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01.完璧公爵の花嫁


 リシェルがヴァレリオ公爵家に嫁ぐことが正式に決まったのは、半年前のことだった。エルノワーズ伯爵家とヴァレリオ公爵家。由緒ある両家の話し合いは、驚くほどあっさりとまとまった。政略結婚である以上、双方にとって最良の条件が揃っていたということだろう。国益を考えれば、これ以上ないほど盤石な同盟関係が築かれる。だが、当事者であるリシェルの心は、いつもどこか落ち着かなかった。喜びや期待よりも、漠然とした不安と、ある種の覚悟が胸の奥に渦巻いていた。


「──あの公爵様が、私の……?」


 初めてヴァレリオ公爵、ジュリアン・ヴァレリオの姿を遠目に見た時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。王都の貴族が集う夜会で、彼はまるで絵画の中から抜け出してきたかのように、完璧な立ち姿でそこにいた。冷たい漆黒の瞳は、どんな感情も映し出さない。隙のない佇まい、揺るぎない威厳。人々の噂どおり、彼は「完璧な男」だった。公爵としての義務を完璧にこなし、一切の私情を挟まない。そう評される彼の姿は、あまりにも遠い存在に感じられた。

 彼が本当に、私を妻として受け入れるのだろうか。“エルノワーズ家の娘”としてではなく、“リシェル”という一人の女性として──。その問いが、彼女の心に常に付きまとっていた。自分は、ただの道具として、この結婚に利用されるだけではないのか。




 そして迎えた、結婚の儀。王都エストラールの大聖堂。その荘厳な空気は、リシェルの緊張を一層高めた。天井高く響き渡るオルガンの調べが、その重厚さで彼女の胸を締め付ける。純白のドレスに身を包んだリシェルは、侍女エミリアの支えを受けながら、静かにバージンロードを進んだ。彼女の視線の先には、祭壇の前で花嫁の到着を待つジュリアンの姿があった。

 ヴァレリオ公爵・ジュリアンは、花嫁の到着を待つ間、ひとり祭壇前で立ち尽くしていた。その表情は完璧に無表情。周囲の貴族たちは、彼の厳粛な態度を称賛の目で見つめている。彼らは知らない。ジュリアンの内心が、今、どれほどの嵐に巻き込まれているかを。


(……かわいい、なんだあれは)


 彼の内心は、穏やかではなかった。式の開始前、大聖堂の扉が開き、ドレス姿のリシェルが姿を現したその瞬間、ジュリアンは確信したのだ。この結婚は、外交的な都合や義務、家門の繁栄のためだけではない──自分にとって、とても、とても大切なものになる。彼女の歩く一歩一歩が、ジュリアンの心臓を叩き、静かに、しかし確実に彼の理性という名のダムを揺るがし始めていた。


(リシェル……ずっと見ていたい)


 漆黒の瞳の奥で渦巻く、抑えがたい愛しさ。それはまるで、長年探し求めていた宝物を見つけたかのような、圧倒的な感情だった。だが、それを表に出すことは、彼にはできなかった。公爵としての矜持が、そして、何よりも彼女を「怖がらせたくない」という思いが、彼の感情を固く縛り付けていた。自分という人間は、他人を委縮させてしまう。そう自覚していた彼は、最大限に無感情を装い、彼女に恐怖を与えないよう努めた。それが、かえって冷たい印象を与えてしまうことを知らずに。

 無表情なまま誓いの言葉を口にするジュリアンに、リシェルは胸が締めつけられるようだった。


(やっぱり、公爵様は……私に興味など……)


 彼女は表情を崩さぬよう必死だった。内心では不安と落胆が入り混じっていたが、ここで弱さを見せるわけにはいかない。自分が気を許せば、心の底に隠している“中身が騎士団長”な本性が出てしまう。それは、エルノワーズ家から嫁ぐ公爵夫人として、決して許されることではない。せめて、夫の前では“おしとやかで完璧な令嬢”でいなくては──そう、彼女は固く決意していた。




 次の日、王都イシュタリアの街並みが遠ざかり、馬車がゆっくりと進んでいく。車窓の向こうには、まるで絵画のような並木道と噴水が見えた。春の陽差しに包まれた石畳の道を、上品な緑が縁取っている。穏やかな景色は、リシェルの緊張を少しだけ和らげた。

 そして、馬車はヴァレリオ公爵邸の正門前で止まった。


(いよいよ……ここが、私の新しい生活の場所)


