20.隠せない愛
一度タガが外れてしまえば、もうジュリアンとリシェルの間に理性の歯止めは効かなかった。庭園でのあの抱擁と口付け以来、二人は周囲から見ても明らかなほどラブラブなカップルへと変貌を遂げていた。公爵邸の空気は、これまでになく甘く、温かいものに満ちていた。ジュリアンの「可愛いものが大好き」という秘密の趣味は、もはや抑えきれない愛となって、リシェルへと惜しみなく注がれていた。彼の無表情の下に隠されていた情熱が、今、堰を切ったように溢れ出し、リシェルを包み込んでいた。リシェルもまた、彼の溢れんばかりの愛情に、戸惑いながらも幸福を感じ、その愛を全身で受け止めていた。
朝食のテーブルでは、二人の甘い雰囲気が、まるで砂糖菓子のように空気を満たしていた。窓から差し込む朝日は、白金の食器に反射してキラキラと輝き、公爵邸の朝をいつも以上に明るく照らしていた。ジュリアンは相変わらず無表情だったが、リシェルがパンを取ろうとすると、すかさず彼女の好きなジャムを差し出すようになった。その動きは、まるで長年連れ添った夫婦のように自然で、しかしその中には、細やかな配慮と深い愛情が込められていた。リシェルもまた、ジュリアンがコーヒーを飲む際に、さりげなく角砂糖を二つ、彼のカップに落とす。彼が甘いコーヒーを好むことを、彼女はもう知っていた。互いの視線は、食事中も常に絡み合い、言葉を交わさずとも、その瞳が全てを語っていた。時には、ジュリアンがリシェルの口元についたパンくずを、親指でそっと拭い取るなど、周りの使用人たちが思わず目を逸らしてしまうような、甘い仕草を見せることもあった。そのたびに、リシェルは顔を真っ赤にするが、その表情は幸福に満ちていた。
執務室での時間も、大きく変わった。以前は静かに向かい合って書類を読んでいた二人は、今では、ジュリアンがリシェルの背後から彼女の肩に手を回し、そのまま軽く抱き寄せるのが日常となっていた。リシェルが集中しすぎて首を傾げると、ジュリアンがそっと彼女の頬にキスを落とす。そのたびに、リシェルの顔は真っ赤になるが、彼を拒むことはなく、むしろ嬉しそうに身を委ねていた。時には、リシェルがジュリアンの膝の上に座って一緒に書類を読んだり、互いの腕の中で頭を寄せ合ったりすることもあった。書類を読むふりをしながら、ジュリアンがリシェルの髪にキスをしたり、リシェルが彼の指をそっと握り返したりと、そのイチャイチャぶりは止まらなかった。彼らの執務は、もはや共同作業というよりも、二人の甘い時間となっていた。
公爵邸の至る所で、彼らの愛情表現が見られるようになった。廊下で鉢合わせれば、ジュリアンがリシェルの手を引き寄せ、指先に優しくキスを落とす。リシェルもまた、彼を見上げる瞳に、甘い愛情を湛えていた。広間で他の貴族と談笑している最中でも、ジュリアンがそっとリシェルの腰に手を回したり、リシェルが彼の腕にそっと触れたりするなど、二人の間には常に甘いスキンシップが交わされていた。まるで、互いの存在を肌で感じていたいと願っているかのようだった。その甘さは、公爵邸の隅々にまで染み渡り、使用人たちすらもが、二人の幸福なオーラに包まれていた。
ある午後、リシェルが庭園で花の手入れをしていると、ジュリアンが静かに隣にやってきた。太陽の光が、彼女の栗色の髪をキラキラと輝かせ、ジュリアンの瞳を惹きつけた。彼は、リシェルの手から熊手をそっと奪い取り、代わりに彼女の手を握りしめた。その手は、作業で少し汚れていたが、ジュリアンは全く気にすることなく、その感触を慈しむように味わっていた。
「リシェル、疲れただろう。休むように。花の手入れは、私が代わりにやろう」
ジュリアンの言葉は、以前よりもずっと優しく、その声には甘い響きが加わっていた。リシェルは、彼の大きな手に包まれた自分の小さな手を見て、頬を染めた。そして、彼の無表情な顔が近づくと、自然と目を閉じた。ジュリアンは、リシェルの柔らかな唇に、優しく、しかし情熱的にキスを落とした。公爵邸の庭園に、甘いキスが舞い降りる。それは、彼らの愛の深さを物語るかのように、長く、そして温かいものだった。
