14.秘められた公爵の秘密
リシェルがジュリアンの前で素顔を見せるようになってから、公爵邸での二人の日常は、甘やかで温かいものに満ちていた。リシェルは、幼い頃から貴族のしきたりに縛られ、感情を表に出すことを禁じられてきた。しかし、ジュリアンという存在が、彼女の閉ざされた心の扉を少しずつ開いていった。ジュリアンは、リシェルの研究に対する真摯な姿勢と、知的好奇心に溢れた瞳に魅了され、彼女の情熱的な語り口にいつも耳を傾けていた。リシェルもまた、ジュリアンの穏やかで包み込むような優しさに触れ、彼が自分のありのままを受け入れてくれる唯一の存在だと感じていた。
公爵邸の書斎は、二人の秘密の場所になっていた。リシェルはそこで、借りていた歴史書を返したり、最新の研究成果をジュリアンに報告したりした。ジュリアンは、彼女の聡明さに深く感銘を受けていた。彼の「可愛いものが大好き」という秘密の趣味は、以前は誰にも知られずにひっそりと育まれてきたものだったが、リシェルの存在が、その愛の対象をより明確にしていた。彼女の知的な魅力、時折見せる無邪気な表情、そして何よりも、彼の隣で安心して過ごすリシェルの姿が、彼の心の奥底に眠っていた「可愛いもの」への愛を刺激し、その感情は日増しに募るばかりだった。
そんなある日の午後、リシェルはジュリアンの書斎を訪れた。ノックすると、ジュリアンは「入りたまえ」といつも通り穏やかな声で答えた。部屋に入ると、ジュリアンは執務机に向かって書類に目を通していた。彼の背後には、以前からリシェルが気になっていた、鍵のかかった大きな飾り棚があった。精巧な彫刻が施された重厚な扉は、いつもきっちりと施錠されており、中には何が入っているのか、リシェルは密かに想像を巡らせていた。公爵邸の調度品はどれも高価で貴重なものばかりだったが、あの飾り棚だけは、どこか秘密めいた雰囲気を纏っているように感じられたのだ。
リシェルは、借りていた分厚い歴史書を机の上に置いた。
「ジュリアン様、お借りしていた本を返却に参りました」
ジュリアンは顔を上げ、優しい眼差しでリシェルを見つめた。
「ありがとう、リシェル。読破したのか?」
「はい、大変興味深い内容でした。特に、古代文明の衰退と、それに伴う社会構造の変化に関する記述が、私の研究に新たな視点を与えてくれました」
リシェルは、目を輝かせながら研究について語り始めた。ジュリアンは、そんな彼女の様子を微笑ましく見守っていた。
その時、ジュリアンが席を立った。彼は、書斎の奥にある書棚から別の資料を取ろうとしたようだ。その拍子に、うっかり鍵をかけ忘れたのか、飾り棚の扉がわずかに開いているのがリシェルの目に入った。普段なら決して覗き見などしないリシェルだが、ジュリアンが背を向け、資料を探す一瞬の隙に、抗いがたい好奇心が彼女の心を支配した。
(少しだけなら……)
リシェルは、心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、そっと飾り棚に近づいた。指先でそっと扉の隙間を押し広げ、中を覗き込むと、そこには予想だにしない光景が広がっていた。ずらりと並んだ、可愛らしい動物のぬいぐるみの数々。ふわふわの毛並みを持つ子リス、つぶらな瞳のウサギ、そして、なぜかどれもこれも、リシェルが幼い頃から大切にしているものと同じ、栗色の毛並みを持つ小さなリスのぬいぐるみが、ひときわ多く並んでいたのだ。大きさも形も様々で、中には手作りのように素朴なものや、精巧な刺繍が施されたものまであった。
リシェルは、その光景に目を見開いた。彼女の脳裏に、以前エミリアが言っていた言葉が鮮明に蘇る。ジュリアンの侍女であるエミリアは、ある時、リシェルにこう耳打ちしたことがあったのだ。
「旦那様、あの顔で理性ギリギリですよ?」
「可愛いものが好きすぎて、いつも隠しているんですから」
その時は何のことか理解できなかったが、今、目の前の光景を見て、その言葉の意味がするすると腑に落ちた。
そして、もう一つ、合点がいったことがある。ジュリアンが時折、自分の動作や表情を見るたびに、わずかに瞳の奥をきらめかせていたこと。特に、リシェルが何かに夢中になっている時や、不意に笑みをこぼした時、彼の瞳は一層輝きを増すように感じていた。それら全てが、今、目の前の光景と完璧に繋がったのだ。
(まさか……ジュリアン様は、可愛いものがお好きだったなんて……しかも、リス……?)