 リシェルが小さく息を呑んだその瞬間、馬車の扉が開かれた。


「ようこそ、リシェル」


 銀髪に漆黒の瞳。誰よりも整った顔立ちと、感情の起伏を一切感じさせない表情の男──ジュリアン・ヴァレリオが、彼女を出迎えていた。彼の完璧な立ち姿は、まるで彫像のようだ。


(本当に……美しい方。でも、やっぱり怖い……)


 その完璧さゆえに、リシェルは畏怖の念を抱かずにはいられなかった。彼の優しさは、いつも公爵としての義務感からくるものではないかと、疑ってしまう。リシェルは優雅に微笑み、慎重に彼の手を取った。だが、その手がふっと震えたことに気づく。それは、彼女自身の緊張のせいだと思っていた。──その時、ジュリアンの指先が、僅かにぴくりと動いた。


(え?  今、震えた?)


 それはほんの一瞬のことだったが、リシェルの中に妙な違和感が残った。彼の指先に、彼女の緊張が伝わったのだろうか。それとも、別の意味が……。


(……まさか、緊張してらっしゃる?  そんなはず、ないわよね)


 リシェルは首を傾げた。完璧な公爵が、こんな状況で緊張するなど、ありえないと。彼の冷静な態度が、それを否定していた。

 ジュリアンの方はというと、平静を装うのに全力を注いでいた。


(あの小さな手、やわらかい……まるで手のひらの上の子リスみたいだ。ふわふわして、震えてて……だめだ、理性がもたない)


 彼の内心は、嵐だった。触れた指先のあまりの柔らかさに、全身の血が逆流するような衝撃を受けていた。この小さな手を、ずっと守りたい。抱きしめたい。その欲求が、彼の理性を猛烈な勢いで削り取っていく。だが顔は完璧に無表情。本人は冷静なふりを貫いていたが、心中では1秒ごとに何度も理性のダムが決壊していた。

 屋敷の大扉が開くと、整列した使用人たちが出迎えた。全員が深々と頭を下げ、正装で整列している光景は圧巻だった。まるで、国の賓客を迎えるかのような厳重な歓迎ぶりだ。

 最初に進み出たのは、年配の執事だった。


「奥様、ようこそヴァレリオ家へ。私、執事長を務めておりますセドリック・ブランシャールと申します」


 白銀の髪に、皺の刻まれた穏やかな笑み。彼の静かな立ち居振る舞いは、屋敷の歴史そのものを感じさせた。リシェルの視線を真正面から受け止め、静かに礼を取る姿には、長年の経験と、ヴァレリオ家への深い忠誠がにじみ出ていた。


「わたくしはメイド頭のマルグリット・ロワゾーでございます!  奥様のお部屋のご用意は万全でございますよ!」


 ふっくらとした体躯に、頬の赤み。マルグリットの大きな笑顔は、どこか祖母のような親しみを感じさせた。彼女はリシェルの手をそっと取り、目を潤ませながら言う。


「まあまあ、本当に綺麗なお嫁さん……公爵様もさぞお喜びでしょうねぇ」


(えっ……?  そ、そうなの……?)


 リシェルの内心は慌ただしい。ジュリアンは無表情を保っているのに、なぜ使用人たちは「喜んでいる」と確信しているのか。彼女には全く理解できなかった。彼の表情から、喜びを読み取ることなど、不可能だと思っていたからだ。

 続いて、リシェルの前に勢いよく飛び出してきたのは、少年だった。


「奥様!  俺、ノア・ラフィットっていいます!  小姓として旦那様に仕えてまーす!  今日からよろしくお願いしますっ!」


 眩しいほどの笑顔と、元気いっぱいの挨拶。ノアの登場に、場の空気が一瞬で明るくなった。彼の純粋な笑顔は、リシェルの心に温かい光を灯した。


「私からも一人、紹介したく……」


 リシェルが小さな声で呼びかけたのは、栗色の髪の少女だった。控えめに立ち、やや緊張した面持ちの彼女こそ──


「私の侍女、エミリアです。エルノワーズ家から連れてまいりました」


 リシェルに付き従っている少女、エミリア・カレル。幼い頃から姉妹のように育ってきた彼女は、リシェルの心を最もよく理解している。今日からリシェルの公爵邸での生活を支える、心強い存在だった。


