18.雨上がりの奇跡
ロゼリア老公爵夫人のお茶会以来、ジュリアンとリシェルの間には、これまで以上に意識し合う、甘酸っぱい空気が流れていた。互いの唇に視線が向かい、口付けを意識するあまり、些細な接触にも胸が高鳴る。紅茶を注ぐ指先の触れ合い、書斎で資料を渡す時の微かな接触、庭園での偶然の接近。その全てが、二人の間に甘く、そして耐え難い緊張感を生み出していた。口付けという、未踏の領域への意識が、彼らの心を支配していたのだ。そんな初々しい日々が続いていた、ある晴れた日の午後だった。
王都エストラールに、突如として激しい夕立が降り注いだ。それまでの穏やかな日差しが嘘のように、空は鉛色に染まり、雷鳴が轟き始めた。大粒の雨が公爵邸の庭園を激しく打ちつけ、窓ガラスに叩きつけられる雨音が、書斎にまで響き渡った。リシェルは、書斎の窓からその様子を眺めていた。その日の午後、庭師のトーマが、温室に新しい珍しい花を植えたばかりだと、目を輝かせながら話していたのを思い出した。その花は、遠い異国から取り寄せた、繊細で美しい品種だとトーマは語っていた。この激しい雨と風で、新しく植えたばかりの、まだ根付いていない花が傷ついていないだろうか。
心配になったリシェルは、傘を手に、温室へと駆け出そうとした。彼女の心の中には、花を思うトーマの笑顔が浮かび、いてもたってもいられない衝動に駆られたのだ。しかし、その時、背後から静かにジュリアンの声が聞こえた。その声は、雨音の中でもはっきりと聞こえ、リシェルの動きを止めた。
「リシェル、どこへ行く?」
振り向くと、ジュリアンが心配そうに立っていた。彼の完璧な無表情の中にも、微かな焦りの色が見て取れた。彼もまた、庭園の様子を気にしていたのだろう。公爵としての責任感から、庭園の被害を心配していたのかもしれない。
「ジュリアン様! トーマ様が植えたばかりの花が心配で……この雨で、傷ついていないか見てきたいのです!」
リシェルがそう言うと、ジュリアンは無言でリシェルの手から傘を奪い取り、自ら温室へと向かおうとした。彼の行動は、いつも以上に素早かった。
「私が様子を見てくる。君は中で待っているように。この雨の中、君がずぶ濡れになる必要はない」
「いいえ! ジュリアン様までずぶ濡れになっては……! わたくしがお供いたします!」
リシェルは、ジュリアンを止めようと彼の腕を掴んだ。その瞬間、再び雷鳴が轟き、強い風が吹き荒れた。窓の外では、木々が激しく揺れ、嵐の到来を告げるかのようだった。その勢いで、リシェルがバランスを崩し、ジュリアンの方へ倒れかかった。
ジュリアンは、とっさにリシェルを抱き止めた。その拍子に、二人の体が密着する。リシェルの顔が、ジュリアンの胸元に埋もれる形になった。彼の力強い鼓動が、リシェルの耳に直接響いてくる。彼の体温が、雨に濡れそうになったリシェルの体を温めた。
「大丈夫か、リシェル?」
ジュリアンの声が、いつもより近くで、優しく響いた。その声には、微かな動揺と、リシェルを気遣う温かさが混じり合っていた。リシェルは、彼の腕の中にいることに、顔が真っ赤になった。雨音と雷鳴が、二人の間に流れる異常な静寂を際立たせる。まるで、世界から二人だけが切り離されたかのような、不思議な感覚だった。
その時、雨がピタリと止んだ。激しい雷鳴も遠ざかり、空には薄日が差し込み始めた。雲の切れ間から、夕日が差し込み、庭園の木々が光り輝く。雨上がりの澄んだ空気に、濡れた土と花の香りが一層強く漂う。その香りは、彼らの間に漂う甘い緊張感を、さらに高めた。
ジュリアンは、腕の中のリシェルを、ゆっくりと起こし、その顔を覗き込んだ。夕日に照らされたリシェルの顔は、まだ赤く染まっていた。彼女の瞳は、まるで露を宿した花びらのように潤み、ジュリアンの顔を真っ直ぐに見つめていた。その瞳の中には、期待と、そしてわずかな不安が入り混じっていた。
彼の視線は、再び、リシェルの柔らかな唇へと引き寄せられる。それは、まるで磁石に引き寄せられるかのように、抗いがたい力だった。そして、もう、理性を抑えることはできなかった。ロゼリア夫人の言葉も、周囲の視線も、彼の耳には届かなかった。彼の心を満たしているのは、目の前のリシェルと、彼女の唇への衝動だけだった。
「リシェル……」
