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15.お茶会


 ジュリアンの秘密の趣味がバレて以来、リシェルは彼に対して一切の隠し事がなくなり、心の底から安心しきっていた。それまで心のどこかにあった、彼の完璧すぎる振る舞いに対するわずかな畏れや距離感が、彼の意外な一面を知ったことで、愛おしさに変わっていた。ジュリアンもまた、自身の秘密が露見したにもかかわらず、リシェルの無垢で温かい反応に心から喜びを感じ、二人の間には、以前にも増して甘やかな空気が流れていた。彼らは、互いの存在を深く理解し、尊重し合うことで、夫婦としての絆を一層強固なものにしていった。

 そんなある日、王都で最も高名な貴婦人の一人、ロゼリア・ド・ラ・ヴァリエール老公爵夫人から、公爵夫妻宛に丁重なお茶会の招待状が届いた。ロゼリア夫人は、かつて王妃の教育係も務めたという、社交界の重鎮であり、その人柄と識見は広く尊敬を集めていた。彼女の開く茶会に招かれることは、社交界における最高の栄誉の一つとされていた。


「ジュリアン様、ロゼリア様のお茶会に、わたくしたちがお招きいただけるなんて……」


 リシェルは、その名に恐縮しきりだった。彼女は、これまでの人生で多くの貴婦人たちと接してきたが、ロゼリア夫人のような「伝説」とも呼べる人物との対面に、並々ならぬ緊張を覚えていた。王妃の教育係という経歴を持つ人物の前で、自分が完璧な公爵夫人として振る舞えるだろうか、という不安が頭をよぎったのだ。

 ジュリアンは、リシェルの緊張を和らげるように、そっと彼女の背に手を添えた。彼の触れた部分から、温かい熱がじんわりと伝わり、リシェルの強張っていた体が少しずつ解れていくのを感じた。彼の穏やかな眼差しが、リシェルの不安な心を優しく包み込んだ。


「心配いらない、リシェル。ロゼリア夫人は、気難しい方ではない。ただ、少しばかり、好奇心がお旺盛なだけだ」


 ジュリアンの言葉に、リシェルは少しだけ安堵した。しかし、彼の言う「好奇心」が、どのような形で現れるのか、この時はまだ知る由もなかった。彼女は、ジュリアンの言葉の真意を深く考えることなく、ただ彼の温かい手に支えられ、不安を紛らわせていた。







 お茶会の当日、ロゼリア老公爵夫人の邸宅は、上品な貴婦人たちで賑わっていた。広大な庭園は、色とりどりの花々が咲き誇り、その香りが微かに風に乗って運ばれてくる。邸宅の中は、きらびやかなシャンデリアが輝き、優雅な立ち振る舞いの貴婦人たちが、豪華な衣装を纏い、和やかな会話を交わしている。その光景は、まるで一枚の絵画のようだった。

 リシェルは、ジュリアンの隣で、完璧な淑女として挨拶をこなしていた。彼女は、幼い頃から貴族の娘として厳しく教育されてきたため、社交の場における作法は身についていた。しかし、その内面では、この華やかな社交界の空気に、まだ慣れない部分があった。ジュリアンは、無表情ながらも、時折リシェルの方に視線を送り、彼女の様子を気遣っていた。彼の視線の先では、リシェルが、時折、自身の“男前な本性”を隠すために、微妙な表情の調整を行っているのが見て取れた。彼女は、ふと素の表情に戻りそうになるたび、慌てて口元に手を添えたり、視線を逸らしたりしていた。

 しばらくして、ロゼリア夫人が二人の元へと近づいてきた。白銀の髪を美しく結い上げ、上品な笑みを浮かべたロゼリア夫人は、その威厳ある佇まいとは裏腹に、親しみやすい雰囲気を持っていた。彼女の瞳は、全てを見透かすかのように鋭く、しかし同時に深い優しさを湛えていた。


