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10.駆け引きの舞台


 シャルロッテがジュリアンの書斎で、つけ焼刃の歴史知識をひけらかしながら、リシェルの「女性らしさの欠如」を遠回しに指摘していたその時。書斎の空気は、シャルロッテの甘ったるい香水と、彼女の言葉の裏に潜む悪意で満ちていた。リシェルは、その場の居心地の悪さに、内心で小さく息を詰めていた。ジュリアンは、相変わらず無表情を保ちながらも、シャルロッテの言葉が持つ攻撃性を冷静に見抜いていた。

 コンコン、と控えめながらも確かなノックの音。

 続いて扉が静かに開かれ、青い騎士団の制服に身を包んだレオン・ディアスが姿を現した。彼の瞳は、いつもの陽気さを保ちつつも、その奥には鋭い洞察力が宿っていた。手には何枚かの羊皮紙を携えている。彼の登場により、それまでの淀んだ空気が一変し、書斎に清々しい風が吹き込んだかのようだった。


「公爵様、失礼いたします。緊急のご報告がございまして」


 レオンの声は、書斎の静寂によく響いた。ジュリアンは顔を上げ、彼に視線を向ける。シャルロッテがその視線を横取りしようと、顔をジュリアンの方へ向けるが、レオンの登場により、ジュリアンの意識は完全に彼へと向けられていた。


「レオン、どうした?  何かあったのか」


 ジュリアンの声は静かだが、その奥には、明らかに期待と安堵がにじんでいる。レオンの視線が一瞬だけシャルロッテを掠め、その瞳に宿った鋭さは、『厄介な訪問者』を冷静に観察する騎士のものだった。彼は、シャルロッテの偽善的な笑顔の裏に隠された意図を、瞬時に見抜いていた。


「はい。北部領より、警備に関する緊急の増援要請が届いております。山賊の活動が活発化しており、このままでは冬を越す前に大規模な被害が出かねません。これは公爵ご自身が現地で指揮を執られる必要があるかと」


 レオンは羊皮紙をジュリアンに差し出しながら、あからさまなため息をついた。その演技がかったため息には、明確な意図が込められていた。


「とはいえ、公爵様がご不在となると……奥様がお寂しくお過ごしになるのではと、私、個人的には案じております。特に、このようなお美しい奥様を置いていくとは……実に心苦しい。もしものことがあっては、公爵様も、私も、後悔することでしょう」


 レオンは、ジュリアンがリシェルをどれほど大切に想っているかを知っていた。だからこそ、敢えてその点を強調し、ジュリアンの内心を刺激しようとしたのだ。

 シャルロッテが眉をひそめた。レオンの言葉が、リシェルを気遣っているように聞こえるが、その裏に隠された『公爵様、奥様を一人にしておくのはもったいないですよ?』という含意を、彼女は敏感に察した。まるで、リシェルに花を持たせ、ジュリアンに「妻のそばにいるべきだ」と示唆しているかのようだ。


(この騎士団長……まさか、あの子リス女の味方をするつもり……!?)


 ジュリアンは、レオンの言葉の裏にある意図を正確に読み取った。彼の無表情の奥で、唇の端がごく僅かに緩む。彼は、レオンが自分とリシェルの関係を後押ししようとしていることを、理解していた。


(レオンめ……やりおる。この状況で、よくぞそこまで言う。しかし、彼の言う通り、リシェルを一人にするのは心苦しい……だが、北部の件は急を要する)


 一方、リシェルはと言えば、ぽかんとした表情で二人のやりとりを見守っていた。何か重要な話がなされていることは理解していたが、どこか芝居がかった雰囲気に、思わず口を挟むタイミングを逃していた。彼女の頭の中では、レオンの言葉が、まるで遠い国の物語のように聞こえていた。


