02.公爵夫人として
ヴァレリオ公爵家の朝は早い。まだ陽が昇りきらないうちから、厨房では朝食の支度が始まっていた。広々とした石造りの厨房には、数名の料理人とメイドたちが手際よく動き回っている。石壁に囲まれた空間には、焼きたてのパンの香ばしい匂い、温かいミルクの甘い香り、そして新鮮な野菜が刻まれる軽快な音が満ちていた。かまどの火は赤々と燃え、大きな鉄鍋からは湯気が立ち上る。
その中心に立つのは、料理長ジャン・ベルトラン。恰幅のいい体躯に立派な口髭を携えた彼は、何十年とヴァレリオ家の食を支えてきた老練の職人だった。彼の指示は的確で、無駄がない。
「塩加減が違う、ノエル。子牛のローストは素材の味を活かすんだ、控えめに」
「は、はいっ!」
若い料理人が慌てて鍋の火加減を調整する。ジャンの目は厳しくも温かく、若手たちの成長を促している。
そんな厨房の一角に、慎ましく立つ一人の女性の姿があった。淡いミルクティー色の髪は、朝の光を受けて柔らかく輝き、清楚な薄緑のドレスを纏った彼女――リシェル・ヴァレリオは、興味津々といった面持ちでジャンの動きを見つめていた。彼女の瞳は、まるで初めて見る珍しい鳥を観察するかのように、熱心に料理の工程を追っていた。
「奥様、今朝も厨房へようこそ。昨夜のお夜食はいかがでしたか?」
ジャンが優しく声をかけると、リシェルはにこやかに振り返った。
「とても美味しかったです、ジャン様。あのスープは……茸と仔牛のコンソメ仕立てですか?」
リシェルの言葉に、ジャンは目を見開き、嬉しそうな笑顔を浮かべた。料理人として自分の仕事を理解されることは、何より嬉しいことだった。特に、公爵夫人という立場でありながら、ここまで細やかに味覚を捉えることができる人物は稀だ。
「おお、よくお分かりで! まさにその通りでございます。奥様は、本当に舌が肥えていらっしゃる」
「エルノワーズでは、母の勧めで少しだけ料理も習っていましたの。庶民の味を学ぶのも、貴族の務めだと教えられまして」
リシェルは恥ずかしそうに笑った。貴族の中には、厨房に足を踏み入れることすら嫌がる者も多い。火や油の匂いを嫌い、使用人の仕事と見下す者もいる。だが、リシェルはその逆だった。食という日常にこそ、人々の心が宿ると考えている。食材がどのように生まれ、どのように調理され、人々の口に運ばれるのか。その全てに敬意を払うべきだと、彼女は幼い頃から教えられてきたのだ。
「さすが伯爵令嬢……いえ、公爵夫人。味覚も見識も一流でいらっしゃる。奥様がいらっしゃるようになってから、厨房の者たちも皆、活気づいております」
ジャンの言葉に、リシェルはさらに頬を染めた。彼女の存在が、この屋敷に新しい風を吹き込んでいることを、彼女自身はまだ自覚していなかった。
そこへ、メイド頭のマルグリットが足早に現れた。彼女の足音は、厨房の活気ある音の中でもはっきりと聞こえる。
「奥様、そろそろ支度をお願いいたします。領地からお見えになる代表の方々が、謁見の間でお待ちです」
「はい。すぐに参ります」
リシェルは礼を言い、エミリアとともに厨房を後にした。彼女の背中を見送りながら、ジャンは満足そうに頷いた。新しい公爵夫人は、ヴァレリオ家にとって、きっと大きな喜びをもたらしてくれるだろう。
リシェルは自室に戻ると、エミリアの助けを借りて執務用のドレスへ着替えた。今日の謁見は、公爵夫人として初めて領民の代表と顔を合わせる重要な機会だ。選ばれたのは、落ち着いた紺碧の生地に銀糸でヴァレリオ家の紋章が刺繍された、格式高いドレス。髪はシンプルにまとめられ、顔には薄く化粧が施された。
(大丈夫。しっかり挨拶をして、皆様のお顔を覚えるの)
リシェルはそう自分に言い聞かせ、鏡に映る自分を見つめ、背筋を伸ばす。完璧な笑顔を練習し、呼吸を整える。エルノワーズ家で培った全ての教養と、公爵夫人としての自覚を胸に、彼女は謁見の間へと向かった。
謁見の間――重厚な絨毯が敷き詰められ、金の刺繍を施した天蓋が張り巡らされた広間。窓からは春の柔らかな光が差し込み、磨き上げられた大理石の床に反射して、荘厳な雰囲気を一層際立たせていた。部屋の中央には、玉座風の椅子が二つ並べられており、ヴァレリオ公爵ジュリアンが静かに座っていた。その傍らには、少し緊張した面持ちのリシェル。彼女の隣に立つエミリアは、主人の緊張を和らげるように、そっと背中に手を添えた。
