12.募る想いの再会
北部領地での公務を終え、ジュリアンがヴァレリオ公爵邸へと戻る日が来た。王都を離れていた数日間、彼の頭の中には、常にリシェルの姿があった。厳格な公務に集中すべき時も、報告書に目を通している間も、彼の思考の片隅には、あの柔らかな栗色の髪と、時折見せる真剣な眼差しがちらついていた。特に、慈善晩餐会で花瓶を支えた時の、あの真剣な眼差しと、その後のほんのわずかな動揺。そして、レオンからの報告は、彼の心を熱くさせた。リシェルが、彼の不在中に、自らの意志で図書館へ足を運び、知的好奇心を満たしていたと聞いた時、彼の胸は、誇らしさと、そして抑えきれない愛おしさで満たされたのだ。
(リシェル……私のいない間、君はどんな顔をしていたのだろうか。寂しそうにしていたのか、それとも、私がいなくても、君らしく、活き活きと過ごしていたのだろうか)
馬車が王都の市街地を抜け、公爵邸の門をくぐると、ジュリアンは窓の外に目をやった。いつもと変わらない、静かで威厳あるヴァレリオ公爵邸。手入れの行き届いた庭園の木々が、彼の帰りを迎えるかのように、風に揺れていた。だが、彼の心は、いつになく高鳴っていた。彼の「可愛いものが大好き」という秘めたる感情が、リシェルへの募る想いと混ざり合い、彼の胸中で渦巻いている。理性では抑えきれない衝動が、彼の全身を駆け巡っていた。
馬車が正面玄関に止まり、扉が開くと、セドリックを筆頭に使用人たちがずらりと並んでジュリアンを迎えた。彼らは、皆、主の無事な帰還を心から喜んでいた。その中に、見慣れた柔らかな栗色の髪と、丸い瞳のリシェルが立っていた。彼女の白い頬は、僅かに赤みを帯びている。その瞳は、期待と不安、そして喜びがないまぜになったような光を宿していた。
「ジュリアン様、おかえりなさいませ」
リシェルは、完璧な淑女の作法で、深々と頭を下げた。その姿は、絵に描いたように優雅で美しかった。しかし、その声には、ジュリアンの耳にはっきりと届く、微かな震えが含まれていた。その震えは、彼女が感情を抑えきれないでいる証拠だった。ジュリアンは、リシェルの顔を見た途端、無表情の仮面の下で、大きな衝撃を受けた。彼女の瞳の奥に、今までにはなかった、切なく、そして熱い光が宿っているのが見て取れたのだ。それは、ジュリアンがこの数日間感じていた「恋」と酷似していた。彼の胸は、これまで経験したことのないほど激しく高鳴っていた。
「ただいま、リシェル」
ジュリアンは、普段と変わらぬ声で答えたが、その内心では(はああ……なんて美しい……! そして、この胸の高鳴りは、一体……! リシェル、君は、私のいない間に、こんなにも……)と、理性と感情のせめぎ合いに苦しんでいた。彼の無表情の裏で、喜びと戸惑いが激しく渦巻いていた。彼は、無意識のうちに、リシェルの方へ一歩足を踏み出していた。その一歩は、彼の理性の壁を越え、彼女への強い引力を示していた。
二人が屋敷の中へ進むと、使用人たちが順に挨拶を述べた。彼らは、ジュリアンとリシェルの間に流れる、特別な空気を敏感に察知していた。マルグリットは、涙ぐみながら「奥様も、旦那様のご帰還を心待ちにしていらっしゃいましたのよぉ! 毎晩、旦那様のお部屋の灯りが消えるのを見て、寂しそうになさっていましたわ!」と、心の中で叫んでいた。エミリアは、ジュリアンとリシェルの間に流れる、以前よりも濃厚な空気に気づき、「ようやくですか。公爵様も奥様も、随分と遠回りされましたわね」と、淡々と観察日誌に書き加える準備をしていた。セドリックは、二人の間に漂う温かい雰囲気に、わずかに口元を緩ませた。
ジュリアンの帰還は、シャルロッテにとっても一大事だった。彼女は、ジュリアンが不在の間、公爵家での自身の立場を固めようとあらゆる手を尽くしたが、使用人たちの反応は芳しいものではなかった。彼らは、シャルロッテの表面的な振る舞いよりも、リシェルの真摯な人柄にすでに心を開いていたのだ。そして、何より、ジュリアンがリシェルへの想いを深めていることを、彼女は本能的に察知していた。その予感は、彼女の心を激しく揺さぶり、焦燥感に駆り立てていた。
公爵邸の応接室。ジュリアンが帰還の挨拶を済ませて間もない頃、シャルロッテは早速、彼を訪れた。彼女は、ジュリアンの隣に立つリシェルを一瞥し、その表情に隠しきれない嫉妬の色を浮かべた。
「ジュリアン様、長旅、本当にお疲れ様でございました。王都にいらっしゃらない間、わたくしがリシェル様の寂しさを紛らわして差し上げましたわ。お茶をお淹れしたり、お話相手になったり……奥様も、きっとお喜びになったことでしょう」
シャルロッテは、ジュリアンの前で、リシェルを「世話の焼ける存在」であるかのように印象付けようと画策した。そして、自分がその「世話」を焼いた、献身的な女性であるとアピールしたかったのだ。彼女は、ジュリアンが不在の間、自分が公爵邸の女主人としての役目を果たしたと信じ込もうとしていた。彼女の声は、甘く、しかしその裏には、明確な計算が見え隠れしていた。