その日の午前中、ジュリアンは公爵として重要な軍議に参加していた。王都の騎士団長や主要な貴族たちが集まり、国境の警備体制や、近隣国との外交問題について、厳粛な雰囲気が漂う会議室で議論が交わされていた。普段のジュリアンであれば、完璧な無表情で、一切の感情を排し、論理的な判断を下すことに徹するはずだった。
しかし、今日のジュリアンは違った。彼の表情は相変わらず鉄壁の無表情を保っていたが、その目の奥には、どこか穏やかな光が宿っていた。議題が国境警備の兵士の士気について及んだ時、ジュリアンは言葉を選びながら語り始めた。
「兵士の士気を高めるには、彼らが守るべきものの尊さを理解させる必要がある。愛する家族、故郷、そして何よりも、愛しい存在を守るという強い意志こそが、彼らを奮い立たせるだろう」
その言葉は、いつもの論理的で冷徹な彼の言葉遣いとは異なり、どこか温かい響きを帯びていた。騎士団長や貴族たちは、ジュリアンの言葉に一瞬戸惑い、互いの顔を見合わせた。彼の言葉の「愛しい存在」が、誰を指しているのか、彼らが知る由もなかったからだ。しかし、ジュリアンはそんな部下たちの困惑に気づくことなく、ただ淡々と、しかし熱を込めて語り続けた。彼の脳裏には、リシェルの愛らしい寝顔や、笑顔が常にちらついていた。
軍議が終わり、ジュリアンが会議室を出る際、彼は普段は絶対にしない行動に出た。入口で控えていた部下の一人が、うっかりジュリアンのマントの裾を踏んでしまい、慌てて謝罪した。
「も、申し訳ございません! 公爵様!」
ジュリアンは立ち止まり、その部下を無表情で見下ろした。部下は、冷や汗を流しながら、公爵の厳しい叱責を覚悟した。しかし、ジュリアンは微かに首を傾げると、その部下の肩にそっと手を置いた。
「気にするな。怪我はないか?」
その声は、いつもよりもずっと優しく、部下は驚いて顔を上げた。ジュリアンの瞳には、微かにだが、慈しむような光が宿っていたのだ。ジュリアンは、その部下の肩を軽くポンと叩くと、そのまま歩き出した。部下は、呆然としながら、ジュリアンの背中を見送った。
(今の、ヴァレリオ公爵様なのか……? まるで、別人のようだった……)
彼の心の中には、公爵への畏怖だけでなく、これまで感じたことのない温かい感情が芽生え始めていた。ジュリアンは、軍議で高ぶった感情のまま、一刻も早くリシェルのもとへ向かいたかったのだ。彼にとって、リシェルはまさに「最高の可愛いもの」であり、理性の箍が外れた今、その愛を抑えることなどできなかった。
軍議から戻ったジュリアンは、書斎でリシェルが待っているのを見つけると、まっすぐ彼女の元へ向かった。書斎のドアを閉めると、ジュリアンの表情は、会議室で見せた無表情から一変し、わずかに柔らかなものになった。
「リシェル、ただいま」
「ジュリアン様、おかえりなさいませ。軍議はいかがでしたか?」
リシェルがジュリアンを気遣うように問いかけると、ジュリアンは椅子に座るリシェルの隣に立ち、彼女の髪にそっとキスを落とした。リシェルは、その不意打ちのキスに顔を赤くしたが、彼の愛情に満ちた視線に、すぐに心を落ち着かせた。
「ああ、滞りなく終わった。国境警備の件だが、新たな戦略を練る必要がある。兵士たちの士気向上のためにも、彼らが守るべきものの尊さをより深く理解させるよう、指揮官たちに指示を出した」
ジュリアンはそう言って、椅子に座るリシェルの後ろに立ち、彼女の肩に手を回した。彼の体温が、リシェルの背中から伝わってくる。彼は、書類を広げながら、軍議で話し合われた内容を、リシェルに詳細に説明し始めた。
「この地図を見てくれ。現在の防衛線には、いくつか脆弱な点がある。特にこの地点は、地形的に敵の侵入を許しやすい。君なら、どう改善する?」
ジュリアンは、リシェルに軍議の意見を求めるように促した。彼は、リシェルの聡明な頭脳と、論理的思考を深く信頼していた。リシェルは、ジュリアンの肩に頭を預けながら、地図を食い入るように見つめた。彼女の「男前な本性」が顔を出し、真剣な眼差しで地図を分析する。
「なるほど……確かにこの地点は、仰る通りですわ。しかし、ここに新たに砦を築くのは、地理的に困難ではございませんか? むしろ、周辺の森を利用した迂回ルートの発見と、そこへの伏兵配置を強化すべきかと……」