今日ここに集まっているのは、ヴァレリオ領の主要な村や町の代表者たち。合計で二十名近く。農村の村長、漁村の代表、鉱山の監督、織物工房の主、そして書庫村の長老など、老若男女さまざまな顔ぶれが並んでいた。彼らがリシェルに注ぐ視線には、新しい公爵夫人への期待と、わずかな不安が入り混じっていた。政略結婚で嫁いできた貴族の娘が、果たして自分たちのことを理解してくれるのか。
最初に進み出たのは、髭を蓄えた長身の男。彼の顔には、長年風雨にさらされた農民特有の皺が刻まれている。
「ノルマン村の村長、アルフォンス・クラウゼと申します。公爵殿下、そして新たにお迎えした奥方様に、心よりご挨拶申し上げます」
アルフォンスは深々と頭を下げた。彼の声は太く、広間に響き渡る。
「こちらこそ。遠路はるばるありがとうございます」
リシェルは微笑み、ゆっくりと丁寧に頭を下げた。その所作に、場の空気がふっと和らぐ。彼女の穏やかな笑顔は、領民たちの緊張を解きほぐすのに十分だった。
続いて、年配の女性が歩み出る。彼女の手は、長年の織物作業で節くれ立っていたが、その表情は優しかった。
「アラベラと申します。小さな織物工房を営んでおります。奥様が織物にご興味あるとうかがい、光栄に存じます」
「まあ、それは……! ぜひ一度、工房を拝見させてください。絹と麻を組み合わせた技法、とても興味深いと聞いておりますわ」
リシェルは、アラベラの言葉に目を輝かせた。彼女は幼い頃から、様々な手仕事に興味を持っていた。特に織物は、その繊細な工程と、地域ごとの特色ある模様に魅力を感じていたのだ。
「ありがとうございます。お越しの際には、心を込めて準備させていただきます」
アラベラは感激したように、何度も頭を下げた。公爵夫人が、自分のような小さな工房に興味を持ってくれるとは、夢にも思っていなかったのだ。
そこへ、痩せた中年の男が進み出る。彼の顔は、鉱山の煤で少し汚れていたが、その瞳は力強かった。
「ディルク・ハンゼンと申します。西方の鉱山村『マルゼル鉱区』より参りました。鉱夫たちも、公爵家に新たなご縁が生まれたと知り、喜んでおります」
「鉱山でのご苦労、並々ならぬものと存じます。皆様の安全と健康は、公爵領の発展にとって不可欠です。今後とも安全と健康を第一に、皆様が健やかに働けるよう努めてまいります」
リシェルの言葉に、ディルクは驚いたように目を見開いた。貴族の夫人が、鉱夫たちの苦労にまで思いを馳せるなど、前代未聞だったからだ。彼の表情に、深い安堵と感謝の色が浮かんだ。
続けて、赤ら顔の青年が前に立つ。彼の腕はたくましく、日焼けした肌は漁師であることを示していた。
「グレゴール・ヴァイスです。『エルミア湖』の漁村から参りました。奥様にぜひ、春の白魚をご賞味いただきたく……」
「まあ、湖の白魚……! 季節を味わうのはとても楽しみです。ありがとうございます、グレゴール様。新鮮な白魚は、この時期だけの特別なご馳走ですものね」
リシェルは、心からの喜びを表情に表した。彼女の自然な反応に、グレゴールは照れくさそうに頭を掻いた。
次に、背筋の伸びた老紳士が静かに歩み出た。彼の眼鏡の奥の瞳は、知的な光を宿している。
「レナート・ヴァルディ。東部の書庫村から参りました。奥様が書に親しみある方と聞き、感激しております。もしご興味あれば、古書の蔵をご案内したく存じます」
「それは素晴らしいですね。幼いころから本が好きで、特に歴史や地誌の類には目がありません。書庫村には、この国の歴史を紐解く貴重な資料が眠っていると聞いております。ぜひ、近いうちにお伺いしたいと存じます」
リシェルの言葉に、レナートは深く頷いた。彼の顔には、同じ知を持つ者への敬意が浮かんでいた。
それぞれの代表と丁寧に言葉を交わすリシェル。その対応は、完璧な礼儀作法に裏打ちされつつも、決して形式に流されない温かさがあった。彼女の言葉は、常に相手への敬意と、その仕事への理解に満ちていた。
(リシェルは……すごいな。人の顔と名前を、あれほど自然に覚えて、敬意を持って接するなんて)
