16.意識し合う唇
ロゼリア老公爵夫人のお茶会から数日が経った。ジュリアンの秘密の趣味が露見し、リシェルがそれを受け入れたことで、二人の間にはより深い信頼と愛情が芽生えていた。公爵邸での日常は、以前にも増して甘やかなものになっていたはずだった。しかし、あの時ロゼリア夫人が口にした「世継ぎ」という言葉は、まるで呪文のように二人の耳元でこだまし、ふとした瞬間に、互いをぎこちなくさせていた。その言葉は、二人の間に、それまで存在しなかった「次」の段階を明確に意識させていたのだ。
朝食のテーブルでは、淹れたての紅茶の香りが、微かに漂っていた。窓から差し込む朝日は、白金の食器に反射してキラキラと輝き、普段ならば穏やかな一日の始まりを告げるはずだった。リシェルがジュリアンのカップに紅茶を注ごうとすると、彼の指が、僅かに彼女の指に触れた。普段なら、ほんの些細な触れ合いに、リシェルは心臓を跳ねさせるだけだった。その瞬間的な動揺は、すぐに日常の風景に溶け込んでいく、取るに足らないものだった。しかし、その日は違った。指が触れた瞬間、ロゼリア夫人のにこやかな顔と、「もうじき、ヴァレリオ家に可愛い世継ぎが誕生するかしら?」という、どこか楽しげな声が、リシェルの頭の中に鮮明に響いた。その声は、彼女の脳内で何度も反響し、彼女の心をかき乱した。
(い、今、触れてしまった……! まさか、彼もあのことを……!?)
リシェルの顔は、みるみるうちに赤くなる。彼女の頬は熱を持ち、視線はどこに向けたら良いか分からず、彷徨った。ティーカップを持つ手が微かに震え、紅茶がカップの縁で波打った。ジュリアンもまた、リシェルの指の温もりに、あの言葉を思い出し、無表情を保とうとしながらも、耳まで真っ赤に染めていた。彼の完璧な公爵としての仮面は、この「世継ぎ」という話題の前では、脆くも崩れ去ってしまう。彼の視線は、無意識のうちに、リシェルの潤んだ唇へと向かってしまう。その唇が、どんな感触で、どんな甘さを持っているのか、彼の理性は制御しようとするが、本能がそれを許さない。彼の心臓は、まるで初めて恋をした少年ように激しく鼓動していた。
(く、口付けすら、まだなのに……)
リシェルは、ジュリアンの視線に気づき、自分の唇が熱を帯びるのを感じた。彼女の脳裏には、まだ見ぬ「口付け」の光景が、ぼんやりと浮かび上がる。それは甘く、しかし同時に恐ろしいほどに未知の領域だった。そして、自身の視線もまた、ジュリアンの引き締まった、しかしどこか甘やかな唇へと吸い寄せられていく。二人の間には、会話の代わりに、甘く重い沈黙が流れた。それは、紅茶の湯気のように、ゆっくりと、しかし確実に、二人の間を満たしていく。朝食の時間は、いつもよりずっと長く感じられた。
書斎で共に執務をこなす際も、その「呪縛」は二人を襲った。これまでのように、冷静に書類を交換したり、真剣な議論を交わしたりすることは、以前よりもずっと難しくなっていた。書斎の空気は、普段の知的な緊張感とは異なる、甘く重いものになっていた。
リシェルがジュリアンに資料を差し出す時、彼が資料を受け取るために伸ばした手が、彼女の指先にかする。その僅かな接触にも、二人の脳裏には、ロゼリア夫人の言葉がこだまする。その言葉は、彼らの日常のささやかな触れ合いに、これまでとは全く異なる意味を与えていた。まるで、触れるたびに、二人の間に見えない電気が走るかのようだった。
(まさか、この指が、やがて……いえ、いけない!)
リシェルは、自分の想像に慌てて頭を振った。彼女の思考は、あらぬ方向へと暴走しようとしていた。公爵夫人としての品格を保たねば、と必死に自分を律する。彼女は、目の前の資料に集中しようと、必死に視線を泳がせた。しかし、文字は頭に入ってこず、まるで意味のない記号の羅列のように見えた。
ジュリアンもまた、リシェルの指先が触れた瞬間に、強烈な意識が彼女の唇へと向かってしまう。
(ああ、なんという愛らしさだ。この唇が、私を……! いや、まだだ。まだその時ではない!)
