17.甘酸っぱい距離
ロゼリア老公爵夫人のお茶会以来、ジュリアンとリシェルの公爵邸での日常は、まるで甘い霧の中を歩くようだった。公爵邸のどこを歩いても、執務室にいても、食事をしていても、あの「世継ぎ」という言葉が、呪文のように彼らの耳元で響き渡る。その言葉は、彼らの間に、これまでの平静では考えられないほどの動揺と、そして新たな意識をもたらしていた。そして、その呪縛は、互いの唇を意識させるという、なんとも初々しくも甘酸っぱい効果をもたらしていたのだ。
リシェルは、ジュリアンが話すたびに、その引き締まった、しかしどこか色香を秘めた唇に視線が吸い寄せられるのを感じた。言葉の端々に、いつもは気づかなかった艶やかさを見つけては、自分の顔が熱くなる。彼の声の響き、唇の動き、その全てが、これまでとは違う意味を持ってリシェルの心に響いた。ジュリアンもまた、紅茶を飲むリシェルの柔らかな唇、思案する時にかすかに動く唇、そして微笑む時に美しく弧を描くその全てが愛おしくて、視線を逸らすことができなかった。彼の視線は、まるで磁石に引き寄せられるかのように、彼女の唇に釘付けになる。しかし、彼らはまだ、口付けすら交わしていないのだ。ジュリアンの心の中では、彼の「可愛いものが大好き」という秘密の趣味が、リシェルの唇という新たな“可愛いもの”に熱狂していた。それは、彼の理性を揺るがすほどの、抗いがたい魅力を持っていた。
ある日の午後、リシェルはジュリアンの書斎で、彼が不在の間に読んでいた歴史書について熱心に語っていた。書斎の窓からは、穏やかな日差しが差し込み、二人の姿を優しく照らしていた。
「……ですから、当時の貴族社会において、この改革は画期的なものだったと考えられますわ。特に、平民の立場を向上させようとする動きは、それまでの歴史を鑑みても非常に珍しく、私はこの時代の思想的背景に深く興味を惹かれております。例えば、この書物に記載されているように、平民出身の学者が提唱したとされる『共生論』は……」
リシェルは、夢中で身振り手振りも交えながら話す。その言葉は普段の“おしとやか令嬢”からは想像もつかないほど、論理的で情熱に満ちていた。彼女の瞳は、知的好奇心に輝き、その声は、まるで研究発表をしている学者のようだった。ジュリアンは、そんな彼女の輝く瞳を真っ直ぐに見つめていた。彼の視線は、リシェルの語る内容を追うよりも、その生き生きとした唇に釘付けだった。彼女の唇が動くたびに、彼の心臓は激しく鼓動する。
(ああ、なんと魅力的な唇だ……この唇が、私を呼ぶ声が聞こえるようだ……この唇が、私の名前を呼んでくれる……その甘美な響きを、もっと近くで聞きたい……)
ジュリアンは、衝動的に彼女の唇に触れたいと願ったが、理性で必死に耐える。彼の耳は、すでに真っ赤に染まっていた。完璧な公爵の仮面は、今にも剥がれ落ちそうだった。彼は、自身の内に渦巻く感情を、必死で抑え込もうとしていた。
リシェルもまた、ジュリアンの沈黙と、いつもより熱のこもった視線に気づいた。自分の語る内容が、彼に伝わっているのか不安になり、言葉を区切ってジュリアンの方を見る。そして、彼の視線が、自分の唇に注がれていることに気づくと、一瞬で顔が茹でダコのように真っ赤になった。まるで、書斎の空気が一瞬にして熱くなったかのようだった。
「あ、あの……わたくし、少々、話しすぎましたでしょうか……? もしかして、ご迷惑でしたでしょうか……?」