「ヴァレリオ公爵、そしてリシェル殿。本日はよくおいでくださいました」


 ロゼリア夫人は、ジュリアンとリシェルに、それぞれ柔らかな眼差しを向けた。その視線は、彼らの内面まで見通しているかのような、深い洞察力を感じさせた。


「ロゼリア夫人、お招きいただき、光栄に存じます」


 ジュリアンが恭しく答えた。その声は、普段通り落ち着いており、彼の完璧な公爵としての姿は、ここでも健在だった。リシェルもまた、ジュリアンに倣い、淑女らしく微笑んだ。彼女の心臓はまだ緊張で早鐘を打っていたが、それを悟られないよう、努めて平静を装っていた。


「まあ、リシェル殿。あなたのご両親とは、旧知の仲でございますわ。あなたがこのように立派な公爵夫人となられて、わたくしも大変嬉しく存じます」


 ロゼリア夫人は、リシェルの手をそっと取り、優しい眼差しで彼女を見つめた。その手は、長年の経験と知恵を物語るかのように、温かく、そして力強かった。リシェルは、その温かさに、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。彼女の心が、ロゼリア夫人の言葉によって、少しずつ解きほぐされていくのを感じた。

 そして、その時だった。ロゼリア夫人が、二人の顔を交互に見ながら、にこやかに、しかし直球の質問を投げかけたのだ。その声は、優雅なティーカップの音すらもかき消すかのように、はっきりと響き渡った。


「それにしても、あなた方お二人は、本当に絵になる美しさですわね。結婚されて、もうどれくらい経ちましたかしら?  まさか、もうじき、ヴァレリオ家に可愛い世継ぎが誕生するという朗報が聞けるかしら?」


 ロゼリア夫人の言葉が、広い応接室に響き渡った。その瞬間、お茶会に集まっていた貴婦人たちの視線が、一斉にジュリアンとリシェルに集まった。その瞬間、リシェルとジュリアンは、同時に顔を真っ赤にした。

 リシェルは、自分の耳を疑った。世継ぎ。それはつまり、夫婦の夜の営みに他ならない。普段は冷静沈着で、どんな難しい研究の話題にも堂々と対応できる彼女も、この話題には対応しきれなかった。頭の中が真っ白になり、何も言葉が出てこない。彼女の思考回路は完全にフリーズし、顔から首筋までが赤く染まっていた。

 ジュリアンもまた、その完璧な無表情が、一瞬だけ揺らいだように見えた。彼の耳まで真っ赤に染まっているのが、リシェルの目にもはっきりと分かった。彼は、無言のまま、ロゼリア夫人の視線から逃れるように、わずかに顔を逸らした。彼の内心は、ロゼリア夫人のストレートな問いに、完全にノックアウトされていた。彼の中にいる「可愛いものが好き」な本性が、この想像外の直球に、激しく動揺していた。

 ロゼリア夫人は、二人のあまりの反応に、楽しそうにクスクスと笑った。その笑い声は、悪意のない、心からの楽しさを含んでいた。


「まあ、まあ、お二人とも、お初々しいこと!  わたくしとしたことが、少し踏み込みすぎましたかしらね」


 夫人は、そう言って、優雅に微笑んだ。周囲の貴婦人たちも、二人の初々しい反応を見て、微笑ましそうに顔を見合わせていた。中には、顔を赤くして目を伏せる者もいれば、扇子で口元を隠しながら、微笑ましい眼差しを向ける者もいた。彼らの反応は、決して嘲笑ではなく、純粋な祝福と、少しのからかいを含んだものだった。


(よ、夜伽なんて……まだ、そんなことは……!)


 リシェルは、ジュリアンの趣味がバレた時でさえ見せなかった、顔全体を真っ赤にするという反応を見せた。彼女の心臓は、まさに小動物のように激しく鳴り響いていた。体中が熱くなり、目の前が霞むような錯覚に陥った。彼女は、ジュリアンが隣にいてくれることが、今は唯一の救いだと感じていた。

 ジュリアンの内心も、阿鼻叫喚だった。


(はああ……! 世継ぎだと!?  リシェルと私の子ども……!  想像しただけで尊い……! しかし、今はまだ、その段階ではない……!  あまりにも刺激が強すぎる……!)