「お初にお目にかかります、奥様ともども、どうぞよろしくお願いいたします」


 エミリアの落ち着いた声を聞き、リシェルは改めて心を落ち着かせた。

 広がる豪奢な空間と、深まる誤解

 屋敷の中に足を踏み入れると、豪奢な世界が広がっていた。天井は高く、シャンデリアがまばゆく煌めいている。絨毯は王宮と同じ工房で作られた最高級品で、足を踏み入れるたびにふわりと沈み込んだ。壁には一流画家の絵画が飾られ、所々に飾られた花瓶には、季節の花々が活けられていた。


(……すごい。本当に、異世界みたい)


 リシェルは、その壮麗さに圧倒されそうになるのを必死でこらえた。それでも彼女は、決して気圧された素振りを見せなかった。どんな場でも、完璧な令嬢でいなければならないと、自分に言い聞かせていたからだ。

 けれど、心の奥では違った。


(こんな広い家で……私はちゃんと、公爵夫人としてやっていけるのかしら)


 隣を歩くジュリアンの横顔をちらりと見る。やはり、感情は読み取れない。その完璧な横顔は、彼女の不安を一層掻き立てる。


(きっと……これは、お役目。彼が私に個人的な好意を抱いているわけじゃない。政略のための結婚、だから)


 そう思い込むことで、自分を守る。そうしなければ、この圧倒的な空間と、完璧すぎる夫の存在に、彼女は押し潰されてしまいそうだった。

 屋敷内の案内は、セドリック執事の主導で進んだ。応接間、大食堂、図書室、バルコニーのある音楽室──どれもが、王族の館を思わせるほどの格式だった。使用人たちは皆、礼儀正しく、しかし温かい視線をリシェルに送っていた。


「奥様のご居室は、東の塔側にご用意しております。旦那様の寝室とは内扉で繋がっておりますが、鍵は内側からも掛けられますので、ご安心くださいませ」


 その説明に、リシェルは小さくうなずいた。


(内扉……つまり、隣室だけれど、別室。そういう距離感ってことなのね)


 リシェルは、その内扉が物理的な距離だけでなく、彼らの心の距離を象徴しているように感じた。親密さを求めない彼の意思表示だと。

 だが彼女の横で、ジュリアンの心中はまたもや大荒れだった。


(なぜ繋げた……いや、それは当然か。公爵夫妻の寝室が離れているなど、異常だ。しかしリシェルは驚いただろうか。嫌だっただろうか。もしかして「下心がある」と思われてしまったのでは……!?)


 彼は、セドリックの言葉を内心で激しく反芻していた。公爵夫妻の部屋が隣接しているのは、一般的な貴族の家では当たり前のことだ。だが、自分のような人間が、彼女のような可憐な女性の隣にいることは、果たして許されるのだろうか。横目で彼女の様子を盗み見た。だが、リシェルは完璧な笑みをたたえ、何事もなかったように歩いている。


(やっぱり……気にしてないんだ。さすが令嬢。全然動揺してない。というか、なんならこっちの方が気まずい)


 ──ああ、かわいいのに……距離がある……ッ!!


 ジュリアンは内心で叫んだ。近づきたい。その衝動を抑えるのが、どれほど困難か。彼が彼女の動揺を感じ取ることができなかったのは、リシェルがあまりにも完璧な演技をしていたからだ。そして、リシェルが彼の内心の混乱を知ることはなかった。




 案内が一通り終わると、ほどなくして夕餉の時間となった。二人が向かったのは、奥の回廊を抜けた先にある大食堂。天井には壮麗なアーチが広がり、壁には家門の歴代当主たちの肖像画が並ぶ。中央には長いオーク材のテーブルが据えられ、銀食器と絹のナプキンが整然と並べられていた。食卓に並ぶのは、色鮮やかな料理の数々。


(まるで国王陛下の晩餐会みたい……)


 リシェルは微笑みを崩さず着席したが、胸の奥では鼓動が高鳴っていた。こうした正式な夕食は貴族令嬢の常として慣れてはいたが──今日は状況が違う。


(夫婦として、二人きりで食事をするのよ?)