リシェルは、そう言って慌てて口元を覆った。その仕草は、まさに子リスが身を隠すかのように可愛らしく、ジュリアンの心を鷲掴みにした。ジュリアンは、その可愛らしい仕草に、内心で(はああ……尊い……! なんて愛らしい仕草だ……このまま、抱きしめてしまいたい……!)と悶絶しながらも、どうにか平静を装った。彼の表情は、相変わらずの無表情だったが、彼の耳の赤みは、彼の感情の激しさを物語っていた。
「いや、素晴らしい話だった。君の知識と情熱には、いつも感銘を受けている。時間を忘れるほどに、引き込まれてしまった」
ジュリアンは、そう言って、無理やり視線を書類に戻した。彼の視線が書類の上を滑るように動くが、その内容は全く頭に入ってこなかった。二人の間に、またしても甘く、しかし耐え難い沈黙が流れる。それは、先ほどの熱烈な視線と、そしてこれから起こるかもしれない出来事を予感させるような、期待に満ちた沈黙だった。
夕食のテーブルでも、そのぎこちなさは続いていた。豪華な料理が並べられ、食欲をそそる香りが漂うはずなのに、二人の間には、どこか落ち着かない空気が流れていた。いつもなら、執事のセドリックやメイド頭のマルグリットが、適度な会話を促してくれるのだが、彼らもまた、二人の初々しい雰囲気を壊すまいと、静かに見守っていた。彼らの視線は、皿の上を動くフォークとナイフを追うふりをしながら、密かに公爵夫妻の様子を観察していた。
リシェルは、フォークで料理を口に運びながら、時折、ジュリアンの方を盗み見る。彼が飲み物を口にするたびに、彼の唇がカップに触れる。その度に、リシェルの頬は熱くなる。彼女は、自分の胸が高鳴るのを抑えきれず、必死で食事に集中しようと努めた。
ジュリアンもまた、リシェルが食事をする様子を、視線で追っていた。
(この唇が、私を呼ぶ……。この唇が、やがて私のものに……)
彼の頭の中は、ロゼリア夫人の言葉でいっぱいだった。彼の食欲は、リシェルの唇への意識によって、完全に奪われていた。
食事が終わり、ジュリアンが立ち上がった。彼の声は、いつもより少しだけ低く、しかし穏やかだった。
「リシェル、少し、庭園を散歩しないか?」
ジュリアンの誘いに、リシェルは心臓が跳ね上がった。二人きりの散歩は、これまでにも何度かあったが、今の彼らの間には、特別な緊張感が漂っていた。それは、以前とは全く異なる、甘く切ない期待感だった。
庭園に出ると、夜風が心地よかった。日中の熱気を運び去り、肌を優しく撫でる。満月が二人の道を煌々と照らし、色とりどりの花々の香りが漂う。夜の庭園は、まるで秘密の舞台のように、静かで幻想的な雰囲気を醸し出していた。ジュリアンは、いつもよりゆっくりと歩き、リシェルの隣にぴったりと寄り添っていた。二人の影が、月明かりの下で一つに重なり合う。
リシェルは、ジュリアンのすぐ隣にいることに、胸が高鳴るのを感じていた。彼の吐息が、自分の耳元にかかる。そのたびに、全身が熱くなる。彼女は、彼の温かさ、彼の存在そのものが、自分にとってどれほど大切なものになっているかを、改めて実感した。
ジュリアンは、リシェルの顔を見た。月明かりに照らされた彼女の横顔は、いつも以上に美しく、そして愛おしかった。彼女の頬は、月明かりの下で、微かに赤く染まっているように見えた。彼の視線は、再び、リシェルの柔らかな唇へと引き寄せられる。その唇が、誘うかのように、かすかに光を帯びていた。
(今なら……今こそ、この衝動に従うべきではないのか……?)
