1-7 支配者
「何言ってるの……?」
絶望から視線を逸らし手元を見る。深爪気味に切り揃えられた爪が血の気を失ったように白んでいた。
あやめちゃんはもう立ち直っていた。勝者、敗者と醜い喜びに身を任せている間に桜火王様への殺意を取り戻していた。
視界が再び滲む。仄暗い喜びよりも明るい何かが私の心を確かに温めていた。
「ここだけは譲れない。私の押しつけだろうと、絶対にだ」
「やめてよ。私は自分で選んだんだよ。色々あったけど自分の未来だと受け入れて生贄になるって」
「選んだんじゃなく強制でしょう。それだけは確実に言える。サクラちゃんに死んでほしくない、絶対に」
「それは私も一緒だからやめてって言ってるの! 何も知らない癖に!」
組んだ手を解いて私はそれでも叫ぶ。あやめちゃんが譲れないように私も譲れないのだ。
あやめちゃんが桜火王様に殺されてしまう。あの土地で産まれていないがために呪いから逃れ自由に生きていけるあやめちゃんが私のせいで。それだけは避けなければならない。
「何もって……言ってくれなきゃわかんないよ」
「それは……」
「私の知らない何かが、桜火王にはあるの? 年寄り達が何度も聞きたくもないのに聞かせてくれた残虐な昔話よりも恐ろしいものが?」
全身が氷漬けになったように強張る。唇の裏側を思わず噛みそうになった。
脳内にあの時の光景がまた蘇る。
花びらが舞う。のたうち回り倒れるあの人達。覆う花びら。
場面が変わる。
斧。血飛沫。悲鳴と駆け寄る私。
すべてが終わった後に浴びせられた罵声と冷笑。
「サクラちゃん?」
心配げにあやめちゃんが首を傾げる。身体が汗ばむのに冷たい。息を吸っているはずなのに息苦しく、指の端が痺れてきた。
「大丈夫、大丈夫だから……」
立ち上がり駆け寄ろうとするあやめちゃんを力を振り絞り手で制止する。思い出すだけで吐き気のする光景だけど、ここまで来たら語るしかない。あやめちゃんが毒桜吹雪や呪根元絞めや炎花葉の餌食にならないためには「脅す」しかなかった。恐怖という根源的な感情で殺意を塗りつぶし納得してもらいたい。
壁にかかった時計をちらりと見やった後にグラスのお茶を一気に煽る。勢い良く空のグラスをテーブルに叩きつければあやめちゃんが持っているような蛮勇の勢いが私にも宿ったようだった。
もう少し。もう少しだから。
「話すよ。だから諦めて。……長郷君の家の話、さっき出たよね」
「ああ、うん。ペットの犬を生贄に頼まれて、そのまま……。あの残虐殺人桜、長郷君が泣き叫ぶのを楽しんでいたんだ」
忌々しげに舌打ちをあやめちゃんがした。
「その後、長郷君一家皆引っ越しちゃったよね?」
「央齢村の陰湿ないじめのせいでね」
「違うの。……長郷君と、長郷君の両親は桜火王様に殺されたんだよ。だから引っ越したんじゃない。三人の遺骨は桜火王様の根元に埋まっている」
あやめちゃんが目を瞬かせた。
「桜の木の下に……ってそんな、昔の小説じゃないんだから。大体解体した牛の死体を埋めるのと人間の遺体を、しかも三人分も埋めるのなんて全然意味合いもできるかの難易度も違うでしょう。村の誰かが埋めたの? 死体遺棄は立派な刑法で裁かれる罪で」
「央齢村の一部の大人達ならそれくらい誤魔化せるよ。実は役所も死因は事故として死亡届は受理してる。あ、勿論死亡診断書を書いたのはあやめちゃんのお父さんじゃなくて村長や炎花家が懇意にしてる人だから。私達は引っ越したって聞かされてたけど、葬儀を裏で行ない骨壺を墓から暴いたんだって」
「役所の上の人間と村の権力者と懇意にしている医者……そんなに大勢の人間がグルだっていうの?」
「うん。とにかく桜火王様の根元には長郷君一家の骨壺がある。近しい親戚が皆うちの村産まれだからできたんだろうけど」
「疑問や不信感を抱いて調べる奴がいないってことか」
発した言葉と同じく、不信感を隠しもせずにあやめちゃんはテーブルの上で腕を組み視線を自分の手に落としていた。
「とにかくだよ。私が言いたのは、あやめちゃんがどんな方法で桜火王様を倒そうとしているかわからないし『方法が間違っていた』って言ってたけど、もしかして除草剤を使おうとしていないかな? それなら駄目だよ。だって長郷君一家がそれをやって……それを」