ジュリアンは、リシェルの頬に手を添え、ゆっくりと、しかし確実に顔を近づけた。彼の指先が、リシェルの柔らかな肌に触れる。リシェルは、息をのんだ。彼の瞳が、彼女の瞳に映る。互いの唇が、今、触れ合おうとしている。時間は、まるで止まったかのようだった。庭園の鳥たちのさえずりも、遠くで聞こえる人々の声も、全てが遠のいていく。
そして、遂に、ジュリアンの唇が、リシェルの唇にそっと触れた。
それは、雨上がりの奇跡のように、甘く、そして優しい口付けだった。戸惑いと緊張で強張っていたリシェルの体は、ジュリアンの唇の温かさに触れた瞬間、ふわりと力が抜けた。初めは戸惑っていたリシェルも、やがてそっと瞳を閉じ、ジュリアンの口付けを受け入れた。彼の唇からは、温かく、そして安心できる香りがした。それは、彼の体温と、彼がいつも使っている書物のインクの香りが混じり合ったような、ジュリアンだけの香りだった。
口付けは、長くはなかった。しかし、その短い時間の中に、二人のこれまで積み重ねてきた甘酸っぱい想いと、未来への期待が全て凝縮されていた。それは、言葉では伝えきれないほどの感情が込められた、特別な瞬間だった。
ジュリアンが唇を離すと、リシェルは瞳を潤ませながら、そっとジュリアンを見上げた。彼女の顔は、まだ赤く染まっていたが、その瞳には、今まで見たことのないような、深い愛情と幸福が満ちていた。
「ジュリアン様……」
リシェルの声は、甘く震えていた。その震えは、喜びと、そして初めての口付けによる感動から来るものだった。ジュリアンは、そんな彼女の様子に、心の中で(はああ……なんて、可愛い……! この唇が、私を……! このまま、どこまでも愛し尽くしてしまいたい……!)と、完全に理性が崩壊寸前だった。しかし、彼の顔には、ごくわずかだが、満足げな、そして幸福に満ちた笑みが浮かんでいた。それは、彼が今まで誰にも見せたことのない、心からの笑顔だった。
その口付けは、二人にとって、初めての、そして何よりも大切な「始まり」だった。ロゼリア夫人の言葉が、もはや呪縛ではなく、二人の愛を深めるきっかけとなった瞬間だった。雨上がりの奇跡が、二人の関係を、新たな段階へと押し上げたのだ。公爵邸の庭園は、その夜、二人の永遠の愛の始まりを見届けた。
公爵邸では、使用人たちが、窓から差し込む夕日に照らされ、静かに自分たちの仕事に戻っていた。激しい夕立が止んだことで、彼らの間にも安堵の空気が流れていた。しかし、彼らの意識は、庭園にいる公爵夫妻へと向けられていた。
厨房では、料理長のベアトリスが、窓の外を見つめながら、メイドたちに指示を出していた。
「見てごらんなさい、あの夕日! こんな日は、きっと良いことが起こるに違いないわ。公爵様と奥様も、きっと……ね」
彼女の言葉に、メイドたちは顔を赤くして微笑んだ。彼らは、公爵夫妻のロマンチックな展開を、心待ちにしていたのだ。
執事のセドリックは、書斎の窓から、二人の姿を静かに見守っていた。彼らの距離が、ゆっくりと縮まっていくのを目にし、彼の口元には、微かな笑みが浮かんだ。彼は、長年ジュリアンに仕えてきたからこそ、彼の内面に秘められた優しさと愛情を知っていた。
「やっと、ですね……公爵様も、ようやく一歩を踏み出されたか」
セドリックは、誰にともなく呟いた。彼の心の中には、二人の幸福を願う温かい思いが満ちていた。
その頃、ノアは、庭園の隅にある物陰から、公爵夫妻の様子を熱心に観察していた。彼の手に握られた「奥様と旦那様ラブ進捗メモ」は、汗で少し湿っていた。彼の目は、二人の唇が触れ合う瞬間を捉え、大きく見開かれた。
「来たッスーーーーー!! つ、遂にッス! キス、キスッス! レベルMAXッス!」
ノアは、全身を震わせながら、メモに今日の出来事を書き込んだ。彼の書き込みは、興奮のあまり、普段よりも乱暴な筆跡になっていた。
「進捗状況:キス成功! レベルMAX! これはもう、プロポーズまで秒読みッス! いや、もう夫婦だからプロポーズは不要ッスか? いや、改めて愛を誓うのもアリッス! 次なる目標は、夜伽ッス!
」
彼は、その場で小さくガッツポーズをした。彼の顔には、この上ない達成感が満ちていた。公爵邸の奥では、使用人たちがひそかに安堵し、喜びを分かち合っていた。彼らは、公爵夫妻の初々しい恋が、ついに大きな一歩を踏み出したことに、心から祝福を送っていた。この口付けが、二人の関係に、どれほどの進展をもたらすのか、彼らは期待に胸を膨らませていた。公爵邸全体が、二人の愛の行方を見守る、温かい空気に包まれていた。