ジュリアンの手が、無意識のうちに、リシェルの頬へと伸びかけた。彼の指先は、まるで吸い寄せられるかのように、彼女の柔らかな肌に近づいていく。リシェルもまた、その視線と、彼の手の動きに気づき、わずかに息をのんだ。彼女の瞳は、期待と不安で揺れ動き、その瞳の中には、月明かりが反射してキラキラと輝いていた。
しかし、その手が、リシェルの頬に触れる寸前で、ジュリアンはピタリと止まった。彼の理性は、まだ完全に崩壊してはいなかったのだ。彼の公爵としての自制心が、ギリギリのところで彼の本能を食い止めた。
「……夜風が、冷えてきたな。そろそろ、邸宅に戻るとしよう」
ジュリアンは、精一杯の平静を装って、そう呟いた。彼の声は、わずかに震えていた。リシェルは、その言葉に、わずかに肩を落とした。彼女は、彼がもう少し、近づいてくれることを期待していたのだ。しかし、彼の理性的な言葉に、彼女もまた、現実へと引き戻された。
二人の間には、口付けすらまだなのにと、互いの唇を意識し合う、初々しい、しかし甘く切ない時間が流れていた。彼らの恋は、確実に進展している。ただ、その一歩を踏み出す勇気が、まだ二人には少しだけ足りなかった。公爵邸の夜は、二人の甘酸っぱい想いを包み込み、静かに更けていった。
公爵邸の奥、使用人たちの間で、その夜の出来事はすでに共有されていた。彼らは、公爵夫妻の動向を、まるで劇場で上演される恋愛劇を見守るかのように、熱い眼差しで見守っていた。
夕食の片付けを終えたばかりの厨房では、料理長のベアトリスが、使用人たちに熱弁を振るっていた。
「今日の奥様と旦那様は、いつも以上にぎこちなかったわね! 特に、旦那様が奥様の唇ばかり見ていらっしゃったもの! ああ、私も思わず目を瞑ってしまったわ!」
皿を拭いていた若いメイドが、顔を赤くして同意する。
「本当に! 旦那様が奥様の手を引いて庭園に行かれた時は、もう心臓が止まるかと思いましたわ! 今夜こそ、何か進展があるのではと、ずっと期待していましたのに……!」
執事のセドリックは、書斎の戸締まりを確認しながら、深く息を吐いた。
「まあ、焦ることはありませんよ。公爵夫妻の愛は、ゆっくりと育っていくものですから。それに、進展が遅い方が、我々使用人にとっては、長くこの尊い光景を拝めるというものですからな」
彼の言葉に、使用人たちは皆、深く頷いた。彼らにとって、公爵夫妻の初々しい恋の進展は、日々の生活に彩りを与える、最高のエンターテイメントだった。
その頃、ノアは自室に戻り、ロウソクの明かりの下で、「奥様と旦那様ラブ進捗メモ」に、今日の出来事を詳細に書き込んでいた。彼のペンは、紙の上を勢いよく走り、その熱量が伝わってくるかのようだった。
「進捗状況:キス未遂レベル9! 庭園での接近遭遇、あと一歩だったッス! 旦那様、寸前で理性を取り戻すも、奥様への視線は熱烈ッス! これはもう、完全に両片想い確定ッス! 明日は、さらにロマンチックな朝食の演出を練るッス!」
彼は、時に自らの手を加え、二人の関係を進展させようと画策することもあった。彼の心の中では、公爵夫妻の恋愛物語が、壮大な叙事詩として描かれていた。公爵邸の厨房では、料理人たちが「明日の朝食は、もっと甘いデザートをつけようか? 愛の甘さを表現するのにぴったりだ!」と真剣に議論し、庭師たちは「庭園に、もっとロマンチックな花を植えよう! 特に、唇の色に似たバラを!」と、これまで以上に熱心に手入れをしていた。使用人たちは、公爵夫妻の「夜伽」という最終目標に向けて、それぞれの持ち場で全力を尽くしていた。公爵邸全体が、二人の初々しい恋を応援し、その進展を心待ちにしていた。
誰もが二人の初々しい恋を応援していた。しかし、肝心のジュリアンとリシェルは、ロゼリア夫人の言葉が脳裏に焼き付いて離れず、口付けすらまだなのにと、互いの唇を意識し続けていた。彼らの「両片想い」は、新たな、そして甘酸っぱい段階へと突入したのだった。このぎこちない、しかし甘やかな時間が、二人の関係をさらに深めていくことだろう。そして、使用人たちの熱い視線と応援が、彼らの背中をそっと押していることに、二人はまだ気づいていなかった。




