴァレリオ公爵家との断絶は、ミレーユ伯爵家にとって、経済的にも、社交的にも、そして政治的にも、破滅を意味する。彼の頭の中では、ミレーユ伯爵家の繁栄が崩れ去っていく未来が鮮明に描かれた。


「まさか……公爵が、ここまで……! あの冷徹な公爵が、ここまで感情的になり、そして徹底的に……!」


 フランソワ伯爵は、震える手で書簡を握りしめた。彼の脳裏には、夜会でのジュリアンとリシェルの幸福そうな姿が蘇る。そして、彼の娘シャルロッテが、その幸せを壊そうとした愚かな行為が。その愚かさが、取り返しのつかない結果を招いたのだ。

 伯爵は、すぐにシャルロッテの部屋へと向かった。部屋のドアを乱暴に開け、書簡を突きつけた。シャルロッテは、その内容を読み終えると、顔から血の気を失い、そのまま床にへたり込んだ。彼女の瞳は、絶望と恐怖で大きく見開かれ、もはや狂気の光はどこにもなかった。


「そんな……私が、負けるはずがない……! 私が、私こそがジュリアン様に……!」


 彼女の最後の悪あがきは、ジュリアンの絶対的な愛と庇護の前に、呆気なく、そして完全に打ち砕かれた。ジュリアンは、誰にも、そして何にも、リシェルを傷つけさせるつもりはなかったのだ。その愛は、彼の全てをかけた守護へと繋がっていた。シャルロッテは、自分の傲慢と歪んだプライドが、自らの破滅を招いたことを、ようやく理解したのだった。

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