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13.解き放たれた【素】


 シャルロッテの妨害が完全に打ち砕かれたあの日以来、ヴァレリオ公爵邸の空気は、以前にも増して穏やかで温かいものに変わっていた。まるで長らく張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んだかのようだった。ジュリアンがリシェルの手を取ったまま、彼女を自室へと促した瞬間から、二人の関係は新たな局面へと突入していた。


「リシェル、話がある」


 ジュリアンの声は、いつになく真剣だった。普段の彼からは想像できないほど、その声には感情がこもっていた。リシェルは、その言葉にドキリとしながらも、素直に彼についていった。ジュリアンの私室は、彼の性格を表すかのように整然としており、重厚な家具が並んでいた。部屋に入ると、ジュリアンは彼女をソファに座らせ、自分は向かい側に腰掛けた。彼の視線は、リシェルから片時も離れなかった。


「君は、私が君の『素』の姿を嫌うと、そう思っていたのか?」


 ジュリアンの問いかけに、リシェルは顔を赤らめたまま、俯いた。彼の真っ直ぐな言葉が、彼女の心の奥底に隠していた不安を、そのまま暴き立てたかのようだった。


「わ、私は……その、伯爵家では、あまりに男前な性格が問題視され……。淑女としてあるまじき行動ばかりで、いつも叱られていました。ジュリアン様も、きっと淑女らしい、完璧な女性がお好みだろうと……そう思っていました」


 声が震える。リシェルは、今にも泣き出しそうな表情で、言葉を続けた。彼女の心の中には、長年抱えてきたコンプレックスが、重くのしかかっていた。


「慈善晩餐会でも、あんな失態を……。公爵夫人があんな行動をするなんて、きっと、私に幻滅されたと……深く反省していました。公爵様のお顔に泥を塗ってしまったと……」


 ジュリアンは、リシェルの言葉を遮るように、静かに、しかしはっきりと告げた。彼の声は、まるで彼女の心に染み渡るような、温かい響きを持っていた。


「私は、君のあの勇敢な行動に、心底感動した。私にはできない、君だからこそできた行動だ。そして、君が普段隠している『強さ』と『聡明さ』に、今まで以上に惹かれている。君の行動力と、知識への探求心は、私にとって何よりも輝かしいものだ」


 彼の言葉は、リシェルの心に、じんわりと温かい光を灯した。彼女の心の中に凝り固まっていた不安や恐れが、まるで雪のように溶けていくのを感じた。顔を上げると、ジュリアンの漆黒の瞳が、真っすぐに彼女を見つめていた。そこには、一切の偽りも、打算もなかった。ただ、純粋な、そして深い愛情だけが宿っている。彼の視線は、彼女の心の奥底までを見透かし、その全てを受け入れているかのように見えた。


「私は、君の完璧な淑女の姿も愛おしいと思っている。その努力を、私は知っている。だが、その仮面の下にある、君本来の強くて、聡明で、そして何よりも愛らしい君の『素』の姿をこそ、私は知りたい。その全てを、私は愛している。君が、私に対して偽る必要など、何もないのだ」


 ジュリアンの言葉に、リシェルの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。それは、不安や諦めからくる涙ではなく、安堵と、そして深い喜びからくる涙だった。長年押し殺してきた感情が、今、溢れ出すかのように流れ落ちた。


「ジュリアン様……!」


 リシェルは、感情のままに、思わず立ち上がり、ジュリアンの胸に飛び込んだ。彼の体からは、温かく、そして安心できる香りがする。彼の腕の中に包まれると、リシェルは、ようやく心の底から安堵することができた。ジュリアンは、突然の抱擁に一瞬だけ固まったが、すぐにその小さな体を優しく抱きしめ返した。彼の無表情の仮面は、この瞬間だけは、完全に剥がれ落ちていた。その顔には、隠しきれないほどの幸福感と、愛おしさが浮かんでいた。


(はああ……なんて、愛らしい……! このまま、一生離したくない……! 君が、こんなにも私を求めてくれていたとは……!)


 ジュリアンの内心は、尊さで爆発寸前だった。彼は、リシェルの柔らかな髪をそっと撫でた。彼女の背中を優しくさすりながら、彼の心は、今まで感じたことのないほどの満たされた感情に包まれていた。




 その日から、リシェルは、少しずつジュリアンの前で「素の自分」を見せるようになった。それは、長年彼女を縛っていた「完璧な淑女」という仮面を、ゆっくりと剥がしていく過程だった。

 朝食の際、うっかりスープをこぼしそうになって「危ないっ!」と叫んでしまったり、庭園を散歩中に珍しい植物を見つけては、その生態について熱心に語り始めたり。もはや、彼女が“おしとやか令嬢”を演じる必要はどこにもなかった。ジュリアンは、そんな彼女の姿を見るたびに、心の中で密かに歓喜していた。彼の瞳の奥には、以前よりもずっと柔らかく、そして温かい光が宿るようになった。リシェルが、素の自分を出すたびに、彼の「可愛いものが大好き」という秘めたる感情は、さらに刺激され、彼女への愛おしさは募るばかりだった。

 ある日の午後、リシェルは書斎で難解な歴史書を読んでいた。普段は淑女らしく、背筋を伸ばして読書をする彼女が、その日は、眉間にシワを寄せ、真剣な表情で論文と格闘していた。その隣には、開かれたままの古地図と、書き込みがされたメモが散乱している。彼女の集中力は、周囲の音も時間も忘れさせるほどだった。そこへ、ジュリアンがコーヒーを淹れて持ってきてくれた。温かいコーヒーの香りが、書斎にふわりと広がる。


