11.離れて気付く想い
ヴァレリオ公爵邸の朝は、いつも静謐でありながらもどこか温もりに満ちていた。石畳を歩く靴音、遠くから聞こえる庭師の鋏の音、使用人たちが交わす低い声。それらの音が一日の始まりを告げる中、リシェルは控えの間で朝食の準備を待っていた。ジュリアンが北部領地へと旅立って数日。ヴァレリオ公爵邸は、いつもの完璧な秩序を保ちながらも、どこか静けさに包まれていた。その静寂は、リシェルの心にも、微かな波紋を広げていた。
リシェルは、女主人としての務めをこなしながら、時折、無意識に空いた隣の空間に目をやる自分がいることに気づいていた。ジュリアンがいつも座っていた席、彼が書類を読んでいた書斎の椅子、そして、夜、彼が隣にいたベッド。それらの空間が、ぽっかりと穴が空いたように感じられた。
最初は、ジュリアンがいないことで、肩の荷が下りたような感覚があった。完璧な淑女を演じる重圧から解放され、レオンと図書館へ出かけたり、公爵家の広大な庭園で、思う存分論文を読んだりすることができた。彼女は、久しぶりに心の底から開放感を味わっていた。侍女のエミリアも「お嬢様、楽しそうですね」と、普段よりはるかに優しい声で言ったほどだ。リシェルは、自分の“男前な本性”を隠す必要がない開放感を、確かに感じていた。図書館では、目を輝かせながら分厚い学術書を読みふけり、時にはレオンと議論を交わすこともあった。庭園では、泥だらけになるのも厭わず、珍しい植物の観察に没頭した。そうした自由な時間は、彼女にとって、まさに至福のひとときだった。
しかし、昼が終わり、夜になると、その静けさが、妙に心に響くようになった。ジュリアンが書斎で作業しているわずかな物音も、彼が廊下を歩く静かな足音も、今はもう聞こえない。広大な公爵邸が、以前よりもずっと広く、そして寂しく感じられた。湯冷めしないよう、ベッドサイドに置かれた温かいミルクも、ジュリアンがいないと、なぜか味が薄く感じられた。彼の存在が、いかに自身の日常に深く溶け込んでいたのかを、リシェルは痛感し始めていた。それは、まるで空気のように当たり前だったものが、失われて初めて、その重要性に気づくような感覚だった。
ある夜、リシェルは自室の窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭園を見下ろしていた。静かに降り注ぐ月の光が、彼女の顔を青白く照らしていた。あの雨の日の温室での出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。花瓶を支えた自分の腕を、ジュリアンがそっと支えてくれた時の温もり。そして、彼の無表情な顔の奥に宿っていた、あの熱い視線。彼の指先の感触、そして彼の眼差しが、まるで幻のように蘇ってきた。
(私、あの時、彼の前で醜態を晒してしまったのに……なぜ、彼はあんな目を……。淑女としてはあるまじき行動だったはずなのに)
リシェルは、慈善晩餐会での自分の行動を思い出し、顔が熱くなった。公爵夫人として、あの場では完璧な淑女として振る舞うべきだったのに、感情に任せて動いてしまった。それは、彼女が最も隠したいと願っていた、「完璧ではない」自分の一面だった。しかし、ジュリアンは、そんな自分を咎めるどころか、むしろ心配してくれた。そして、その後も、彼の無表情の裏に、以前よりも優しい眼差しを感じるようになったのだ。
「……まさか」
リシェルは、小さく呟いた。もしや、ジュリアンは、「完璧な淑女」としての自分ではなく、あの「男前な本性」を垣間見た私を……。心が、ざわめいた。胸の奥から、温かく、しかし切ない感情が込み上げてくる。それは、今まで感じたことのない、甘く、そして少しだけ胸が締め付けられるような感覚だった。ジュリアンが、自分の不完全な部分、隠したいと思っていた部分さえも受け入れてくれているのかもしれないという、甘い予感。その予感は、彼女の心を震わせ、新たな感情の扉を開いた。
ふと、庭師のトーマが言っていた言葉が、リシェルの頭をよぎった。「奥様は、柔らかそうで芯が固い植物みてぇなもんだ」。そして、温室でジュリアンが「この花、寒いのが苦手なんです。けど、隣にこの木があると、冬も越せる」と言っていた花のように、自分がジュリアンの隣にいることで、初めて「素の自分」として存在できるのではないか。彼の存在が、自分を「完璧な淑女」という仮面から解放し、本来の自分を取り戻させてくれるのではないか。
ジュリアンが遠く離れている今、リシェルは、初めて彼への「恋」の感情を自覚した。それは、政略結婚という枠を超え、一人の人間として、彼を慕う、純粋な想いだった。彼の優しさ、彼の強さ、そして彼の無表情の奥に隠された温かさ。その全てが、彼女の心を捕らえて離さなかった。
「ジュリアン様……」
リシェルは、静かに彼の名を呼んだ。その声は、月明かりに溶けるように、小さく、しかし確かな響きを持っていた。会いたい。彼が、今、何をしているのか知りたい。そして、彼が戻ってきたら、もう少しだけ、素の自分を見せてみたい――そんな衝動に駆られていた。彼女の心は、ジュリアンの帰りを、ただひたすらに待ち望んでいた。