リシェルは、身振り手振りも交えながら、自身の見解を熱心に語った。その表情は、普段の淑女らしさからは想像もつかないほど、情熱に満ちていた。ジュリアンは、そんな彼女の真剣な表情を、愛おしそうに見つめていた。彼の指先は、無意識のうちにリシェルの頬を撫で、そして唇にそっと触れた。
(ああ、なんと素晴らしい知性だ……そして、その唇が、私のために語ってくれる……)
ジュリアンは、リシェルの言葉に頷きながら、彼女の唇に短いキスを落とした。公務の話をしているにもかかわらず、二人の間には甘い空気が満ちていた。リシェルは、キスをされたことに顔を赤くするが、その口から出る言葉は、引き続き冷静で論理的な戦略提案だった。ジュリアンは、そのギャップに、内心で(はああ……尊い……!)と悶絶しながらも、リシェルの意見に真剣に耳を傾けていた。
二人のこの急激な変化に、最も喜びを隠しきれないのは、もちろん公爵家の使用人たちだった。彼らにとって、公爵夫妻のロマンチックな進展は、日々の生活における最大の楽しみであり、最も心を揺さぶられる出来事だった。
メイド頭のマルグリットは、毎朝、二人の甘い雰囲気を目の当たりにするたびに、頬を抑えて感涙していた。彼女は、目を潤ませながら、他のメイドたちに語りかける。
「奥様と旦那様が、あんなにラブラブになられて……! 朝食の時の、あの甘い視線! 旦那様が奥様のパンくずを拭う仕草なんて、もう、夢のようでしたわぁ! ああ、こんな日が来るなんて、わたくしはもう、成仏できますわぁ! 本当に、生きててよかった!」
執事のセドリックは、二人の様子を穏やかな眼差しで見守りながら、密かに「公爵様も、ようやく本当の幸せを見つけられましたな」と、胸中で呟いていた。彼の顔には、普段見せない柔らかな笑みが浮かんでいた。彼は、長年ジュリアンに仕えてきたからこそ、彼の内に秘められた愛情がどれほど深いものかを知っていた。公爵が人間らしい感情を取り戻し、幸せそうにしている姿は、彼にとって何よりの喜びだった。
侍女のエミリアは、淡々としながらも、その観察記録は日に日に詳細になっていった。彼女は、小さなノートに、公爵夫妻のあらゆる言動を、克明に記録していた。
「お嬢様と旦那様、本日のスキンシップ回数、午前中だけで既に10回を突破。執務室での膝枕(1回)、頬へのキス(2回)、手の甲へのキス(3回)、指先の接触(多数)、そして軍議報告中のキス(1回)。視線が絡む回数、もはや数え切れず。公爵様の理性、完全に瓦解。進捗は順調に進んでいる模様。午後は、庭園での抱擁とキスを確認。記録更新ペース」
彼女の記録は、まるで科学論文のようだったが、その行間からは、公爵夫妻への温かい視線が感じられた。彼女は、リシェルの「男前な本性」が、ジュリアンの前で存分に発揮されていることに、密かに喜びを感じていた。
そして、騎士団長のレオンは、自分の「キューピッド作戦」が大成功を収めたことに、満面の笑みを浮かべていた。彼は、公爵邸の片隅で、自分の手柄を誇るかのように、大声で笑っていた。
「いやぁ、奥様と公爵様は、本当に見ていて飽きないですな! 今日の軍議での公爵様の言葉を聞きましたか!? 『愛しい存在』ですぞ! まさか、公の場で愛を語られるとは! このレオン・ディアスの腕の見せ所でしたぞ! ふははは!」
彼の自信満々な態度に、周囲の使用人たちは苦笑いしつつも、その言葉に異論は唱えなかった。なぜなら、確かに彼らの関係は劇的に進展したのだから。
公爵邸は、かつての厳かで静謐な雰囲気から一転、温かく、そして甘い愛に満ちた空間へと変わっていた。使用人たちは皆、公爵夫妻のこの変化を心から喜び、日々の業務にも一層精を出していた。彼らにとって、公爵夫妻の幸せは、自分たちの幸せでもあった。ジュリアンとリシェルの姿は、まさに絵に描いたような理想の夫婦。その甘い愛は、公爵邸全体を包み込み、まるで春の陽だまりのように温かだった。使用人たちは皆、この新たな公爵夫妻の幸せを心から喜び、二人の将来を温かく見守っていた。公爵邸は、今や、愛の巣と化していた。
 