ジュリアンは、隣で黙って座りながらも、心の中でそっと呟いた。彼は、リシェルの言葉の一つ一つ、表情の一つ一つを、注意深く観察していた。彼女がただの人当たりのいい令嬢ではないことは、こうして隣で見ていると痛感する。育ちの良さだけではない、心根の強さと真摯さがある。彼女の自然な優しさは、彼の理性を揺さぶり続ける。
(ああもう、こんなふうに見られたら、ますます理性が……)
一瞬、視線が交差した。リシェルが静かにほほえむ。その笑顔は、ジュリアンの心を鷲掴みにする。
(だ、だめだ。無表情を崩すな、ジュリアン・ヴァレリオ。公爵としての威厳を保て。この笑顔に惑わされるな)
彼は必死に自分を律した。
「――奥様、領民からの贈り物でございます」
セドリックが合図し、メイドが木箱を運んでくる。中には、春の初物の果実や、伝統菓子、丁寧に織られたハンカチなどが並んでいた。どれもが、領民たちが心を込めて作った品々だ。
「まあ……なんて素敵な贈り物。皆様のお心遣いに、心より感謝いたします」
リシェルは、両手を胸元に重ねて深くお辞儀をした。その姿に、場の誰もが自然と微笑んでいた。彼らは、新しい公爵夫人が、自分たちの生活に寄り添い、理解しようとしてくれていることを感じ取っていた。謁見の間は、温かい拍手と、安堵の空気に包まれた。
謁見が終わると、ジュリアンとリシェルはそろって謁見の間を後にした。廊下を歩きながら、ジュリアンは静かにリシェルに語りかけた。
「……リシェル」
「はい?」
「今日の君の対応は、完璧だった。いや……それ以上だった」
ジュリアンの言葉に、リシェルはきょとんとした後、頬を赤らめた。彼の口から、これほど直接的な称賛の言葉を聞くのは初めてだった。
「光栄ですわ、ジュリアン様。けれど……」
「けれど?」
「私はまだまだ未熟です。今日も、少し声が震えていたのが自分でもわかりました。もっと、堂々と、公爵夫人として振る舞えるようにならなければと……」
ジュリアンは、少し口角を上げた。ほんの微かな笑み。それは、彼女の謙虚さに対する、心からの賞賛の笑みだった。
「君がそうやって自分を律して努力を続けるからこそ、信頼されるのだろう。その真摯な姿勢こそが、君の美点だ」
(やはり、この方は完璧だわ……)
リシェルは胸の奥に静かにため息を落とした。ジュリアンの言葉は、彼女の努力を認め、さらに高みを目指すよう促しているように聞こえた。
(私も、もっと強く、もっと立派な公爵夫人にならなければ)
春の陽光が、窓辺から優しく差し込んでいた。リシェルの心には、公爵夫人としての責任と、ジュリアンの期待に応えたいという新たな決意が芽生え始めていた。
その晩の夕餉の席。ヴァレリオ公爵邸の正餐の間は、淡く灯された燭台の光に照らされ、温かな雰囲気に包まれていた。窓の外はすっかり闇に包まれ、星が瞬いている。白磁の食器と銀のカトラリーが並ぶ長いテーブルには、数品の料理が美しく配置され、春の香りをふんだんに纏っていた。
「まあ……このお皿の上のものは……!」
リシェルは目を丸くし、料理の中央に盛られた見慣れぬ色合いのサラダに視線を落とした。細く刻まれた紫と赤の葉物野菜、薄くスライスされた黄緑の根菜、それを引き立てる黄金色のドレッシング。香りはやわらかく、けれど土の香をしっかりと留めていた。それは、今日の謁見で領民から贈られた野菜だろうか。
「これは、今日いただいた農園からの贈り物――“赤すずな”という地野菜と、“春球根”を使った一皿です。ジャンがさっそく調理してくれました」
側に立つ執事長セドリックが、穏やかに説明を添える。彼の声は、いつもながら落ち着いていて、心地よい。
「本当に……美しいわ。まるで野の花束みたい」
リシェルはそっとフォークを取り、一口味わった。シャキリとした歯ざわりとともに、口の中にじんわりとした甘みと、ほんのりとした苦みが広がる。それは洗練された調理により引き立てられた、野菜本来の個性そのものだった。
「……おいしい……」
彼女の頬がふわりと緩み、瞳が輝く。その表情は、公爵夫人としての仮面を外し、純粋な喜びを表現していた。
「この春球根の甘み……まるで栗のような味わいですのね。ドレッシングの酸味との相性も絶妙ですわ」
リシェルの言葉に、セドリックは満足そうに微笑んだ。
「ふふ、それは何よりです。ジャンも、奥様が喜んでくださると、きっと励みになるでしょう」
