第1話 英雄の条件【挿絵アリ】
鐘の音がした。今日も戦いが始まる。
ぐゎんぐゎんと天から地までを揺るがす大鐘が報せるのは人類の宿敵による襲来。音に驚いた小鳥たちが砦の城壁からいっせいに飛び立っていく。
その眼下。
死肉の転がる北部大平原に、ぽつんと二つの人影があった。
金髪の男が、隣の若い兵へ問いかける。
「英雄とはなんだ?」
鞘から剣を抜き放つ。刃に陽の光が反射して、男の瞳を掠める。雲間から射した一筋の光。雪を解かし、春を告げる柔らかな光だ。男は眩しさにも目を細めない。遠くを見つめたまま剣の切っ先を向ける。
灰色の雲の下。宿敵たちの姿があった。地平線を揺るがす黒い蠢き。邪族の群れだ。矮小な人間を押しつぶさんと、土石流のように押し寄せてくる。
男は重ねて問いかける。
「あいつらを倒せば、英雄か?」
尋ねられた若い兵は腰から提げていた望遠鏡を目に当てて、迫りくる黒い波を──邪族を見つめる。
隆起する筋肉。泥炭色の肌にみすぼらしい腰布を巻きつけただけの蛮人だ。
だが、遠目に見ても分かる巨大さ。成人男性の倍以上はある。
手にした棍棒を見てもその事実は明らかだった。人が振るえるのは木の枝くらいのものだが、邪族が棒として振るうのは木の幹だ。生えている木を引っこ抜き、軽々と振り回して、下卑た笑みと共に他の生命を鏖殺する。
邪悪な死の化身だ。
若い兵の頬を冷や汗が伝う。
「あ、あれを、倒す……?」
「あれで雑兵だ。人語を操る個体も、魔法を操る個体も、今日のところはいないらしい」
人語を……魔法も……?
兵士は背筋が凍りつくのを感じる。
「恐ろしいか?」
「……はい」拳を握りしめて若い兵は呟く。
「正直でよろしい。だからこそ連れてきたんだ。その怯えを忘れるな。忘れずに、戦うんだ」
剣を抜き放った男は「さて」と隣に立つ若人に改めて問う。
「どうすれば人は英雄になれると思う?」
尋ねられた兵士は甲冑の隙間から答えを絞り出す。
「……なれません」
「なぜだい?」
「英雄は英雄として生まれてくるからです。わずか四歳で邪族を討ち、数々の戦場で武勲を立てた勇者アステラ様──あなたのように」
アステラと呼ばれた金髪の男は、年の頃は二十五、六といったところだが、驕るでもなく頷いてみせる。貫禄があった。
「そうか。俺は生まれながらにして英雄か」
「ええ。あなたが居なくてはこの北部戦線は崩壊してしまう。あなたこそ人類の希望です」
「じゃあ俺が、勝たなければな」
「ぜひそうしてください。おれはそれを強く望んでます」
兵士は興奮気味に続ける。
「おれだけじゃない。故郷で待つ父母も、死んじまった祖父母も、農夫たちも、鍛冶屋も、羊飼いも! いえ、もっと多くの民が!」
兵士は言葉を区切る。剣の柄頭を握る手は震えていて。
「アステラ様、あなたが勝利をもたらすことを、強く望んでいるのです」
邪族を前に怯え、神経が昂っていた。
無理もないかとアステラは目を細める。
「君は東部の農村出身だったな、マウロ」
「……ええ」
マウロと呼ばれた若い兵士は頷く。
「君はここ北部大平原が、王都では〈屍の国境〉と呼ばれていることを知っているかい」
「いえ、恥ずかしながら」
アステラは剣を四回、振りながら言う。
「たった四人だそうだ」
「はい?」
唐突に告げられた数字を、マウロは訊き返す。
「比率の話だがね。ほんの十数年前までは、邪族の襲撃を受けて生き残れる兵士は、百人のうちたった四人だったそうだ」
「っ……!」
マウロは絶句した。
死亡率、九割六分。希望を失うには容易い数字だ。
「この地は古くから邪族との争いが絶えない土地だった。大勢死んだ。そりゃそうだ。平地では、とてもじゃないが人間に勝ち目はない」
「……そうでしょうね」
マウロは怯えた顔で呟いてから、ハッとしてアステラを見上げる。
「す、すみません、これから戦だというのに、おれ……」
「謝ることはない。昔の兵士も同じ気持ちだった。この地へ派遣されることは屍として骨を埋める場所が決まるのと同じだった。彼らも逃げ出して故郷に帰りたかっただろうさ」
だが、とアステラは背後を指さす。
「彼らは逃げなかった。その積み重ねが、もうすぐ完成する」
長らく建設工事の続いていた石造りの城壁は、八割がた、築き上がっている。
「かつては木で柵を築き、粗末な物見やぐらを立てた。何度も破壊されたそうだが、それでも人々は諦めなかった。次第に堀が作られ、柵は壁になり、壁はより高くなっていった。国境線は文字通り死守されてきたのだ。兵士たちの血肉によって」
それが〈屍の国境〉という名の由来だ。
「君は、英雄は英雄として生まれてくると言ったな。俺は違うと考える」