彼は、自分の本能が、理性よりもはるかに強くリシェルを求めていることに気づき、戦慄した。彼の心臓は、まるで鍛冶場のハンマーのように激しく打ち鳴らされる。彼は、目の前の書類に意識を集中させようと必死だったが、その文字はまるで踊っているかのように見え、全く頭に入ってこない。ペンを握る手も、微かに震えていた。
ある夜、庭園を散歩していた二人は、不意に通り雨に降られた。夕暮れ時、空は突然暗くなり、大粒の雨が降り注ぎ始めた。庭園のバラの香りが、雨に濡れて一層強く漂ってくる。ジュリアンは、とっさに自分のマントを広げ、リシェルをその中に招き入れた。黒いマントの裏側は、二人の体を覆うように広がり、まるで小さな秘密の空間を作り出した。一つのマントの下、二人の距離はぐっと縮まる。リシェルの柔らかな髪が、ジュリアンの頬をかすかにくすぐる。雨音だけが、彼らの間に響いていた。しとしとと降る雨の音が、二人の間の沈黙を、より一層際立たせた。
(こんなに近くに……ジュリアン様の匂いが……)
リシェルは、ジュリアンの温かい体温に包まれながら、またしても、あの言葉を思い出した。彼のマントの中は、外の冷たい雨とは対照的に、まるで春の陽だまりのように温かかった。彼女の視線は、彼の硬く引き締まった胸元から、ゆっくりと上へと移動し、彼の顔が、すぐ目の前にあることに気づいた。その唇が、息をするたびに、かすかに動く。その動きに、リシェルは吸い寄せられるように、自分の唇に意識が集中するのを感じた。彼女の呼吸もまた、浅く、速くなっていた。
ジュリアンもまた、リシェルが腕の中にいることに、心臓が激しく脈打っていた。
(今なら……! いや、待て! まだだ! 早まるな、ジュリアン!)
彼の理性は、本能の叫びに、必死に抵抗していた。彼の視線は、リシェルの潤んだ唇から離れなかった。その唇が、どれほど甘く、そしてどれほど柔らかいのか、彼の想像力は暴走寸前だった。彼は、自分の顔が熱くなっているのを感じながら、深呼吸をしようと試みたが、深呼吸をするたびに、リシェルの甘い香りが彼の鼻腔をくすぐり、彼の理性をさらに揺さぶった。
「あ、雨が、止みましたわね……」
リシェルが、絞り出すような声で呟いた。彼女の顔は、雨粒のせいか、それとも照れからか、真っ赤に染まっていた。ジュリアンは、無言でマントをたたみ、二人きりの甘い空間は、あっけなく終わりを告げた。雨上がりの庭園は、清々しい空気で満たされていたが、二人の間には、まだ拭いきれない甘い緊張感が残っていた。その夜、二人とも、なかなか寝付くことができなかった。
そんな二人の初々しい様子は、公爵家の使用人たちにも筒抜けだった。彼らは、公爵夫妻の動向を、まるで劇場で上演される恋愛劇を見守るかのように、温かい眼差しで見守っていた。公爵邸の裏側では、公爵夫妻の「進捗状況」が、日々の最大の話題となっていた。
エミリアは、朝食の席での二人の様子を、マルグリットに淡々と報告した。彼女の顔には、どこか呆れたような、しかし優しい笑みが浮かんでいた。彼女は、長年ジュリアンに仕えてきたからこそ、彼の普段の完璧さと、リシェルを前にした時の動揺のギャップに、微笑ましさを隠せないでいた。
「奥様と旦那様、今日もまた、紅茶を淹れるだけで真っ赤になっていましたね。唇に視線が行きまくっていましたよ。見ていられないくらい初々しいです」
マルグリットは、その報告を聞いて、頬を抑えて興奮気味に答えた。彼女の目はキラキラと輝き、まるで自分のことのように喜んでいるようだった。ティーカップを置く音すらも、彼女の興奮を抑えきれないかのようだった。
「ああ、エミちゃん! もう、尊すぎて涙が止まらないわぁ! 早く、早く、進んでほしいわぁ! 私、お二人の幸せを、この目で見届けたいのよ! このままでは、私の心臓が持ちませんわ!」
彼女の言葉には、公爵夫妻への深い愛情と、二人の関係が早く進展してほしいという切なる願いが込められていた。
一方、執事のノアは、二人を遠くから見守りながら、手帳を取り出し、「奥様と旦那様ラブ進捗メモ」に、興奮しながら書き込んでいた。彼のペンは、紙の上を勢いよく走り、その熱量が伝わってくるかのようだった。彼は、公爵夫妻のあらゆる言動を、注意深く観察し、詳細に記録していた。
「進捗状況:キス未遂レベル8! 世継ぎトークは、効き目抜群ッス! この調子でいけば、年内には……いや、もしかしたら、もっと早く……! よし、明日の朝食は、もっと二人が近づけるように、テーブルの配置を少し変えてみようか……いや、それはやりすぎか……。しかし、このもどかしい光景を前に、何もしないわけにはいかない!」
彼は、時に自らの手を加え、二人の関係を進展させようと画策することもあった。彼の心の中では、公爵夫妻の恋愛物語が、壮大な叙事詩として描かれていた。公爵邸の厨房では、料理人たちが「今夜のメニューは、愛の進展に役立つものにしようか?」と真剣に議論し、庭師たちは「庭園に、もっとロマンチックな花を植えよう!」と、これまで以上に熱心に手入れをしていた。公爵邸全体が、二人の初々しい恋を応援し、その進展を心待ちにしていた。
誰もが二人の初々しい恋を応援していた。しかし、肝心のジュリアンとリシェルは、ロゼリア夫人の言葉が脳裏に焼き付いて離れず、口付けすらまだなのにと、互いの唇を意識し続けていた。彼らの「両片想い」は、新たな、そして甘酸っぱい段階へと突入したのだった。このぎこちない、しかし甘やかな時間が、二人の関係をさらに深めていくことだろう。そして、使用人たちの熱い視線と応援が、彼らの背中をそっと押していることに、二人はまだ気づいていなかった。