「まぁ、レオン騎士団長。公爵様の大切なお仕事を遮るなんて……。私が代わりにリシェルのお相手をいたしますから、ご心配なく。私はリシェルの親友ですから、彼女が寂しがることはございませんわ」


 シャルロッテは優雅な微笑みを浮かべながら言った。その言葉は、レオンの口実を覆し、自分こそがリシェルとジュリアンの間に立つ存在だとアピールしていた。だがその笑みの裏には、明確な敵意と警戒心が見え隠れしている。彼女は、レオンが自分とリシェルの関係に、意図的に介入しようとしていることを感じ取っていた。

 しかしレオンは、それをまるで意に介さなかった。彼の視線は真っ直ぐにジュリアンを見据え、シャルロッテの言葉は完全に無視されたかのようだった。


「公爵様。緊急要請でございますので、今すぐのご出発が望ましいかと。北部領の状況は一刻を争います。奥様には、私が直接ご説明差し上げます。ご心配なく、私が責任を持って、奥様をお護りいたします」


 レオンは、あえてジュリアンに「奥様を私に任せてくれ」と強調するように、書斎の扉へ目配せした。ジュリアンはその意図を正確に読み取り、立ち上がった。


「わかった。リシェル、申し訳ないが、私はこれで……。留守の間は、レオンが君の世話をする。何か困ったことがあれば、遠慮なく彼に言うといい」


 ジュリアンの言葉には、リシェルへの信頼と、レオンへの全幅の信頼が込められていた。リシェルは戸惑いながらも立ち上がり、慌てて頭を下げる。


「は、はい!  ジュリアン様、お気をつけて!  ご武運を、お祈りしております!」


 彼女は、自分を置いていくことへの寂しさよりも、ジュリアンの無事を願う気持ちが勝っていた。

 ジュリアンが部屋を後にすると、残されたレオンは、途端に明るい笑顔を浮かべた。その表情は、先ほどまでの真剣な騎士の顔とは打って変わって、いたずらっ子のような無邪気さに満ちていた。


「奥様、ご安心ください。公爵様がご不在の間、私が責任を持って奥様をお守りいたします。もちろん、公務の邪魔にならぬよう、ですがね!」


 その口調は軽快だが、瞳は真剣そのもの。リシェルは、その勢いに圧倒されかけつつも、レオンの意外な一面に触れ、思わず笑ってしまった。


「……ふふ、ありがとうございます、レオン様。なんだか、心強いですわ」


 その様子を横で見ていたシャルロッテは、内心で怒りに震えていた。彼女の顔は、驚きと憤りで青ざめていた。


(何なの……あの男。まさか、あの男もリシェルを……?  あんなに簡単に、公爵様の心だけでなく、あの子リス女の心まで掴むなんて……許せない!)


 シャルロッテは、レオンを自身の恋路の『天敵』と認定した。彼女は、レオンの介入が、自分とジュリアンの関係を妨げる最大の障害になると直感したのだ。


 ジュリアンが北部領へと向かった後、レオンは間髪入れず「キューピッド作戦」を実行に移した。彼は、リシェルが本来持つ知的好奇心と行動力を引き出し、ジュリアンが帰ってきた時に、彼女の新たな魅力を彼に見せつけようと考えていた。




 その日の午後、レオンはリシェルを庭園へ誘った。


「奥様、公爵様がご不在の間に、何か気晴らしでもいかがでしょうか?  普段はなかなか訪れにくい場所へお連れすることも可能ですが」


 リシェルは少し考え込んだ後、ぽつりと口を開いた。彼女の瞳には、わずかな輝きが宿っていた。


「そうですね……。もし許されるなら、王都の図書館へ行ってみたいのですが……公爵夫人として、そのような場所へ軽々しく行くのは、はしたないことでしょうか……?」


 その言葉に、レオンの表情が明るくなる。図書館は、まさに彼の計画にうってつけの場所だった。彼女の知的な一面を存分に引き出すことができるだろう。


「図書館、ですか!  よろしいのですか?  もちろんでございます!  それでしたら、私が同行いたしましょう。周囲の目もありますし、奥様がお一人で出かけられるのは心配ですから」