「奥様、お疲れのようですね。もしよろしければ、私もご一緒しましょうか?  その論文は、ヴァレリオ家の歴史に関するものでしょうか」


 リシェルは、慌てて本を閉じようとしたが、ジュリアンはそれを制した。彼の指先が、そっと本の表紙に触れた。


「構わない。むしろ、君が何に夢中になっているのか、教えてほしい。君の知的な探求心は、私にとって何よりも興味深いものだ」


 リシェルは、少し照れながらも、最近研究している歴史の謎について、ジュリアンに熱弁を振るい始めた。彼女の言葉は、普段の淑女らしさとはかけ離れた、理論的で、しかし情熱に満ちたものだった。時には身振り手振りを交え、声のトーンも高くなる。ジュリアンは、その話に真剣に耳を傾け、時には質問を挟みながら、リシェルの知識の深さに感嘆していた。彼の瞳は、彼女の言葉の一語一句を吸収するかのように、真剣に見つめていた。


(リシェル……やはり、君は、私の理想だ。完璧な淑女の仮面を剥がした君は、こんなにも生き生きとして、私の心を魅了する。君の知的好奇心、その情熱……全てが、私の心を揺さぶる)


 ジュリアンは、目の前で生き生きと語るリシェルの姿に、心の底から幸福を感じていた。彼の無表情の顔には、ごくわずかだが、満足げな笑みが浮かんでいた。その笑みは、リシェルにしか見つけることのできない、彼からの特別な愛情表現だった。


 二人の間には、以前にも増して甘く、そして温かい空気が流れるようになった。公爵邸の使用人たちは、その変化を肌で感じ、温かく見守っていた。






 雨の日の午後。しとしとと降り続く雨の音だけが、書斎の窓を叩いている。リシェルは、ジュリアンの書斎で、彼と一緒に紅茶を淹れていた。以前なら、ジュリアンが淹れたものを出されるだけだったが、今では、リシェルが自ら茶葉を選び、ジュリアンの隣で丁寧に紅茶を淹れるようになった。彼女の淹れる紅茶は、ジュリアンにとって、何よりも心が安らぐ一杯だった。


「ジュリアン様、この茶葉は、少し渋みが強いですが、後味がすっきりとしていて、気分転換にぴったりですわ。雨の日に、集中して作業をされる時などに、いかがでしょうか?」


 リシェルは、淹れたての紅茶をジュリアンに差し出した。湯気から立ち上る芳醇な香りが、書斎を満たす。ジュリアンは、香りを楽しみながら一口飲むと、静かに頷いた。


「ああ、素晴らしい。君が淹れてくれた紅茶は、いつも格別だ。君の心遣いが、私にとって何よりも嬉しい」


 ジュリアンの言葉に、リシェルは顔を赤らめた。以前の彼女なら、完璧な淑女として「恐縮ですわ」と答えていただろう。しかし、今の彼女は、素直な気持ちを口にした。彼女の心は、ジュリアンの言葉一つ一つに、素直に反応するようになっていた。


「……ジュリアン様も、少しは甘いものがお好きかしら?  このクッキー、料理長が新作だと言ってましたわ」


 リシェルは、そう言って、ティーセットに添えられていた小さなクッキーを一つ、ジュリアンのカップの縁にそっと置いた。その指先が、わずかに震えている。ジュリアンは、その行動に、一瞬だけ目を見開いた。彼女の控えめな気遣いが、彼の心を激しく揺さぶったのだ。


(はああ……なんて、可愛らしい……! この子リスめ……! 私の心を、どこまで魅了すれば気が済むのだ……!)


 ジュリアンは、クッキーをそっと口に運び、ゆっくりと味わった。そのクッキーは、普段よりも何倍も甘く、そして温かく感じられた。


「ああ……とても美味しい。君の心遣いが、一番の甘みだ。これほどまでに心を込めて淹れてくれた紅茶と、添えられたクッキーは、まさに至福の味わいだ」


 ジュリアンの言葉に、リシェルはさらに顔を赤くし、俯いてしまった。そんな彼女の様子に、ジュリアンは、心の奥底で、愛おしさに悶絶していた。彼の心は、彼女の可愛らしさで満たされ、このままずっと、この甘やかな時間を過ごしたいと願っていた。

 公爵邸の庭園では、トーマが二人を遠くから見守っていた。彼の顔には、優しい笑みが浮かんでいる。


「……奥様は、太陽の下で、ようやく自分を咲かせ始めたようだ。旦那様も、隣で穏やかに根を張っていくことだろう。二人の関係は、まるでこの庭園の木々のように、深く根を張り、大きく育っていくのだな」


 レオンは、遠くから二人の様子を見て、満足げに頷いていた。彼の胸には、自身の「キューピッド作戦」が成功したことへの、確かな喜びが満ちていた。


「まったく、奥様と公爵様は、お互いに不器用で可愛らしいですな。いやあ、私のキューピッド作戦も、なかなかのものでしょう?  もちろん、これは誰にも言えませんがね!」


 彼は、自画自賛しながら、公爵邸の片隅で、一人ニヤニヤしていた。彼の視線の先では、ジュリアンとリシェルが、穏やかな時間を過ごしていた。

 一方、シャルロッテは、その日以来、公爵邸に姿を見せなくなった。ジュリアンの前での完全なる敗北は、彼女のプライドを粉々に打ち砕いたのだ。彼女は、二度とヴァレリオ公爵邸の門をくぐることはないだろうと、誰もが思っていた。しかし、彼女が再び現れる日が来るのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。だが、少なくとも、今はジュリアンとリシェルの間に、誰にも邪魔されない、穏やかな愛が育まれていた。

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