脳裏に光景が過ぎる。貧乏ゆすりのように右足が震え、苦い味が喉奥からせり上がり口元を押さえた。
「サクラちゃん!」
「平気! 全部、全部話すから」
瞼の裏の薄桃の花びらを掻き消すように瞳を開ける。構わない。嘔吐しようが何だろうが、伝えると決めた。私が選択したのだ。
「長郷君一家は……ペットの犬を生贄にされた後、敵討ちのために桜火王様を倒すと決めたの。でも、長郷家だって立派な央齢村の住民。当然の如く桜火王様の恐ろしさも知っていて……つまり昔の人々がやった方法では倒せないと考えたみたい」
「木を切り倒す、あるいは燃やす……」
「うん。木を切り倒そうとした者は呪根元絞めで、燃やそうとした者は炎花葉。それからお祓いをしようとした者は毒桜吹雪で皆殺されてしまった。全て必殺の桜火王様の奥義だと私達は何度も教わって育ってきた。それでも家族を奪われた悲しみは長郷家を豹変させてしまったの」
「ちょっと待って。何でアンタはそんなことを知ってるの」
「ついて行ったんだよ、桜火王様を倒そうと炎花の森に向かおうとしているのに」
「ついて行った?」
「あの日、何となく夜に窓から外を見てたらずっと家に引きこもっていた長郷君が両親と歩いていたのをたまたま見つけてしまって……。ずっと学校に来なかったでしょ? だから久し振りにお話しできるんじゃないかと思ってこっそり家を抜け出したの」
夜道が古い映画のように脳内で再現される。塞ぎ込んでしまった長郷君及びその一家とは関わるなと周囲から釘を刺されていた。それでも、小学校に通っていた頃の長郷君は優しくて勉強ができて一緒にいて楽しい子だったのだ。だからこっそり後ろをついて行った。もう一度仲良くしたい。あわよくば央齢村の皆と長郷家に仲を取り持てたらと浅はかにも願っていたのだった。満天の星空の下、住宅が寄せ集まった区域を抜けて畦道に出る。梅雨の真っ只中の晴れた夜はじめじめとTシャツを肌に張りつかせ、むせ返るような土の匂いが充満していた。ぽつぽつと配置された電信柱の影から親子三人を眺めていた。頭上の街路灯に飛びつく蛾に少し怯えながら、話しかける機会を狙ってひっそりまだ小さかった足を進めた。
「そうして後をつけて行けば炎花の森に辿り着いた。勝手に入っちゃいけないって口を酸っぱくして言われている場所なのでさすがに躊躇ったけど、その時はまだ桜火王様の恐ろしさをちゃんと理解していなかったから。だから森の真っ直ぐ伸びたあの細い入口を長郷家の皆が入っていくのを見届けた後に、私は少し離れた獣道にすらなってない場所から森へ侵入したの。森に入った途端一気に周囲が暗くなって怖かったな。普段の央齢村って星や月に照らされて夜でも明るかったんだって思った」
「迷子にならなかった?」
「なったよ。怖かったから帰ろうともしたんだけど、帰り方もわからないくらい暗くて半泣きになりながらとにかく足を動かしてたって状態だったと思う。そうしたらやがて木と木で遮られた真っ暗な視界の先に月みたいに明るくてもっと大きい光が見えた。もうその時は長郷君一家のことなんか忘れて惹かれるようにそっちに走り出していたの」
「明るい……まさか」
「うん。夜のみ一年中光り輝く火の粉のような桜の花を咲かせる……桜火王様。子どもは毎年の炎花の儀は昼に参加でしょう。だから花が咲いているのは初めて見たかな。光が桜火王様だと気づける距離まで近づいて……そうしたら風も無いのに桜火王様の枝が揺れ出したの」
一拍置いて私は一番肝心なところを覚悟を決めてあやめちゃんに告げた。
「尋常じゃない量の桜の花びらが桜火王様の根元の『何か』に目がけて一直線に降り注いでいた。そしてそこから三つの……悲鳴というより無理やり固い物を引き裂いたような音が聞こえてきたの。怖かったけど少し太めの幹から顔を出して桜火王様の根元の何故か動いている積もった花びらの山を覗き込んだ。……長郷君一家だった。花びらに纏わりつかれ絶叫と嘔吐を繰り返しながらのたうち回っていたの」
「毒桜吹雪……!」
私は恐る恐る頷く。桜火王様の必殺奥義が長郷君一家を襲っていた。光る花びらがまるで意思を持っているかのように一直線に三人に襲い掛かり全身に纏わりつく。身動きが取れないほど花びらの重量で獲物を圧迫して倒れ込んだ後はまるでその姿を消すかのように更に花びらまみれにしていった。