リシェルは、自分の顔が熱くなるのを感じた。ジュリアンの完璧な無表情の下に隠された、あまりにも意外で、そして愛らしい秘密。それは、彼女にとって、予想外の、しかしこの上なく「尊い」発見だった。公爵という立場上、彼の抱える重責や、周囲の期待、そして何よりもその完璧な佇まいから、そのような「個人的な趣味」があるとは想像もしていなかったのだ。彼の内に秘められた、純粋で、そして愛おしい感情が、まるでそこにあるぬいぐるみの毛並みのように、温かくリシェルの心を包み込んだ。
その時、ジュリアンが振り返った。彼は資料を見つけ、再び執務机に戻ろうとしていたのだ。リシェルは慌てて飾り棚から顔を離そうとしたが、時すでに遅し。彼の瞳は、わずかに開いた飾り棚の扉と、その中を覗き込んでいたリシェルを確かに捉えた。
「リシェル……何を、している?」
ジュリアンの声は、普段よりもわずかに焦りの色が混じっていた。彼の頬が、うっすらと赤みを帯びているように見えるのは、リシェルの気のせいではないだろう。完璧な公爵が、初めて見せる動揺。その動揺は、彼の顔に、まるで幼い子供のような純粋な赤みを差していた。
リシェルは、顔を真っ赤にしながら、もごもごと言葉を濁した。
「あ、あの……その、飾り棚の扉が、少し開いていましたので……つい、その……」
彼女の視線は、飾り棚の中の、ひときわ目を引く栗色のリスのぬいぐるみに釘付けだった。ジュリアンは、その視線を追うように飾り棚へと目を向けた。そして、自分の鍵のかけ忘れに気が付き、内心で深く後悔した。
(しまった……! 最高の『可愛いもの』に、私の秘密がバレてしまった……! これでは、子リスが逃げてしまう……!)
ジュリアンの内心は、絶望と羞恥で渦巻いていた。彼は、可愛いものが好きだという自分の趣味を、誰にも知られたくなかった。特に、リシェルには。幼い頃から、完璧な公爵として振る舞うことを求められてきた彼は、自分の内面にある「可愛いものへの愛」が、弱さとして見られるのではないかと恐れていた。可愛いものが好きだと知られれば、今まで出会ってきた可愛いもの全てが、彼の前から逃げていったように、リシェルもまた、彼から離れていってしまうのではないかと、彼は心底恐れていたのだ。
彼は、ゆっくりと飾り棚の扉を閉めようとした。しかし、リシェルが、その動きを制した。彼女は、ジュリアンの手を取るように、そっと扉に触れた。
「ジュリアン様……」
リシェルは、潤んだ瞳でジュリアンを見上げた。その瞳は、羞恥や戸惑いではなく、まるで宝石を見つけたかのように輝いていた。そして、次の瞬間、ジュリアンの予想をはるかに超える言葉を発した。
「ジュリアン様、可愛いものが、お好きだったのですね……? 特に、リスが」
リシェルの声は、からかうような響きではなく、まるで、宝物を見つけた子供のような、純粋な好奇心と、そして愛おしさに満ちていた。彼女は、飾り棚の中のリスのぬいぐるみたちを、優しい眼差しで見つめていた。まるで、自分自身もそのぬいぐるみの可愛さに魅せられているかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。