 見知らぬ大勢の貴族の前で振る舞うのとは、全く違う緊張感だった。テーブルの向こうに座るジュリアンの完璧な立ち居振る舞いが、彼女の視線を引きつける。

 一方のジュリアンはというと、真正面に座った彼女を直視できず、さりげなくグラスの水面を見つめていた。


(近い……この距離……かわいすぎて、食事どころじゃない)


 彼の心中は、もはや食事どころではなかった。目の前にいるリシェルの美しさが、彼の五感を支配していた。彼女の髪の光沢、肌のきめ細やかさ、そして僅かに震える指先まで、全てが愛おしくてたまらなかった。


「……お口に合いますか?」


 リシェルが、小さく問いかけた。その声は、完璧な令嬢としての優雅さを保ちながらも、僅かな緊張を滲ませていた。


「はい、とても。お料理が繊細で……素材の味が引き立っておりますわ」


 ジュリアンは、リシェルの言葉に頷きながら、彼女の食事の作法を観察していた。


(うわ……この声。しとやかすぎる。姿勢も完璧。ナイフとフォークの持ち方、貴族の教本にそのまま載せられるレベル……いや、もしかして今、心の中で笑われてるんじゃ……?)


 リシェルは、ジュリアンの沈黙をどう解釈していいか分からなかった。彼の無表情は、彼女の完璧な作法を褒めているのか、それとも無関心なのか。


「ジュリアン様は、あまりお話されないのですね」


 リシェルが、柔らかく問いかけた。彼女は彼を知りたい。彼との距離を縮めたいと願っていた。

 ジュリアンは一瞬、虚を突かれた顔になった。彼女が自分から話しかけてくるとは思っていなかったのだ。が、すぐに取り繕い、低く答えた。


「……無口な方だと、よく言われます」


 それは、彼が幼い頃から言われ続けてきた言葉だった。感情を表に出すのが苦手で、必要以上の言葉を口にしない。それが彼の常だった。


「そうなのですね。ご無理にとは申しませんが、私は……少しでも、貴方のことを知れたらと思っております」


 その一言が、ジュリアンの胸を撃ち抜いた。彼女は、彼が「無口」であることを否定するわけでもなく、ただ「知りたい」と告げたのだ。その純粋な言葉に、彼の理性がまた一つ崩れ落ちそうになる。


(なにこの天使。尊い。今すぐ跪いて手を取って誓いたい。でもだめだ……こんなふうに優しくされたら、また勘違いしてしまいそうだ)


 彼は、自分が彼女にふさわしい人間なのか、自信がなかった。完璧な公爵である自分と、無口で不器用な自分。どちらが彼女に愛されるのか、分からなかった。

 ──食事は静かに、けれど穏やかに進んだ。二人の間には、まだ見えない壁があったが、その壁は少しずつ、温かい空気によって溶かされ始めているようにも思えた。

 食後にはマルグリットが特製のハーブティーを出してくれ、セドリックが「奥様の浴室をご案内いたしましょう」と声をかけてきた。

 リシェルが席を立つと、ジュリアンも立ち上がる。その所作は、常に優雅で、怠りない。


(本当に、完璧なお方……)


 そう、リシェルは思った。彼女には、ジュリアンの内心で繰り広げられている混乱など、微塵も伝わっていなかった。彼女は彼を完璧な存在として見ている。それゆえに、彼の沈黙は、彼女への無関心としか受け取ることができなかった。


(こんな完璧な方が、どうして私との結婚を選んだのかしら……やっぱり、ただの政略)


 そう信じて疑わないリシェル。そして彼女を「完璧な令嬢」だと信じ込んでいるジュリアン──二人のすれ違いは、静かに、確実に深まっていく。




 ──リシェルが広い浴室で湯に身を沈めていると、ふと視線が天井を見つめたまま、思考が半年前に戻っていた。




 エストラール王国王都イシュタリア──その中心にそびえる聖堂で行われた結婚の儀は、誰もが息を呑むほど荘厳なものだった。

 花嫁衣装は、南部の最高峰職人たちが丹精込めて仕立てた白金のドレス。繊細な刺繍に、エルノワーズ家の家紋がさりげなく織り込まれ、純白のヴェールには夜明けの星を模したビーズが光っていた。その輝きは、リシェルの清楚な美しさを一層引き立てていた。


(私は……ちゃんと笑えていたかしら)


 祭壇の前で、リシェルはジュリアンの隣に立ち、祝福の言葉を静かに受けていた。彼は変わらぬ無表情で、厳粛な空気を保っていた。しかし──あのとき確かに、指輪を嵌めた彼の指がわずかに震えた気がする。


(気のせいよね……あの人に、動揺なんて)


 リシェルは、その時の自身の感情を錯覚だと思い込もうとした。しかし、その記憶は彼女の心に小さな疑問符を残していた。

 だがジュリアンにとっては、あの日こそ「理性崩壊の序章」だった。


(美しすぎて直視できなかった……あのドレス、反則だろう。妖精か……?  神殿で生まれた祝福の化身なのか……?)


