7 興味を持ってもらいたい
――以前は、ふたりで会うことすら躊躇っていたというのに。
白の皇帝はそれでも自らの意志で、こうして歩み寄ろうとしてくれる。
だが同時に、
――自分はこの永遠に愛しい少年に、並みならぬ気を使わせている。
そう思うだけで《空》神は心苦しくなるが、自分の指を……手を握ってくれる白の皇帝の気配に不安や躊躇はなく、純粋な温かさが伝わってきた。けっして無理をさせているわけではないと感じられたので、ほっとする。
「前はね、あっちを探検したんだ。だから今日は、こっちに行こうね」
言われても、彼が示すあちらもこちらもわからぬが、まずは白の皇帝の気の向くままに……と思い、《空》神はゆっくりと歩調を合わせた。
そのとき、心地のよい風が吹いて、空の色とも水の色ともとれる白の皇帝の長い髪が揺れた。足元の草花も揺れて足をくすぐったり、さわさわと葉が擦れあって音がするのが《空》神にとっては不思議に聞こえる。
「風とは、いろいろな音を生み出すのですね」
何となくぽつりとつぶやくと、白の皇帝は、はて、と小首をかしげて、
「天空の蒼穹宮にも庭園や森はあるよね? お散歩はしないの?」
そう尋ねると、
「ときおりでしたら……出ることもありますが、そうですね――気にかけたことはないですね」
ときおり、と言ってはみたものの、その実態はほんとうにごく稀にわずかな時間だけ足を運ぶていど。庭に出たところで目的もないので、ほんのすこし歩くぐらい。いや、ちらりと目で見やるだけで、庭そのものに足をつけた記憶もほとんどない。
白の皇帝の感覚でいえば、それは散歩をしたうちにも入らないだろう。
「風だって……、空には《風》神がいるでしょ? 吹けば木の小枝や葉が揺れるから、音ぐらい聞こえると思うんだけどな」
風は実態を持たないが、吹いて何かに触れればかならず音を生み出す。
白の皇帝は風に吹かれて揺れる木々のざわめき、とくに木々たちが葉や枝を揺らし、彼らが何かを伝えるように、歌うようにも聞こえる音が好きだというと、《空》神はますます考え込むように、
「白の皇帝にはそのように聞こえるのですか?」
「うん。そんなふうに聞こえない?」
「ええ……と……」
多分これは実勢にそうと聞こえるのではなく、白の皇帝の感性、あるいは彼の種族であるハイエルフ族には何か特殊な感覚で聞こえるのかもしれないが、
「私の居宮がある蒼穹宮の本宮は、風の領域よりも上空にあります。風……は吹きこそしますが、庭園の木々が揺らぐほど吹くかどうかは……」
そのようなことは、一度も気にしたことがなかった。
庭園に出たとき、それらを耳にしたことはあっただろうか。
《空》神は思い出そうとしてみるが、そもそも一切の事柄に興味も関心も持たないので、まず何かを記憶に残すということがない。記憶にないものを辿ったところで、答えは皆無。
瑣末を留めるなど、必要もないことだ。
《空》神の口は、ぴたり、と止まってしまう。
思いのほか真面目に考え込む《空》神を見て、彼の人柄は思った以上に淡泊……いや、澄み切った空のように透明感がありすぎるので、だから何かを留めることがないのだな、と難しい理論を解くような感覚を白の皇帝は何となく感じる。
――この神さまは、《風》神が言ったように興味のあるなしで判断しないんだ。
ほんとうに、周囲の……彼にとって眼下となる天下が定まりのなかで収まり、あるがままであるのなら、気にかけることもないのだ。
――天空、天上の頂点は、ただ天下の遥か上にあるだけ。
それはある意味、世界の平穏である証なのだろうけど、まだ創世期とはいえ、世界には数多の事柄であふれるようになってきた。
見れば楽しいこと、触れれば楽しいことだってできてきたと思う。
《空》神が自分にどのような決まりごとを課して、それを頑なにしているのかは知らないが、ちょっとくらい何かに興味を持ってもいいと思うのに。白の皇帝はそう思う。
ただただ、遥か天上でひとり目を閉じている。《空》神はこれからも永遠にそうやって過ごすのだろうか。
――《空》神は今日のこと、そうやってすぐに忘れちゃうのかな……?
そんなことを考えはじめると、白の皇帝は途端に切ない気持ちになってしまう。
自分にとっては、ひょんなことから遥か太古の時代――竜族が「神」として世界を創世している時代に迷い込んだことも、その神の頂点として巨大な自然を司っている「竜の五神」たちと出会ったこと、こうして楽しく遊ぶ日々はとても大切で、終生忘れたくない記憶、宝物だ。
今日は誰と会って、何を話して、どんなふうに過ごしたのか。
――俺はぜったいに忘れないから、みんなも忘れないでね、って思うのは、俺の我儘なのかな……?
いままでそれを気にせず《空》神が不自由なく過ごしてきたのなら、無理に意識を変える必要はないかもしれない。
それが竜の五神の、神さまに必要な仕事ならば仕方がない。
変に無理を言って、彼らの仕事、あるべき姿の邪魔はしたくはない。
――けど。
ぽつり、と思う。
今日の苺摘みはほんのすこし、ほんのすこしでいいから記憶の隅に留め置いてほしい。
――だって、今日の苺摘みは。
竜の五神のなかで、白の皇帝がいちばんに好いている《火》神を誘ったのではない。
――あなたと行ってみたいと思ったから。
探検や散策の地域を前もって考えてみて、食べごろの苺が多く実っている時期に合わせて《空》神といっしょに過ごしてみたいと思ったのだから。