 レオンは、すぐに馬車の手配を命じた。こうして、リシェルは護衛付きで王都図書館を訪れることになった。王都図書館は、王国最大の蔵書を誇り、あらゆる分野の書物が収められている場所だ。リシェルは、幼い頃から学術書を読みふけることが好きだったが、公爵夫人となってからは、そのような自由な時間はめったになかった。

 図書館では、リシェルはまるで水を得た魚のように本の世界に没頭していた。彼女は、専門的な学術書から、古文書、地理学に関する文献まで、次々と読み進めていく。貴族令嬢らしからぬ集中力と真剣な眼差しに、レオンは静かに感嘆する。彼は、リシェルが本のページをめくるたびに、その表情が生き生きと輝くのを見ていた。彼女の知的な好奇心は、その完璧な淑女の仮面の下に隠されていた、真の魅力だった。


(いやはや……奥様、こんなにも知的で可愛らしいとは。ジュリアン様がご覧になったら、鼻血どころでは済まないのでは……。きっと、公爵様も、奥様のこの姿をご覧になったら、もっと奥様に夢中になるだろうな)


 レオンは、ジュリアンがリシェルのこの姿を見たら、どれほど喜ぶだろうかと想像し、密かに笑みを浮かべた。彼は、リシェルが自分の殻を破り、本来の輝きを取り戻すことを心から願っていた。

 一方、リシェルはレオンの存在を、頼りになる兄のように感じていた。過剰な気遣いもなく、ただそっと傍にいてくれる安心感。彼は、彼女の読書を邪魔することもなければ、社交辞令を強いることもなかった。ただ、彼女が望む時に、必要なサポートをしてくれる。


「……レオン様。ありがとうございます。今日は、来てよかった。本当に、久しぶりに心が洗われるようでしたわ」


 リシェルは、心からの感謝を込めてレオンに微笑んだ。その笑顔は、晩餐会で見せた完璧な笑顔とは異なり、何の偽りもない、純粋な喜びで満ちていた。


「いえ、奥様の笑顔を見られた私の方が、何倍も得をしております。奥様が喜んでくださるなら、私も嬉しいです」


 とびきりの笑みを浮かべてそう言うレオンに、リシェルは思わず視線を逸らしてしまった。彼のまっすぐな言葉に、少しばかり照れてしまったのだ。




 だがその背後では——。

 シャルロッテが、レオンとリシェルの行動を把握し、怒りに震えていた。彼女は、公爵邸の使用人から、レオンがリシェルを図書館へ連れ出したという報告を受け、激しい嫉妬に駆られていた。


(このままでは……!  あの女がジュリアン様だけでなく、周囲の人間まで味方につけようとしている……!  そして、あの騎士団長……私の邪魔ばかりして……!)


 シャルロッテは、レオンがリシェルを積極的に支援していることに気づき、彼を自身の恋路の『天敵』と認定した。彼女にとって、レオンの存在は、自分の計画を大きく狂わせる邪魔者でしかなかった。


(あの女、あの男……私の邪魔ばかりして……。許さない。絶対に、許さない!  ジュリアン様は、私のものよ!  あの女に奪われるものか!)


 その日、シャルロッテの中で、リシェルとレオンへの憎悪が新たに芽吹いた。それは、単なる嫉妬を超え、復讐にも似た暗い感情へと変貌していた。彼女は、リシェルとジュリアンの関係が深まるのを阻止するためなら、どんな手でも使う覚悟を決めた。

 次なる策略の幕が、今まさに上がろうとしていた——。シャルロッテの頭の中では、より巧妙で、より悪質な計画が練られ始めていた。そして、その計画は、リシェルとジュリアンの関係に、さらなる波乱を巻き起こすことになるだろう。

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