 彼の心の中では、比喩ではなく、実際に理性のダムが決壊寸前だった。ヴェールの向こうの瞳が震えて見えたとき、ジュリアンは心の中で叫んでいた。


(この国の祝福に俺は値しないんじゃ……でも、もらっていいのか……?)


 彼の視線は、リシェルを見つめるたびに、尊いものを見るかのように揺れていた。その視線を、彼女が知る由もなかった。

 ──だが、表に出たのは完璧な立ち姿と、無感情にすら見える静謐な態度だった。


(誤解されるだろうな……でも崩せなかったんだ。そうしないと、まともに彼女に触れられない)


 彼は、もし少しでも感情を表に出せば、彼女を抱きしめ、離すことができなくなるのではないかという恐れを抱いていた。その衝動を抑えるためには、感情を徹底的に封じ込めるしかなかったのだ。

 式の後、祝宴でも同様だった。リシェルは微笑みを絶やさず、新しい家門の人々に気配りを欠かさなかった。公爵家の親族や王族も見守る中、その立ち居振る舞いは完璧で、称賛の声が絶えなかった。


(……疲れたな)


 湯から上がったリシェルは、侍女エミリアの助けを借りて湯上がりのドレスへ着替える。一日の疲れが、どっと押し寄せてくる。


「お疲れではありませんか、奥様」

「ええ、大丈夫。エミリアの顔を見ると、少し安心するの」

「……そのお言葉だけで、わたくしは明日も生きてゆけます」


 エミリアは幼い頃からの侍女であり、唯一、リシェルの「内面の男前」も知っている数少ない理解者だった。けれど今は、彼女の前でも“完璧な奥様”でいなければならない。そう、リシェルは思っていた。弱さを見せることは、許されないのだと。




 ──夜。リシェルの部屋には薄明かりが灯っている。

 豪奢な天蓋付きベッドの上で、リシェルは膝を抱えたまま、じっと扉を見つめていた。ジュリアンの部屋と繋がる、内扉。その向こうには、彼がいる。二人の距離は、たった扉一枚。だが、その一枚が、果てしない距離に感じられた。


(眠ってる……のよね。私も、寝なきゃ……)


 コンコン──控えめなノックが扉の向こうから響いた。リシェルは息を呑んで身を固くする。


「リシェル、起こしてしまっただろうか。……ひと言だけ」


 ジュリアンの声。低く、けれどどこか戸惑いの滲む調子。彼の声が、扉の向こうから、まるで直接心に響くかのように聞こえた。


「今夜は、無理をしなくていい。扉はこちらで閉めておく。……安心して、休んでくれ」


 ──そして、カチャリと扉の向こうで鍵がかかる音がした。


(……やっぱり、距離を取られてる)


 リシェルは、そう思った。きっと、自分に興味がないのだろうと。その優しい声は、彼女の心に何の光ももたらさなかった。むしろ、突き放されたように感じた。


(あんなに優しい声なのに、全然、近づいてくれない)


 そしてジュリアンは、自室で頭を抱えて転がっていた。


(喋った!  今夜、喋った!!)


 彼は、声を聞かせることすら、最大限の努力だったのだ。


(でもあれ以上話したら、俺の中身が全部バレる……!  しかもこの扉越しの距離感、想像だけで寝れない……!)


 彼は、リシェルの繊細な心を傷つけないよう、必死だった。自分の感情が暴走し、彼女を怖がらせてしまうことを恐れていた。だからこそ、距離を置く選択をしたのだ。それが、彼女を誤解させることになるとは知らずに。

 互いに思い合っているのに、まるでそれぞれ別の脚本で演じているかのような初夜の夜が、静かに、更けていった──。


 ──扉の向こう側、リシェルは硬い寝台の上でじっと目を閉じていた。けれど眠れない。ずっと胸の中がもやもやして、どうにも落ち着かない。


(あの人は、なぜこんなにも私に関心がなさそうなの?  優しいのに、心が遠い。まるで、役割を演じているよう……)


 そう、まるで「完璧な夫」を演じる“機械”に見えてしまうほど。彼の完璧な無表情が、リシェルの心を深く傷つけていた。だが実際は──。

 ジュリアンは、内扉の前でそっと腰を下ろし、扉に背を預けていた。彼の心臓は、隣室の彼女の存在に、ずっと高鳴り続けていた。


(今夜くらい、ちゃんと迎えに行けばよかったのか……いや、無理だ。無防備な彼女に今近づいたら、俺の理性が死ぬ……!)


