勇者と聖女の別離 魔王城にて
勇者コウキの持つ剣がついに魔王の胸を貫き、その聖なる光によって悪しき肉体の封印に成功した時、勇者の後ろで戦いの一部始終を見守っていた聖女ソフィアは、これで全てが終わったのだと思った。
魔王の脅威は去り、王国は救われ、これからは希望に満ちた復興の日々が待っているのだと。
それを成したのは、目の前にいる一人の勇者。
いずこからともなく現れ、ソフィアや仲間の戦士たちを率いて、度重なる魔物たちの襲撃や陰謀を跳ね返し、諦めることを知らぬ不屈の闘志で、ついに魔王を討ち果たした寡黙な青年。
彼には世界を救ったというその栄誉を一身に浴びる権利がある。
「コウキ様」
けれど、彼女の呼びかけに振り向いた勇者からは、解放感も達成感もまるで感じ取れなかった。
その顔に浮かんでいたのは、絶望と喪失、孤独と悲痛、おおよそそんな負の感情ばかりであった。
「どうなされたのです」
ソフィアは声を励ました。
「魔王は再び長き眠りについたのでございます、勇者様の聖剣の力によって」
すでに瘴気は去り、魔王城の玉座の高窓からは久方ぶりの眩しい太陽の光が差し込んでいた。
「王国は救われたのです」
「ああ」
勇者はその言葉に初めて自分の浮かべなければならない表情を思い出したかのように微笑んだ。
「そうですね」
勇者の身体は、魔王の熾烈な攻撃に激しく傷ついていた。けれどソフィアには、勇者の先ほどの表情が、そのせいであるとは思われなかった。
「何か、ご心配事がおありですか」
ソフィアは尋ねた。
世界を救ったのだという喜びに震え、勇者の胸の中に飛び込んでいきたいという衝動は、彼の悲壮な表情の前に消え失せていた。
代わりにソフィアの胸に湧き上がったのは、言い様のない不安であった。
「私は」
コウキは躊躇いがちに口を開いた。
「この世界の人間ではないのです」
「えっ」
「魔王を倒すためにこの世界に呼ばれた、別の世界の人間なのです」
突拍子もないことを言い出した勇者の顔は、やはり真剣そのものだった。
ともに苦しい旅を続けてきたソフィアは、知っていた。この勇者は、そんな冗談を言う男ではないということを。
「勇者様が、別の世界からいらっしゃった方」
驚きはあったが、やはり、という気持ちもどこかにあった。
この世界のどの民族とも違う髪や目の色。時折口にする、聞いたことのない文化や風習。
そうした今までの微かな違和感が、コウキの言葉によってはっきりと答えを得た気がした。
「もっと早くに言ってくださればよかったのに」
「言えなかったのです」
コウキは笑顔のままで言った。
こんなに寂しい笑顔があるのだろうか。ソフィアの胸は詰まった。
「魔王を倒すことが、私がこの世界に呼ばれた意味。魔王を倒せば、もう役目は終わりなのです」
「終わりというのは」
また不吉な予感が募った。ソフィアは勇者の顔を見上げる。
「それは、つまり」
「もう私はこの世界にはいられないのです」
勇者は言った。
「聖女ソフィア。あなたとも、お別れです」
「そんな」
ソフィアは絶句する。
「元の世界で、私は取るに足らない人間でした」
不思議に穏やかな笑顔のまま、コウキは続けた。
「平凡のその下のさらに下。何をしてもうまくいかず、誰の期待にも応えられず、惨めに地を這うばかり。そんな人間でした」
「そんな。勇者様はそんな方では」
首を振るソフィアを勇者は静かに制する。
「そんな私でしたから、本当に驚いたのです。この世界に呼ばれ、勇者として魔王を倒して世界を救え、などと神に言われて」
けれど、と言って勇者は血に塗れた己の右手を見た。
「この世界の私には、人々の期待に応えられるだけの力がありました。元の世界と違い、この世界では私は人々の期待を裏切らずに済む。そのことが嬉しかった」
「勇者様」
「期待に応えることが本当に楽しかった。そのためならどんな辛いことにだって歯を食いしばれた」
そう言うと、コウキは目を伏せる。
「分かっていました。魔王を倒せば私は元の世界に帰らねばならない。また何の取り柄もない惨めな今までの自分に戻らなければならないと。だから、魔王を倒さずにどうにかこの世界に残ることはできないか、などと考えたこともありました」
そんな素振りを、勇者は微塵も見せたことがなかった。
ソフィアの知るコウキは、どんなに苦しい状況にあっても黙々と剣を振るい、己の力で道を切り開き、人々に希望を与え続けてきた真の勇者だった。
「けれど、だめでした。私はどうしようもない見栄っ張りなのです。この世界のみんなの期待を裏切ることができなかった。それに」
勇者はソフィアを見た。そんなに弱々しい勇者の目を、ソフィアは見たことがなかった。
どんな強大な魔物に対しても、決して怯むことがなかった勇者コウキ。
それなのに、この目は。まるで怯えた子供のような。
「私はあなたに失望されたくはなかった」