 彼の理性は、完全に崩壊寸前だった。彼の脳裏には、リシェルが小さなリスを抱いている光景がフラッシュバックし、さらなる混乱を招いていた。幼いリスのぬいぐるみを抱きしめるリシェルの姿と、そこに彼の血を引く小さな子供がいる想像が、彼の頭の中で混ざり合い、彼の感情をこれ以上ないほど掻き乱した。彼は、自分の顔が熱を持っているのを自覚し、周囲に見られないよう、必死に平静を装った。しかし、耳の赤みだけは、どうすることもできなかった。






 お茶会からの帰り道、公爵家の馬車の中は、異様ないほど静まり返っていた。先ほどのロゼリア夫人の一言が、二人の間に重くのしかかっていた。まるで、その言葉が馬車の中に充満し、二人の間の空気を凍らせているかのようだった。

 リシェルは、窓の外を眺めながら、心の中で「世継ぎ」「夜伽」という言葉がぐるぐると回っていた。これまで、夫婦としての生活は、互いの趣味や研究、そして公爵家としての役割を果たすことに重点を置いていた。しかし、ロゼリア夫人の言葉は、彼らの関係に新たな側面を突きつけたのだ。彼女は、自身の身体が、そして心が、その「夜伽」という行為を受け入れる準備ができているのか、漠然とした不安を感じていた。

 ジュリアンもまた、静かに座っているが、その耳の赤みが引かないことから、彼も同じことを考えているのが見て取れた。彼の無表情は、今や「可愛いもの好き」な本性が暴走するのを抑えるための、最後の砦だった。彼の瞳は、普段の冷静な光を失い、どこか遠くを見つめているようだった。彼の心の中では、ロゼリア夫人の言葉が、彼の感情を激しく揺さぶり続けていた。リシェルを「可愛いもの」として愛する気持ちと、彼女を妻として尊重する気持ち、そして未来への責任感が、複雑に絡み合っていた。

 公爵邸に戻ってからも、二人はどこかぎこちないままだった。普段ならば、書斎で研究について語り合ったり、執務の報告をしたりする時間だが、この日は、二人とも言葉少なだった。夕食の際も、いつもより会話が少なく、時折視線が合うと、互いに顔を赤くして逸らしてしまう。食卓には、重い沈黙が流れていた。

 その夜、リシェルは自室のベッドに潜り込んだ。心臓はまだドキドキと鳴っている。普段なら、ジュリアンが寝室を訪れることなどない。夫婦として、互いのプライベートな空間を尊重し合うという暗黙の了解があったからだ。しかし、今日ばかりは、もし彼が来たらどうしよう、と、漠然とした不安と、ほんのわずかな期待が入り混じっていた。彼女の脳裏には、ロゼリア夫人の言葉と、ジュリアンの赤い耳が繰り返し浮かんでいた。

 しかし、夜が更けても、ジュリアンの足音が聞こえることはなかった。リシェルは、安堵したような、少しだけ寂しいような気持ちで、そっと目を閉じた。彼女の心は、まだ「夜伽」という概念に戸惑いを隠せないでいたが、同時に、ジュリアンとの関係が、さらに一歩踏み出す日が来るのかもしれない、という微かな予感も抱いていた。

 一方、自室に戻ったジュリアンは、いつものように無表情で執務机に向かっていた。しかし、彼の手は、普段よりもわずかに震えている。彼の目の前には、未処理の書類が山積しているが、頭の中はリシェルとロゼリア夫人の言葉でいっぱいだった。


(世継ぎ……リシェルとの……)


 ジュリアンは、その尊すぎる想像に、深く息を吐いた。彼の理性は、彼の内に秘められた「可愛いもの好き」の本能と、公爵としての責任感の間で、激しく葛藤していた。リシェルと結ばれること、彼女との間に子どもを授かること。それは、彼にとって究極の「可愛いもの」であり、同時に、彼が最も大切にしたい未来だった。しかし、彼は、まだその段階ではないと、自分に言い聞かせていた。リシェルの心の準備、そして二人の関係がさらに深まるのを待つべきだと。

 完璧なスパダリ公爵と、子リス系令嬢。ようやく心の距離が縮まり始めたばかりの初々しい二人にとって、世継ぎの話題は、あまりにも刺激が強すぎたのだ。彼らの「夜伽」は、まだもう少し先のことになりそうだった。しかし、ロゼリア夫人の一言は、二人の間に、新たな意識と、未来への希望の種を蒔いたことは間違いない。二人の初々しい関係は、これからどのように進展していくのだろうか。

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