「口から桜の花びらを吐き出しながらやがて身体をびくびくと痙攣させてそれで……」
俯けばあやめちゃんの息を呑む音がした。私は三人の命が桜火王様の手によって奪われる瞬間を確かに目撃してしまったのだ。猛毒が染み込んだ花びら。桜火王様はそれを無限に出現させ粘膜から人間に摂取させるのが可能だ。
「もしかしてアンタが……村の中でも過剰なくらい桜火王を恐れていたのって」
眉根を寄せ唸るあやめちゃんに私は首を横に振る。
「それだけじゃないの。長郷君一家……というより桜の花びらまみれの人間だった物が動かなくなった後、私はその場に蹲り震えていた」
「当然だよ。人が死ぬ瞬間、ましてや殺される現場を見たんだから」
「震えながら大人達が言っていることが真実だとやっと気づいてしまった。あの時の小学生だった私はまだ桜火王様の存在を本当の意味では信じていなかったから。だって大人達が言う桜火王様の話、唯一映るテレビ局で繰り返し放送されているアニメの化け物より荒唐無稽でしょう。今となっては本当に『アニメ』であってほしかったけれど」
「心霊番組の幽霊扱いだったよね。何かあったら怖いから森には近寄らないけど、話半分でどこか疑っていたというか。……というより大声で怒鳴ってくる大人達が怖いから信じている振りをしていたの方が正しいかも」
拳骨、痛いじゃん。とあやめちゃんが不貞腐れたような声を出す。そういえばあやめちゃんは大人達に叱られている常連だった。私達のように産まれた時からあの地に縛られていない、外からやって来た者であるが故に少しだけ浮いていてそれが央齢村の伝統を重んじる大人達の癇に障ったらしい。今考えれば引っ越しは必然だったのかもしれない。
「……でもね」
少しだけ息をしやすくなった部屋の雰囲気が、私の一言でまたじとつくような熱気とゾッとするような冷気が混ざった空間へと引き戻される。あやめちゃんも私も少しだけ緩んでいた口元を引き締めた。
「本当に怖いのはここからね。私、怖くてどうしていいか迷ってとにかく逃げなきゃって思ったの。もう長郷君のことなんかどうでもよくて自分がああなりたくないって気持ちだけで見つからないように忍び足で離れようとしたのね。そうしたら声がした。中性的で透き通るような冷たい──桜火王様の声だった」
「声を聴いた?」
あやめちゃんが驚きから声を張る。私は震えを誤魔化すように小さく頷いて矢継ぎ早に続けた。
「『小さな獣一匹のために歯向かうとは……除草剤で殺せると思ったか』ってまず一言。思わず振り返って見たら花びらの山の隣に除草剤が入ったポリタンクと電動ドリルが転がっていた。私びっくりして動けなくなっちゃって……ただそこで長郷君達がワンちゃんの敵討ちに桜火王様を除草剤で枯らそうとしているのを理解したの」
「だから除草剤は不正解だと言いたいの」
「うん。そのまま立ち竦んでいたら……風も無いのにまた花吹雪が舞った。夜桜っていうのかな? 世の中の大半の人は綺麗だと認識するそれが木の陰に隠れている私の所までやってきて遂に声を出しちゃった」
「毒……だもんね」
「そうしたらケラケラと笑い声が……桜火王様が笑って『そこの娘』って。嘲るような、心底愉快そうなそんな声で『今日のことを誰にも言うな。黙って帰ればこの森に立ち入った罪は不問にしてやる』って囁かれたの。三人も殺した後とは思えないくらい楽しそうで、もういっぱいいっぱいでその場に座り込んじゃった。そこからはよく覚えていない。ただ、目が覚めたら家の布団の中にいて大人達もいつもどおりだった。私が夜家を出たことも、長郷君一家が皆殺されたことも誰も知らないみたいでその三日後くらいに突然、長郷君一家が夜中に引っ越したってお母さんから聞かされたのを覚えている」
恐らく泣きながら長郷君達が使った参拝のための一本道を通って家まで走ったのだ。今ではそう解釈している。
「突然だったよね。学校でも急に『長郷君は引っ越しました』って。今考えれば誰かが遺体を発見して処理や諸々の目処が立ったのが三日後くらいだったんだろうな」
「うん。だからあやめちゃん……やっぱり桜火王様を倒すなんてやめてよ。あやめちゃんが長郷君一家みたいに毒桜吹雪で返り討ちに遭うのも……それから私のお父さんみたいになるのも見たくない」