意外な言葉に、ソフィアは目を見開く。勇者は自分の言葉に恥じたように微笑んだ。
「あなたに、自分が本当は惨めな人間なのだと知られたくなかった」
「勇者様」
ソフィアは己の立場も忘れ、思わず勇者の胸に縋りついた。
「あなたをお慕いしておりました」
ソフィアは言った。
「どんな時も穏やかな笑顔を絶やさないあなたを。誰にも成し得ないことをしているのにそれを決して誇らないあなたを。魔王を倒した暁には、勇者様とともに穏やかな日々を送ることを夢想したこともございました」
「私もあなたを大事に思っていました」
勇者はソフィアの背に自分の腕をまわそうとしたが、しばしの逡巡の後、やはり腕を下ろした。
「魔王との戦いに、あなたに来てもらったのもそのためです。あなたの前では惨めな姿を晒すわけにはいかない。あなたの前では私は勇者でいなければならない。もはや私はあなたに見守ってもらわねば、勇者たり得なかったのです」
「見守るなど」
ソフィアは首を振る。
「私の力など、何のお役にもたちませんでした。魔王のあれだけの攻撃を全て受け止めて、それでも勇者様は倒れなかったのです。聖剣を魔王の胸に突き立てたのは、紛れもなく勇者様ご自身の力ではありませぬか」
「言ったでしょう。私はどうしようもない見栄っ張りだと」
勇者は弱々しく笑った。
「私が負ければあなたも殺される。それだけは避けねばならなかった。自分をそこまで追い込まねば、私は勇者として魔王と戦えなかった」
そこまでしなければ覚悟できぬほどにこの世界に残りたかったのです、と勇者は独り言のように言った。
「コウキ様は、私にとってはいつだって勇者でございました。これからだって」
顔を上げてそう言ったソフィアは、己の目を疑った。
勇者の姿がぼんやりと薄れ始めていた。
「時間が来たのです」
勇者は寂しそうに言った。
「ありがとう、聖女ソフィア。どうか元気で」
勇者の姿が消えていく。
そんな。
一瞬の驚きは、すぐに強い決意に変わる。
させない。
こんな哀しい思いをさせたままでの別れなんて。
ソフィアは勇者から身体を離し、両手を掲げた。
疲れ切った身体の全ての力を注ぎ込む。
聖女の力。奇跡の発現。
消えかけていた勇者の身体が、この世界に繋ぎ止められた。
「これは」
勇者の目が驚きで見開かれる。
「まだ行ってはいけません、勇者様」
ソフィアは言った。
「この世界の皆が、勇者様にお礼を述べておりません。ともに帰りましょう」
「神の刻限を引き延ばすとは、さすがは聖女ソフィア」
勇者は微笑んだ。
「ですがあなたの力をもってしても、神はそこまでの時間を与えてはくださらないでしょう」
「勇者様」
ソフィアは首を振った。
「あなたの本当の声をお聞かせください。私に、どうか」
ソフィアは勇者の傷ついた顔を見上げる。
「それとも私を信じることはできませぬか」
その真剣な眼差しに、不意に勇者の顔が歪んだ。
ひどく幼い、子供の泣き顔のような顔。
今までの勇者を考えれば想像だにできない表情だったが、ソフィアにはそれさえも愛おしかった。
けれど、勇者がそんな顔を見せたのはほんの一瞬のことだった。
「ありがとう、ソフィア」
微かに震える声で、勇者は言った。
「それでは、一つだけわがままを言ってもよいでしょうか」
「何なりと」
ソフィアは頷く。
「何なりとお申し出くださいませ」
勇者は一つ、息を吐いた。
「あなたと離れたくない」
コウキは言った。その声が悲痛にひび割れていた。
「あなたをこのまま奪い去って、どこかへ逃げてしまいたい」
「私もでございます」
ソフィアはもう一度勇者の胸に飛び込んだ。
「奪い去ってくださいませ」
今度こそ、勇者はしっかりとその身体を抱き締めた。
「勇者様」
「ソフィア」
どちらからともなく、口づけをかわす。ソフィアの初めての口づけは、血の味がした。
「勇者様」
激情のままにもう一度口づけをし、ソフィアは熱い吐息を漏らした。
「このまま二人でどこかへ、神の手の届かぬ所へ」
「ありがとう、ソフィア」
目の前にいるはずの、きつく抱き合っているはずの勇者の声が遠ざかった。
「勇者様?」
聖女の張った結界が、神の御手によって剥がされ始めていた。
「いけません、勇者様」
ソフィアは勇者の身体を必死に抱きとめようとするが、まるで砂を掴んでいるような覚束ない感触だけが残る。
「あなたはこの素晴らしい世界を生きてください、ソフィア」
勇者はソフィアの頬を優しく撫でた。もうその顔は、ソフィアのよく知る勇者コウキそのものだった。
「あなたのおかげです。こんな私にも誇れるものが一つだけできた」
「勇者様!」
「幸せに。ソフィア、どうか幸せに」
その言葉が最後だった。
気付けばソフィアは一人、静まり返った魔王城に立っていた。
そっと自分の頬を手でなぞると、まだかすかにコウキの手の温もりが残っていた。