ジュリアンが領地へ発ったことは、シャルロッテにとって願ってもない機会だった。リシェルという「邪魔者」がおらず、公爵が不在の今こそ、自分がヴァレリオ家の女主人として、そしてジュリアンの隣に立つにふさわしい女性であることをアピールできる絶好のチャンスだと踏んだのだ。彼女の頭の中では、すでに完璧なシナリオが描かれていた。
(ふふ、あの愚かなリシェルが、騎士団長と図書館でお勉強ごっこをしている間に、私はジュリアン様を射止めるわ。これで、ヴァレリオ公爵夫人の座は、私のものよ)
シャルロッテは、得意満面に高笑いをしていた。彼女は、ジュリアンがいない今、ゆっくりと、しかし確実に妨害工作を画策し始めた。その目的は、リシェルの評価を下げ、自らの価値を高めることだった。
シャルロッテは、公爵邸を訪れる貴族たちへの「おもてなし」を率先して行うようになった。彼女は、毎日公爵邸を訪れ、まるで自分が既にこの家の主人であるかのように振る舞った。
「奥様、どうぞごゆっくり。お客様のお相手は、わたくしにお任せくださいませ。ヴァレリオ家は、わたくしがしっかりと盛り上げてまいりますわ。公爵様の留守を預かる者として、当然の務めですもの」
彼女は、あたかも自分が公爵夫人であるかのように振る舞い、来客に惜しみなく豪華な菓子や珍しい紅茶を振る舞った。また、公爵家が所有する美術品の解説をしたり、貴族たちの間で流行している話題を巧みに操ったりして、自らの教養と社交性をアピールした。彼女は、その行動がジュリアンに伝わった時、きっと彼が自分に感銘を受けるだろうと計算していた。そして、リシェルがそのような社交の場に不慣れであることを、暗に示そうとしたのだ。
しかし、メイド頭のマルグリットは、その様子を冷ややかに見ていた。彼女の口元には、わずかな皮肉な笑みが浮かんでいた。
「あの伯爵令嬢は、公爵家を自分の舞台と勘違いしていらっしゃるわねぇ。奥様は、もっと慎ましくても、その場を温かくできるお方なのに。公爵様が求めているのは、飾り立てられた虚像ではないというのに……」
メイドたちは、シャルロッテの豪華なもてなしよりも、リシェルの温かい気遣いを好んでいた。彼らは、リシェルの真摯な人柄をすでに理解していたのだ。シャルロッテの表面的な華やかさよりも、リシェルの内面から滲み出る優しさや誠実さに、心を惹かれていた。彼女の行動は、使用人たちの目には、単なる自己顕示欲の表れとしか映らなかった。
シャルロッテは、公爵家で働く使用人たちにも接触を図った。特に、執事のセドリックや料理長のジャンに対し、ジュリアンが不在の間、自分が「代理」として公爵家を支えているかのように振る舞った。彼女は、彼らの仕事に口を挟み、あたかも自分が公爵夫人として、公爵家をより良く導こうとしているかのように装った。
「セドリック執事長、公爵様はきっと、ヴァレリオ家の伝統を重んじていらっしゃいますわね。わたくしでしたら、公爵家の格式を保ちつつ、より洗練されたものをご提案できますのに。例えば、この調度品は、もう少し歴史のあるものに替えるべきではございませんか?」
彼女は、セドリックに公爵家の歴史や伝統について尋ねるふりをしながら、自分の「助言」を押し付けようとした。また、ジャンには、献立について「公爵様の好みを理解しているのは、やはりわたくしだけ」と匂わせ、リシェルが公爵の好みを理解していないかのように思わせようとした。
しかし、セドリックは長年の経験から、シャルロッテの真意を見抜いていた。彼は礼儀正しく、しかし毅然とした態度で彼女の提案をかわした。彼の表情は、普段と変わらず無表情だったが、その言葉には、確固たる意志が込められていた。
「恐れながら伯爵令嬢様。奥様は、公爵様が最も信頼されているお方でございます。公爵様のご意向は、全て奥様がお汲み取りになっております。そして、公爵様は、奥様が選ばれたものを、何よりも尊重されます」
ジャンもまた、シャルロッテの「公爵様の好み」に関する助言を鼻であしらった。彼は、シャルロッテの言葉に耳を傾けるふりをしながらも、その目は、彼女の偽善を見抜いていた。
「公爵様は、奥様が作られたものは、何でも美味そうに召し上がりますんでね。たとえ、それが質素なものであっても、奥様が心を込めて用意されたものなら、それが一番だとおっしゃいます」
ジュリアンが不在の間、シャルロッテの妨害工作は、見事に空回りしていた。公爵家の使用人たちは、皆、リシェルの人柄と、ジュリアンが彼女を深く信頼していることを知っていたからだ。彼らは、リシェルの見せかけではない、真の価値を理解していた。そして、ジュリアンが戻った時、シャルロッテの無駄な努力は、彼には何一つ響かないことを、誰もが確信していた。シャルロッテの焦燥と、リシェルの自覚。二人の女性の思惑が交錯する中、ジュリアンの帰りを待つ公爵邸は、静かに、しかし確実に変化を遂げていた。