 彼は、自分の中に渦巻く激しい感情を、必死で抑え込んでいた。彼女を守りたい。だが、その想いが暴走すれば、彼女を傷つけてしまうかもしれない。そのジレンマが、彼を苦しめていた。


「リシェル……おやすみ」


 扉に額を預け、そうつぶやいた。その囁きが彼女に届くことはない。だが、その声音には、紛れもない優しさと、深い愛情が滲んでいた。






 ──翌朝。


「おはようございます、奥様。朝食の支度が整っております」


 エミリアに起こされ、リシェルは表情を整えながら大きくうなずいた。鏡に映る自分は、いつものように完璧に整えられている。しかし、その笑顔にはどこか翳りがあった。昨夜のジュリアンの言葉が、彼女の心に重くのしかかっていた。


「今日も、おしとやかに、優雅に──ね」


 彼女は呟いた。そう、自分には“役割”がある。エルノワーズ伯爵令嬢として、ヴァレリオ公爵の妻として──完璧であること。それが、彼女に与えられた使命だと信じていた。


「決して、心を乱してはならない」


 朝食の間、ジュリアンはいつもと変わらぬ無表情だった。完璧な立ち居振る舞い。ナイフとフォークの使い方も、姿勢も、言葉の一つ一つまでが洗練されている。


(……今日も綺麗だ)


 ジュリアンの心中は、嵐だった。彼は、テーブルの向こうに座るリシェルから一瞬も目が離せなかった。


(あの寝起きの姿、少し髪が乱れてた……あれが、あんなにも可愛いなんて知らなかった。あれを毎日見られる人生って何?  俺、今ほんとに人生の勝者なの?)


 だが、その思考は全て内側に封じられたままだ。彼は、自分の感情を表に出すことが、彼女を困惑させるだけだと信じていた。


「リシェル。体調は、どうだ?」


 彼の声は、昨夜と同じく優しかった。しかし、その表情は変わらない。


「はい。特に問題ありません。ご配慮ありがとうございます、ジュリアン様」


 その答えもまた、完璧すぎる“奥様”のものだった。リシェルは、ジュリアンの優しさが、まるで形式的なもののように感じていた。


(やっぱり……興味ないのね)


 リシェルは、彼の無表情から、彼女への無関心を読み取った。


(やっぱり……俺は彼女を怖がらせてる?)


 ジュリアンは、リシェルの完璧な笑顔の裏に、何か寂しさを感じ取った。しかし、それをどうすればいいのか、彼には分からなかった。

 微妙な沈黙。だが、それを破るかのように、ノアが元気にやって来た。


「おはようございまーすっ!  公爵様!  奥様!  今日も最高に麗しいですッ!」


 その快活な声に、思わずリシェルは微笑み、ジュリアンもほんのわずか眉尻を緩めた。ノアの明るさは、二人の間の張り詰めた空気を、一瞬にして和らげた。


「……うるさい」


 ジュリアンは、いつものようにノアに冗談めかして言った。


「元気なのはいいことよ、ノア」


 リシェルは、ノアの元気な挨拶を喜んだ。


「へへっ!  じゃあ今日も全力で働きますっ!」


 ノアが去った後、二人の間に流れる空気が、少しだけ柔らかくなったような気がした。彼の存在は、二人の間に漂う緊張感を、ほんの少しだけ解放してくれた。

 ──こうして、リシェルとジュリアンの結婚生活は幕を開けた。

 外から見れば完璧な夫婦。誰もが羨む、公爵夫妻。

 だが、内実は“可愛すぎる妻に理性をすり減らす公爵”と、“素っ気ない夫に悶々とする男前令嬢”の、すれ違いラブコメであった──。


(私、いつかちゃんと……彼の本当の気持ちを知りたい)


 リシェルは、彼の完璧な仮面の奥に隠された、真の感情を知りたいと願っていた。


(俺の全部を、バレずに伝えられる方法って……どこに売ってますか?)


 ジュリアンは、自分の愛情を、彼女に怖がらせることなく伝えたいと願っていた。

 ──それぞれの決意と誤解を胸に、ヴァレリオ邸の朝は始まった。彼らのすれ違いは、この新しい生活の日常となり、しかし同時に、互いの心をゆっくりと近づけていく、奇妙な始まりでもあった。

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