息子の趣味は、国語辞典を見ることです
小学生の息子は学校から帰ると、宿題もせずに延々とすることがある。ゲームやタブレット、漫画の類いではない。
息子がすること。それは国語辞典を見ることだ。何が面白いのか、私には全く理解できない。
学校の国語の授業で、国語辞典の使い方を学んだらしい。授業で使用する前に学校指定の国語辞典が、三冊提示された。出版社は同じもので色違いなだけだ。
「開はどれにする?」
と尋ねると少し迷った後、「これ!」と緑色のラメで〝国語辞典〟と印字されているものを指差した。
学校の授業で国語辞典の使い方を習った後、宿題でも辞典を使って意味を調べる宿題がいくつか出たみたいだ。
毎日、帰宅後、真剣な眼差しで辞典をめくる息子。
なんか、辞典見過ぎじゃない? と思ったのは最近だ。ランドセルをリビングに放り出すと、自分の部屋から辞典を持ってくる。そして静かに眺める。何がそんなにおもしろいのか謎だ。
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黙って見てくれていればいいものを、最近は気になる言葉があると私に説いてくるようになった。
「合縁奇縁。パパとママはそうだよね」
アイエンキエン? 何だそれ。
「どういうこと?」
「合縁奇縁とは、『環境や性格が違う物同士が、ふとしたことから親しくなり、夫婦あるいは親友となり一生変わらないこと』だよ。だから、パパとママはそういうことだよね」
息子は人差し指で天井を指差し、はきはきと説明し、うんうんと納得したように頷いている。
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別の日。
「あのホールは、そういうことかぁ」と独り言にしては大きな声で息子が言う。
「ママ、駅の北側に市立アルカイックホールってあるでしょ?」
「うん。それがどうしたの?」
市立アルカイックホールは中ホールと大ホールがあり、成人式やちょっとしたコンサートが催される。
「アルカイックの意味はね『技術的には未完成だが、おおらかさ、風格を内部にたたえている様子』だから、あのホールは中に入らない限り、未完成のものに過ぎないんだね」
ふむ、と頷き息子は辞書を閉じた。辛口の批評だ。
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「せいはい と せいばい (成敗)」
別の日、またもや静かに呟く息子。
「どちらも同じ字を書くのに、〝せいはい〟は〝成功するか失敗するか〟二分の一で助かる確率がある。一方で〝せいばい〟は〝重い罪を犯した罰として、打首にすること〟なんて、死しか待ってない意味になるなんて、何だかなぁ」
顎に手をやり唸っている。そっとしておこう。
翌日は「便……便……」と呟いた。
私はそれを聞き逃さなかった。〝便〟なんて下の言葉まで丁寧に読み込んでいるのか! もしかしたら、そこには便の意味が遠回しに説明された後、〝同義語 糞〟なんて書かれているかもしれない。
息子がそんな言葉を使うのは嫌だ。だが、それは私の思い過ごしだった。息子が見ていたのは〝便〟ではなく、〝便便〟という言葉だったようだ。
「便便。一、ただ時間だけが過ぎる様子。二、太って腹が張り出している様子。〝便便たる太鼓腹〟パパのことだ」
勝手に例文まで作り出した。将来、言語学者になったらいいのに、なんて思い始める。
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クリスマスが近づく頃。
「トナカイは、寒い地方に住む大型の鹿。
それなら日本のサンタさんのソリを引いているのは、普通の鹿かもしれないね。だって日本は北極圏ほど寒くないでしょう?」
あながち間違いではないと思うが、サンタクロースを信じる無邪気さを、もう少しの間持っていて欲しいと思う私にとっては、息子の成長の寂しさを感じるひとときだった。
明日は何を語るのだろう。
読んでいただき、ありがとうございました。