ジュリアンはその向かいで、銀のナイフを動かしながらリシェルを見つめていた。彼の視線は、彼女の表情から一瞬も離れない。
(くっ……また、そんな顔をして……)
無防備に喜びを表す彼女の笑顔。上品に抑えてはいるものの、頬を染め、瞳を細めて小さく「美味しい」と呟く姿に、ジュリアンの内心は落ち着かない。彼の理性は、またしても危機に瀕していた。
(どうしてこうも無意識に人の理性を試すのだ、リシェル・エルノワーズ……いや、ヴァレリオ夫人)
彼は、彼女の無邪気な喜びに、抗うことができなかった。
「これは、どこの村の農園なのかしら?」
リシェルは、その野菜の出どころに興味を持った。
「奥様、フォルト村でございます」とセドリック。
「農薬をほとんど使わずに、手作業で育てられた新芽野菜が特産でして。生食でこれほど風味が残るのは、そのおかげでしょう。特に、村の若い農夫たちが、奥様にお喜びいただきたく、丹精込めて育てたものと聞いております」
「まあ……明日、文をしたためなくては。こんなに素敵な味を届けてくださるなんて。彼らの努力が、この一皿に詰まっているのですね」
リシェルはフォークを置き、そっと口元にナプキンをあてた。彼女の目は、料理の向こうに、領民たちの顔を思い浮かべているようだった。
「領民の方々の手で作られたものを、こうしていただける……本当に、公爵夫人になったのだと、実感いたします」
その言葉は、彼女の心からの感謝と、公爵夫人としての責任感を物語っていた。
(それに、こういう瞬間の彼女は――)
ジュリアンは、思わず呼吸を潜めた。彼女の表情は、ただ美しいだけではない。内側から滲み出る、純粋な感謝と、人々の営みへの深い共感が、彼女を輝かせている。
(……本当に、綺麗だ)
決して“麗しい”とか“気品がある”だけではない。感謝と喜びを心から感じ、それを真っ直ぐに表すその姿に、何度目かわからぬ理性の危機が訪れる。彼は、彼女の人間としての魅力に、深く惹きつけられていた。
「ジュリアン様? どうかなさって……?」
リシェルが、彼の沈黙に気づいて問いかけた。
「いや、なんでもない。君が満足してくれて、嬉しいと思っていた」
彼は努めて冷静な声音を保つ。が、右手に持ったナイフの角度がわずかにずれているあたり、平静ではない。
「本当ですか?」
リシェルは、彼の言葉に少し疑いの目を向けた。彼の無表情は、まだ彼女にとって謎のままだった。
「本当だ。……その証拠に、ほら、デザートを追加で用意させた」
ジュリアンは、セドリックに目配せをした。
「まあ!」
リシェルの目が、さらに輝く。彼女は甘いものに目がないことを、ジュリアンは知っていたのだ。
登場したのは、山間部のミツバチ養蜂家から贈られた“白花蜜”を使ったチーズムースだった。ふわりとした食感と共に、花のように淡い甘みが舌の上でとろける。口に入れると、春の野に咲く白い花の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐるようだった。
「これは……! 蜂蜜って、こんなに優しい味もあるのですね……!」
リシェルは思わず声を上げ、恍惚とした表情を浮かべた。その顔は、まるで小さな子供が無邪気に喜ぶかのようだった。
「奥様、あまりにお美味しそうに召し上がるので……厨房の者たちもきっと喜びます」
セドリックの言葉に、リシェルはふと我に返り、頬を染めて微笑んだ。
「ごめんなさい、私……少しはしゃぎすぎましたかしら?」
「いや」
ジュリアンが、ぽつりと静かに呟いた。
「……君が笑っていると、屋敷が明るくなる。だから、構わない」
その言葉は、ジュリアンの偽らざる本心だった。リシェルの笑顔は、この広大な屋敷に、そして彼の心に、温かい光をもたらしていた。
リシェルは、ふと息を呑んだ。彼の言葉が、彼女の心の奥深くに響いた。けれどその声を言葉にはせず、ただ小さく笑みを浮かべた。彼女はまだ、ジュリアンの言葉の真意を測りかねていた。
春の夜は、まだ少し肌寒い。けれど――
暖かな食卓と、心を交わす声が、その夜のヴァレリオ邸をふんわりと包み込んでいた。二人の間には、まだ言葉にならない多くの感情が渦巻いている。しかし、食卓を囲むこの穏やかな時間は、彼らの距離を、少しずつ、確実に縮めていくことだろう。