ジュリアンは、リシェルの言葉に、凍りついたように固まった。彼の頭の中では、「逃げられる」という過去の経験がフラッシュバックしていた。これまでの人生で、彼の秘密の趣味を知った人々は、皆一様に嘲笑するか、不気味がって遠ざかっていった。だからこそ、彼はこの秘密を誰にも明かさずに生きてきたのだ。しかし、目の前のリシェルは、逃げるどころか、彼の趣味を受け入れようとしている。それどころか、心底喜んでいるかのような表情を浮かべている。
「……君は、引かないのか?」
ジュリアンの問いかけに、リシェルは、顔を真っ赤にしながら、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、彼にとって、何よりも尊く、そして愛おしいものだった。
「いいえ。むしろ、ジュリアン様が、こんなに愛らしいご趣味をお持ちだったなんて……私、なんだか、とても嬉しいですわ」
リシェルの言葉は、ジュリアンの心に、温かい光を灯した。彼が最も恐れていた「拒絶」ではなく、「喜び」の言葉だったのだ。それは、凍り付いた心を溶かす、優しい陽だまりのような温かさだった。ジュリアンは、自分の趣味を肯定されたことに、そしてそれが、最も愛するリシェルからの言葉であったことに、深い感動を覚えていた。彼は、彼女の言葉が、自分の存在そのものを肯定してくれているように感じた。
(はああ……なんて、優しい……! そして、この表情……尊すぎる……!)
ジュリアンは、理性の一線を完全に超え、リシェルを抱きしめたい衝動に駆られた。彼の心臓は激しく鼓動し、長年抑え込んできた感情が、まるで奔流のように溢れ出そうとしていた。彼は、無表情のまま、飾り棚の扉を完全に閉めた。そして、リシェルに向き直ると、その大きな手で、彼女の小さな手をそっと包み込んだ。彼の指先は、僅かに震えていた。
「リシェル……」
彼の声は、わずかに震えていた。その視線は、愛おしさと、そして今まで隠してきた秘密が露わになったことへの照れが混じり合っていた。リシェルの手は、彼の温かい掌の中で、まるで小さな鳥のように震えていた。しかし、それは恐怖の震えではなく、喜びと、そして新たな発見への興奮から来る震えだった。
リシェルは、ジュリアンの手の中で、自分の指が絡め取られるのを感じた。彼の視線は、普段の冷静さからは想像もつかないほど、情熱と愛情に満ちていた。彼女は、その視線に吸い込まれるように、彼の瞳を見つめ返した。
「ジュリアン様……」
リシェルの声も、また、わずかに震えていた。彼女は、彼の秘密を知ったことで、ジュリアンという人間が、より一層愛おしく、そして魅力的な存在に思えた。完璧な公爵の、人間らしい一面に触れることができた喜びが、彼女の胸に満ちていた。
ジュリアンは、包み込んだリシェルの手を、そっと口元に運び、優しく唇を落とした。それは、感謝と、そして深い愛情を示す、彼なりの精一杯の表現だった。リシェルは、その温かい感触に、目を閉じた。
こうして、ジュリアンの長年の秘密が、最も愛する妻に知られることとなった。しかし、それは彼が恐れていた破滅ではなく、二人の絆をさらに深くする、甘やかな瞬間となったのだ。飾り棚に閉じ込められていた「可愛いもの」への愛は、リシェルの存在によって、ついに解き放たれた。それは、二人の間に新たな扉を開き、互いの理解を深め、より一層強く結びつくきっかけとなった。公爵邸の書斎は、もはや単なる執務の場ではなく、二人の愛が育まれ、秘密が分かち合われる、かけがえのない場所となったのだった。