アステラは剣を握りこむ。顔の前に刃を掲げて、握りこんだ手に魔力を込めていく。
「英雄とは希望を紡ぐすべての者だ。希望という灯火を受け継いできた者は英雄なのだ」
ぶわり、と周囲の景色が揺らぐ。
熱された空気が光を屈折させるように、彼の放出した魔力は世界の光景を歪ませる。刃からパキパキと音が鳴る。刀身が悲鳴をあげている。アステラに注ぎ込まれた魔力の圧に耐えかねているのだ。
「ひ……」
隣で見ていたマウロが裏返った悲鳴をあげて後ずさる。邪族を見たときと同じように背筋が凍り、冷や汗が流れる。いや、先ほど以上に甲冑の中は湿っている。
あろうことか、味方であるアステラの気迫に怖気づいていた。
「すまんな」
アステラは気遣うように前に一歩、距離を取る。
刃には己の顔が映っている。そして刃のもう片面には、黒い濁流。蹂躙せんとなだれこむ邪族たちの姿。すでに望遠鏡を覗かずとも、その猛る顔が見えるほどの距離。
剣の切っ先を真上に向ける。
「俺もまた、人類の繋いできた灯火のひとつにすぎない。そして」
刀身が光を帯びはじめ、揺らいでいた魔力が真っ直ぐに伸びていく。雲の切れ間から一条の光が降り注いでいるかのよう。
だが実際にはひとりの人間が天高くへと光を放ち、巨大な剣を形作っていて。
「俺は灯火を絶やすわけにはいかない」
アステラは光の刃を横薙ぎにする。
直後、世界を天と地に分かつように一筋の墨が引かれた。
それはアステラの剣が空間を断ち切った痕跡だった。魔力の刃によって光の速度を超えて繰り出された斬撃は、あまりの速さゆえに全ての光すら逃さず切り裂き、黒い一撃となった。世界に引かれた墨の正体は絶対的な切断の結果。
世の理を超えた一撃。
ゆえに魔法。
アステラの得意とする〈斬撃〉の魔法だった。
ついでのように邪族どもの体はひとつ残らず上下に両断されていて、その血肉が渇いた平原に沼を作っていた。押し寄せていた黒い波はすっかり凪いでいた。
マウロは目の前で起きた尋常ならざる現象について形容する言葉を持ちえない。
「……!」
アステラは驚嘆するマウロをよそに剣を鞘へ納め──ようとして違和感を覚え、刃を顔に近づける。
「ん、こりゃイカンな」
刀身に映るアステラの顔にヒビが入る。絶対的な斬撃を繰り出した剣には亀裂が入っており。
「無茶させすぎたか」
次の瞬間には砕け散った。
勇者アステラの佩いていた剣が、粉々に。
焦ったのはマウロだ。
「ど、どうするんですか!? 剣が折れてしまっては、先ほどのような魔法も……」
「撃てない」
「そんな……代わりの剣はないのですか?」
「あと五本はあるよ」
マウロはホッと胸を撫でおろす。
「それなら安心ですね」
「まあ、前回折れたのは昨日だがね」
アステラはけろりと言い放つ。
「……ええと、では、一日に一本、剣が折れているので?」
「そうだな」
「大変じゃないですか! あと五本と言いましたよね! ということはあと五日しか持たないということですか!?」
「そうなるな」
アステラは言いつつ平原をあとにして砦へと鷹揚に歩いていく。マウロはおろおろとした様子で勇者の背を追う。隣に並ぶと、腰に佩いた一振りの剣を差し出す。
「お、俺の剣を使ってください。親父から譲り受けたものですが、人類を救えるのなら」
「気持ちはありがたいが」
アステラは兵士の肩を叩いて感謝を伝える。
「魔力を練り込みながら鍛えられた特別な剣でないと、振るう前に魔法が暴発してしまう」
運が悪ければ城砦が真っ二つだなとアステラは言う。
「そんな……」
「慌てなくていい。すでに手は打ってある」
「っ! ほんとですか」
「いにしえの勇者が佩いていたという〈勇者の剣〉の在り処が特定できた。すでに特殊部隊は動いているよ」
「では……!」
「ああ。今に届くぞ、伝説の剣が」
アステラの言葉にマウロの顔が明るくなった。
平原にびゅうびゅうと風が吹く。西へ西へと雲が運ばれていく。
「俺たちは待とう。灯火が繋がれてくるのを。新たな英雄の訪れを」
* * *
「……──ということで、勇者アステラは新しい英雄が〈勇者の剣〉を運んで来るのを待ち望んでいたのよ」
「ふーん、自分で取りにいけばいいのに」
「あらあら。そしたら北の平原は誰が守るの?」
「うー、そこは、気合で! はぁっ!」
「あら頼もしい」
母親はくすくすと笑う。
「でも、そうはいかないから、〈勇者の剣〉は届けてもらうことにしたの。ここで登場するのが──誰だったか覚えてる?」
「んと、えっと、『名も無き英雄』! さん!」
よくおぼえてました、と娘の頭を撫でると、娘は嬉しそうに笑う。
「じゃあじゃあ、このあとに出てくるの?」
「ええ。これは、まだ『名も無き英雄』がただの村人だったころの話なんだけれど──……」