しかし、ジュリアンは、シャルロッテの言葉に何の反応も示さなかった。彼の視線は、シャルロッテではなく、その隣に立つリシェルに向けられていた。リシェルの頬に浮かぶ微かな赤み、そして瞳の奥に宿る熱い光。それが、ジュリアンの心を捕らえて離さなかった。
(寂しさ……? リシェルは、私の不在中も、彼女らしく、活き活きと過ごしていた。レオンからの報告で、図書館へ行ったと聞いている。彼女は、むしろ私の不在を楽しんでいたのかもしれない。君の言葉は、リシェルの真の姿とかけ離れている)
ジュリアンは、シャルロッテの言葉が、リシェルの真の姿とかけ離れていることを知っていた。そのことが、かえって彼の中で、リシェルへの愛おしさを募らせるばかりだった。シャルロッテの言葉は、まるで彼の心を刺激し、リシェルへの想いをより強固にするかのように作用した。
焦りを感じたシャルロッテは、さらに言葉を続けた。彼女の表情は、焦燥感でわずかに歪んでいた。
「公爵様、先日、リシェルが騎士団長のレオン様と二人きりで王都の図書館へ行かれたそうですわ。わたくし、リシェルが女性として、あまりにも無防備な行動を取ることに、大変心を痛めておりますの。やはり、女性はもっと慎ましく、ご自身の立場を弁えるべきではございませんか? そのような行動は、ヴァレリオ公爵家の名誉を傷つけかねませんわ」
シャルロッテは、リシェルとレオンの行動を、ジュリアンへの密告の材料として使おうとした。彼女は、リシェルの「はしたない」一面をジュリアンに知らしめ、幻滅させることが目的だった。彼女は、ジュリアンが「完璧な淑女」を求める男だと信じて疑わなかった。
その言葉を聞いた瞬間、リシェルは全身が凍りついた。顔から血の気が引き、ジュリアンの方を見ることができない。慈善晩餐会での失態に続き、今度はレオンと二人で出かけたことを知られてしまった。これで、ジュリアンに嫌われてしまう――リシェルの心は絶望に沈んだ。彼女の脳裏には、ジュリアンが冷たく自分を突き放す光景が、鮮やかに描かれた。
しかし、ジュリアンの反応は、リシェルの予想とは全く異なるものだった。
ジュリアンは、シャルロッテの方へゆっくりと顔を向けた。その無表情の瞳は、まるで氷のように冷たく、シャルロッテを射抜いた。彼の口元は微動だにしないが、その眼差しには、明確な怒りの感情が宿っていた。
「シャルロッテ嬢。リシェルが自らの知的好奇心を満たすことを、何故君が咎める必要があるのか? 私の妻が、己の知識を深めることの、一体何が問題だというのだ」
ジュリアンの声は、低く、しかし明確な響きを持っていた。そこには、一切の感情の揺れがなく、ただひたすらに、シャルロッテの言葉を否定する響きだけがあった。彼の言葉は、シャルロッテの胸に、重くのしかかった。
「リシェルは、ヴァレリオ家の女主人として、そして私の妻として、必要な教養と知識を深める努力を怠っていない。むしろ、その聡明さにこそ、私は魅力を感じている。彼女の探求心は、この公爵家にとって、何よりも価値あるものだ」
ジュリアンの言葉は、シャルロッテの心臓に、鋭いナイフのように突き刺さった。彼女が、リシェルの欠点として強調しようとした「聡明さ」こそが、ジュリアンが最も評価している点だったのだ。彼女の計算は、完全に裏目に出ていた。
「そして、レオン騎士団長は、私の信頼する忠臣であり、リシェルの護衛として適任だ。彼の任務は、私の妻をあらゆる危険から守ることだ。君が、私の妻と騎士団長の行動を、勝手に詮索し、不必要な言いがかりをつける権利はどこにもない。二度と、私の妻を侮辱するような真似は許さない」
ジュリアンの言葉は、まさに最後の宣告だった。シャルロッテの顔は、驚愕と絶望に歪んだ。彼女の全ての妨害工作は、ジュリアンの前で、完璧に粉砕されたのだ。彼女は、ジュリアンの冷たい視線に耐えきれず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。彼女のプライドは、粉々に打ち砕かれた。
リシェルは、ジュリアンの言葉に、目を見開いた。彼が、自分の「素」を、これほどまでに肯定してくれるとは。そして、自分への想いを、はっきりと示してくれたのだ。彼女の心は、歓喜で震えていた。リシェルの瞳からは、知らず知らずのうちに、一筋の涙がこぼれ落ちていた。それは、安堵と、そして深い愛情の涙だった。
ジュリアンは、冷たくシャルロッテを見据えた後、リシェルの方へと向き直った。そして、その無表情の瞳の奥に、今までになく甘い光を宿らせ、リシェルの手を取り、そっと握りしめた。彼の表情は、シャルロッテに向けられたものとは打って変わり、優しさと、そして深い愛に満ちていた。
「さあ、リシェル。行こう。君と二人で、これからのヴァレリオ家を築いていこう」
彼の指先は、温かく、そして力強かった。リシェルは、顔を真っ赤にしながらも、ジュリアンの手の中で、そのぬくもりを噛み締めていた。彼女は、もう、自分の「素」を隠す必要がないのだと、初めて心から思えた。彼が、彼女の全てを受け入れてくれたのだから。公爵邸に、ようやく真の春が訪れたようだった。
 




